初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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JJF2012 のダイジェスト映像祝完成!
これでJJFの参加者やジャグリングを始める人が増えるととても嬉しい。
どんなふうな映像にするともっと良いかコメントもとむ!
なおJJF2012 ハイライトDVDも鋭意制作中、チャンピオンシップ映像全収録の2枚組!
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昨日とうってかわって今日は晴れ、野毛大道芸を見に行った。
メインはのぢぞうさんと横浜大道芸倶楽部の皆さんね。
のぢぞうさん、マイムがきれいいですわ。パッシングによる客いじりと、
人間椅子の客いじりもあり、ひとりでうまく時間を配分されてます。
そして暑いのでビール!野毛の地域経済に貢献ですw
次は横浜大道芸倶楽部、こちらは大人数。
キャスト総出のオープニングのあたりとか祝祭的でいいですよねえ。
ダブルダッチも見事でした。へすちばるの時より進化してます。
はんどくんは一番場馴れしてる感じ、風格すらあるというか末恐ろしい。
さてショーがおわった後は邪魔にならない場所で、松岡さんにトリックロープを教わる。
短いロープでもきれいに潜り抜けられるものですねえ。
肩の上をするっと輪っかが通り過ぎていくのです。
ループが美しい。
なんといいますかうまいひとの見てると全然難しくみえないのよね>トリックロープ
これがまたパフォーマンスとしての課題になることも。。。
はい、頑張って精進します。
最後は再度野毛の地域経済に貢献、乾杯!ビールが美味しゅうございました。
書名:中国戯劇の歴史的研究
著者:川上忠雄
出版社: 高文堂出版社; 増補秘蔵版版 (1989)
ISBN-10: 4770701403
中国の古い歌舞音楽と演芸の歴史的研究を記述したもの。
興味深かったのは、漢魏南北朝の雑戯、宋代の傀儡戯と雑劇、
補遺・隋唐宋の雑戯、の三章。
漢代の雑技
224ページ
--
漢の李尤の「平楽観賦」には跳丸・飛剣・倒立・角力戯が記されている。
跳丸はいくつもの玉を空中に投げては手で受け止める伎芸である。
。。。
飛剣は二本の剣を空中に投げて受け止める伎芸である。「西京賦」には
「跳丸剣之揮霍」とあるが「揮霍」は「はやいさま」である。
--
魏晋南北朝の雑戯
234ページ
--
擲戟。擲戟は戟(ほこ)を投げとばす意であるから、跳丸飛剣のように
手玉にとる戯である。ほこは長いので、よりむずかしいものであろう。
舞輪。跳丸のように空中にニ、三の輪を投げて手玉にとる戯を二人で競う。
--
唐の雑戯
338ページ
--
舞輪伎は漢代以来のものだが、今の戯車輪伎の類である。
跳丸のように空中にニ、三の輪を投げて手玉にとる戯を二人で
競うものである
--
339ページ
--
さらに、弄椀珠伎という、はちまわし、さらまわしの伎があった。
これとて梁代以来のものである。
--
340ページ
--
五代蓉宗(710-712)のときにインドから散楽人がきたが、それは
倒行して足で舞う伎や、鋭利な刃鋒を地に立て、その上に腹這いに
なり、刃を目につきさして瞼から背につきぬけさせ、腹の方で
ひちりきを吹く、曲が終わってもその人間には何等損傷もないといった
妖術、
--
昔からすごい奇術ってあったのね。みてみたい。かなりグロかも。
341ページ
--
蹴毬戯といった競技が流行しはじめた。蹴毬戯は二本の長い竹を建て、
上に網をとりつけて門とし、毬を蹴ってその高さを越すのであるが、
これを毬工が左右の組に分かれて勝負を競った。
--
宋の雑戯
350ページ
--
蹴瓶伎は瓶(酒をいれるかめ)まわしである。瓶を蹴って鉄鋒に
のせると、瓶はその杖端にのって旋回する伎である
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著者:川上忠雄
出版社: 高文堂出版社; 増補秘蔵版版 (1989)
ISBN-10: 4770701403
中国の古い歌舞音楽と演芸の歴史的研究を記述したもの。
興味深かったのは、漢魏南北朝の雑戯、宋代の傀儡戯と雑劇、
補遺・隋唐宋の雑戯、の三章。
漢代の雑技
224ページ
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漢の李尤の「平楽観賦」には跳丸・飛剣・倒立・角力戯が記されている。
跳丸はいくつもの玉を空中に投げては手で受け止める伎芸である。
。。。
飛剣は二本の剣を空中に投げて受け止める伎芸である。「西京賦」には
「跳丸剣之揮霍」とあるが「揮霍」は「はやいさま」である。
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魏晋南北朝の雑戯
234ページ
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擲戟。擲戟は戟(ほこ)を投げとばす意であるから、跳丸飛剣のように
手玉にとる戯である。ほこは長いので、よりむずかしいものであろう。
舞輪。跳丸のように空中にニ、三の輪を投げて手玉にとる戯を二人で競う。
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唐の雑戯
338ページ
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舞輪伎は漢代以来のものだが、今の戯車輪伎の類である。
跳丸のように空中にニ、三の輪を投げて手玉にとる戯を二人で
競うものである
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339ページ
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さらに、弄椀珠伎という、はちまわし、さらまわしの伎があった。
これとて梁代以来のものである。
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340ページ
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五代蓉宗(710-712)のときにインドから散楽人がきたが、それは
倒行して足で舞う伎や、鋭利な刃鋒を地に立て、その上に腹這いに
なり、刃を目につきさして瞼から背につきぬけさせ、腹の方で
ひちりきを吹く、曲が終わってもその人間には何等損傷もないといった
妖術、
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昔からすごい奇術ってあったのね。みてみたい。かなりグロかも。
341ページ
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蹴毬戯といった競技が流行しはじめた。蹴毬戯は二本の長い竹を建て、
上に網をとりつけて門とし、毬を蹴ってその高さを越すのであるが、
これを毬工が左右の組に分かれて勝負を競った。
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宋の雑戯
350ページ
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蹴瓶伎は瓶(酒をいれるかめ)まわしである。瓶を蹴って鉄鋒に
のせると、瓶はその杖端にのって旋回する伎である
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書名:遊戯から芸道へ―日本中世における芸能の変容
著者:村戸弥生
出版社: 玉川大学出版部 (2002/02)
ISBN-10: 4472402653
内容紹介:日本中世、芸能の語義は「技術・才能」といった広義の芸能から、現代的語義である「歌舞音曲」といった狭義の芸能へと変容する。この変容は、なぜ、どのようにして起こったのか、その理由を考究するための一視点を提出する。
蹴鞠を中心に中世の遊戯から芸道への変遷を解説している。
途中に起きたのが散楽的技術の否定、つまいパフォーマンスとして上手なものはかならずしも
良いわけではないということ。
貴族階級に流行ったばっかりに、貴族ができること(技術的にはたいしたことないもの)がよしとされてしまった。落とさないことが前提のスポーツで落としてよし!にするのだからすごいもの。
まあそこがスポーツから「芸道」にはいる瞬間のひとつなのかも。
しかし下々も舞いと合体させることでより優美な方向に突破口を見出したという感じのようだ。芸道になる段階で技術的な方向性はかなりよじれたらしい。
そこでまた口伝化というプロセスがはいり物語が語られて演劇へ一歩近づいていく、、
かなり興味深いプロセスだと思う。下臈の蹴鞠は、文章を読む限りにおいては今でいうフリースタイルフットボールにかなり近い。曲鞠と蹴鞠がもとは同じものだったとしてもおかしくない、というか庶民においてはずっと同じものだったのかもね。
--ここから引用75ページ 「散楽的技術の否定」--
蹴鞠は下臈文化を基盤とし、数を上げることを最大の眼目とする。数の追求が進めば、どんなところに飛んだ鞠でも上げられるょうに技術も高度化する。これに観客意識が介入してくれば、最終的にはアクロバティック•散楽的な技術が現れることになる。院政期は、そのような下臈鞠と上臈鞠がせめぎあい、二者択一か融合止揚かを迫られた時代である。それは下臈のなす散楽的な技術を認めるかどうか、という問題において最も顕著となる。
蹴鞠の代表的な散楽的技術に、躍足(おどりあし)という跳躍しながら蹴る技がある。以下『口伝集』のなかにある躍足関係の口伝を抜き書き、当時の人々の蹴鞠観を明らかにしたい。
(略 次は80ページ)
これは、上下臈が同じ懸に集うときに起こってくる問題である。晴の会意識が強くなるにつれ、ますます下臈の方に上臈への配慮が要求されてくる。下臈はいかに上手であっても出しゃばらず、上臈をフォロ—するのが役回りで、烏帽子を蹴り落とすなどとんでもないとする。想像を逞しくすれば、源九はおそらく故意ではなく、興に乗って躍足を披露し折悪しく落としてしまつたものと思われるが、下臈鞠足にとつては自らのアイデンテイテイともいうべき散楽的技術の是非が問われる大問題であったろう。そこでsの成平のょうに、できるけれど人に披露するょうな意味ではやらない、どうしても必要なときだけやる、といつたあり方が出てくる。出しゃばらない、といつた消極的理由でまず否定されたのである。この方向は下臈鞠を喪失させ、上臈好みの新たなる蹴鞠のあり方を模索させることになる。そのとき下臈にとつて散楽的技術否定に積極性をもつことになろう。
(87ページ 7 芸道たる姿態)
蹴鞠は、下臈文化に基盤をもつ「あそびごと」であった。遊戯が芸能として認識されることで、上臈鞠•下臈鞠の区別も認識されてきた。芸道化の一歩は、遊戯に近い下臈鞠の否定から始まり、その動きは上下臈双方から起こった。結果、上臈鞠と下臈鞠の止揚が起こり、上臈向けの新しい蹴鞠のあり方が創出された。それは、院政という新政治体制と密接なかかわりをもち、その確立とともに下臈鞠は社会的に切り捨てられる。芸道になるということは、その文化が社会的公認を得、家職化への志向が起こること、そしてその芸道の〈家〉ができることである。小西甚一は、〈道〉を専門性•継承性•規範性•普遍性•権威性といった各種の性格によって規定する。そのような性格は、まず〈家〉成立への志向をもって起こってきたものであろう。
----279ページから引用---
ニ章から四章では、広義の芸能の範疇にある蹴鞠の、遊戯から芸道への変容について述べた。そもそも院政期初頭、蹴鞠流行により、上下臈が同じ蹴鞠の場に集うことから問題は起こってくる。蹴鞠遊戯では鞠を落とさないことが大前提である。後に名人といわれる鞠足たちの若年時代と重なる、躍足時代には、成通の千R鞠説話にうかがわれるように、落とさないために鞠足個人が身体技術的に努力をした。「落とさない」が「落としたくない」「落としてはいけない」ともなれば〈道〉ともなろう。ところが歩む文化のなかにいて走る身体を基本的になさない上臈は落とすことも多かったろう。「落とす」といった遊戯における絶対的矛盾をいかに合理化するか。そこに不二思想的発想の介在がある。それを理論的支柱として「落とす」が「落としてもよい」となれば、上臈鞠と下臈鞠が分離していくことになる。延足時代はそこに訪れる。
上臈鞠と下臈鞠の分離はまた、同一の場でのゲームを成り立たなくさせる。そこで場を時間的•空間的に仮構していくことが起こる。具体的には鞠場の縮小化•定式化といつたことで、それは、フォーメーションやフォーム意識を形成することになった。いわば鞠場の舞台化である。鞠場の舞台化により上臈鞠は完成し、下臈鞠は社会的に否認される。蹴鞠の芸道化は、不二思想を理論的支柱にした場の変容によるといえる。芸道化により、先人の口承でなされていた口伝を書承によっても口伝化しようとする。先人の逸話も口承•書承によって口伝化し、それらは芸道の家に保持される。口伝化と芸道化•家職化は呼応する。口伝的口伝、説話的口伝といった、言葉によるものは相互に交渉しあい、ジャンルを越えて生成増幅し、故実化•儀礼化を進める一方、説話化•物語化をも進める。そういった言葉のうえでの生成再編がなされていたものを、狭義の芸能の範疇にある猿楽能など他ジャンルで形成された、舞台化された形態をもつ場でなされるようになり、テキスト化されれば、それはもはや台本と呼ばれるものに近くなる。それは演劇化のはじまりともなろう。
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著者:村戸弥生
出版社: 玉川大学出版部 (2002/02)
ISBN-10: 4472402653
内容紹介:日本中世、芸能の語義は「技術・才能」といった広義の芸能から、現代的語義である「歌舞音曲」といった狭義の芸能へと変容する。この変容は、なぜ、どのようにして起こったのか、その理由を考究するための一視点を提出する。
蹴鞠を中心に中世の遊戯から芸道への変遷を解説している。
途中に起きたのが散楽的技術の否定、つまいパフォーマンスとして上手なものはかならずしも
良いわけではないということ。
貴族階級に流行ったばっかりに、貴族ができること(技術的にはたいしたことないもの)がよしとされてしまった。落とさないことが前提のスポーツで落としてよし!にするのだからすごいもの。
まあそこがスポーツから「芸道」にはいる瞬間のひとつなのかも。
しかし下々も舞いと合体させることでより優美な方向に突破口を見出したという感じのようだ。芸道になる段階で技術的な方向性はかなりよじれたらしい。
そこでまた口伝化というプロセスがはいり物語が語られて演劇へ一歩近づいていく、、
かなり興味深いプロセスだと思う。下臈の蹴鞠は、文章を読む限りにおいては今でいうフリースタイルフットボールにかなり近い。曲鞠と蹴鞠がもとは同じものだったとしてもおかしくない、というか庶民においてはずっと同じものだったのかもね。
--ここから引用75ページ 「散楽的技術の否定」--
蹴鞠は下臈文化を基盤とし、数を上げることを最大の眼目とする。数の追求が進めば、どんなところに飛んだ鞠でも上げられるょうに技術も高度化する。これに観客意識が介入してくれば、最終的にはアクロバティック•散楽的な技術が現れることになる。院政期は、そのような下臈鞠と上臈鞠がせめぎあい、二者択一か融合止揚かを迫られた時代である。それは下臈のなす散楽的な技術を認めるかどうか、という問題において最も顕著となる。
蹴鞠の代表的な散楽的技術に、躍足(おどりあし)という跳躍しながら蹴る技がある。以下『口伝集』のなかにある躍足関係の口伝を抜き書き、当時の人々の蹴鞠観を明らかにしたい。
(略 次は80ページ)
これは、上下臈が同じ懸に集うときに起こってくる問題である。晴の会意識が強くなるにつれ、ますます下臈の方に上臈への配慮が要求されてくる。下臈はいかに上手であっても出しゃばらず、上臈をフォロ—するのが役回りで、烏帽子を蹴り落とすなどとんでもないとする。想像を逞しくすれば、源九はおそらく故意ではなく、興に乗って躍足を披露し折悪しく落としてしまつたものと思われるが、下臈鞠足にとつては自らのアイデンテイテイともいうべき散楽的技術の是非が問われる大問題であったろう。そこでsの成平のょうに、できるけれど人に披露するょうな意味ではやらない、どうしても必要なときだけやる、といつたあり方が出てくる。出しゃばらない、といつた消極的理由でまず否定されたのである。この方向は下臈鞠を喪失させ、上臈好みの新たなる蹴鞠のあり方を模索させることになる。そのとき下臈にとつて散楽的技術否定に積極性をもつことになろう。
(87ページ 7 芸道たる姿態)
蹴鞠は、下臈文化に基盤をもつ「あそびごと」であった。遊戯が芸能として認識されることで、上臈鞠•下臈鞠の区別も認識されてきた。芸道化の一歩は、遊戯に近い下臈鞠の否定から始まり、その動きは上下臈双方から起こった。結果、上臈鞠と下臈鞠の止揚が起こり、上臈向けの新しい蹴鞠のあり方が創出された。それは、院政という新政治体制と密接なかかわりをもち、その確立とともに下臈鞠は社会的に切り捨てられる。芸道になるということは、その文化が社会的公認を得、家職化への志向が起こること、そしてその芸道の〈家〉ができることである。小西甚一は、〈道〉を専門性•継承性•規範性•普遍性•権威性といった各種の性格によって規定する。そのような性格は、まず〈家〉成立への志向をもって起こってきたものであろう。
----279ページから引用---
ニ章から四章では、広義の芸能の範疇にある蹴鞠の、遊戯から芸道への変容について述べた。そもそも院政期初頭、蹴鞠流行により、上下臈が同じ蹴鞠の場に集うことから問題は起こってくる。蹴鞠遊戯では鞠を落とさないことが大前提である。後に名人といわれる鞠足たちの若年時代と重なる、躍足時代には、成通の千R鞠説話にうかがわれるように、落とさないために鞠足個人が身体技術的に努力をした。「落とさない」が「落としたくない」「落としてはいけない」ともなれば〈道〉ともなろう。ところが歩む文化のなかにいて走る身体を基本的になさない上臈は落とすことも多かったろう。「落とす」といった遊戯における絶対的矛盾をいかに合理化するか。そこに不二思想的発想の介在がある。それを理論的支柱として「落とす」が「落としてもよい」となれば、上臈鞠と下臈鞠が分離していくことになる。延足時代はそこに訪れる。
上臈鞠と下臈鞠の分離はまた、同一の場でのゲームを成り立たなくさせる。そこで場を時間的•空間的に仮構していくことが起こる。具体的には鞠場の縮小化•定式化といつたことで、それは、フォーメーションやフォーム意識を形成することになった。いわば鞠場の舞台化である。鞠場の舞台化により上臈鞠は完成し、下臈鞠は社会的に否認される。蹴鞠の芸道化は、不二思想を理論的支柱にした場の変容によるといえる。芸道化により、先人の口承でなされていた口伝を書承によっても口伝化しようとする。先人の逸話も口承•書承によって口伝化し、それらは芸道の家に保持される。口伝化と芸道化•家職化は呼応する。口伝的口伝、説話的口伝といった、言葉によるものは相互に交渉しあい、ジャンルを越えて生成増幅し、故実化•儀礼化を進める一方、説話化•物語化をも進める。そういった言葉のうえでの生成再編がなされていたものを、狭義の芸能の範疇にある猿楽能など他ジャンルで形成された、舞台化された形態をもつ場でなされるようになり、テキスト化されれば、それはもはや台本と呼ばれるものに近くなる。それは演劇化のはじまりともなろう。
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