初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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この週末は仙台にて
ホゴノエキスポ2013 ジャグリングコンベンション に参加した。
会場はせんだいメディアテーク
新しくてなかなかカッコイイ建物、市役所機能の一部、スタジオ、市立図書館などがはいっている。
参加者はだいたい20代くらいまで、それにオヤジが何人か(^^;)
午後1時からはまずゲストのYuriさんによるワークショップ。
*ボールをキャッチしたらそこで止まるのではなく、動きを殺さずに続けてみよう
*体の前の平面にとらわれない
*ボディスローは通す場所と方向それに組み合わせで可能性は無限
皆さん真剣に聞いておりました。
さてワークショップが終わり、次の講演準備!同じ建物にある市立図書館を訪れた。
立派なフロアで書籍もかなり充実していそう。ジョリオさんに講演で参照する本を
借りてもらった。私も借りられたら。。。
さてこの後は3時から私の講演(公演にあらず)
「日本ジャグリング史入門古代から江戸時代まで」
約50分間で神話の時代から江戸時代中期まで芸能史とその中での曲芸や
ジャグリングのありさまを解説した。
プロジェクタとカメラとPCを使って、パワポでキーワードを出して内容を語り、
その間に図書館で借りてきた本のイラストを時々映す。
キーワードとしては、天岩戸、伎楽、散楽、散楽戸、猿楽、田楽、放下僧、
陰陽師、相撲節会、延年、能、歌舞伎、勧進興行、門付、香具師、乞胸、
太神楽、弄丸、品玉、刀玉、輪鼓、枕返し、etc..
プレゼン資料はこちら
意外とたくさんの方々に聞いていただいてびっくり。
皆さんに満足していただけたでしょうか。
後でアンケートを取ればよかったと思ってちょっと後悔。
次に話す機会があったら、次は幕末から明治の記録ね。
残念なことに大正から昭和の記録がほとんどないのです>ジャグリング
さてお次はハイパーマンス王選手権。
まずは本郷代表による開会の挨拶。
今回は出場者8人のうち、4人が若者、そして4人がオヤジ。若者やっぱり上手。
しかしこのオヤジ代表の米屋さんはさすがストリートパフォーマ、
一段抜き出ておりましたよ。
私も出演、今回は先ほどの講演の補講(^^;)という形で、薀蓄を語りながら
曲芸をするというスタイル。いろんな道具を持ってきて並べて、まずは
祇園毬、次に豆蔵をイメージして豆と徳利とボールのカスケード。
豆は隣のコンビニで買ってきたピーナッツ。
最後には太神楽の由来を語りながら、鞠、金輪、枡の回しわけ。
いつもより余分にぼとぼと落としたOrz でも客席はかなり暖かったです。
パフォーマンスがおわると、次は投票タイム。
これがかなり過酷で、出演者各人が前に出て観客からの投票を受け取るという形式。
その場でリアルに評価がわかってしまうのですね。
発表までの間にゲストのYuriさんによるパフォーマンス、
これまたスタイリッシュです。
そして発表!
なんと2位をいただいてしまいました。若い子たちをさしおいての受賞は
嬉しくもあり、なんとなくこそばゆい。投票していただいたみなさんありがとう
ございました。
これでホゴノEXPO終了!そして打ち上げ!!
翌日も練習会でジャグリング三昧。皆さんお疲れ様でした。
2013.3 追記
この時の講演を主催者の方が文字に起こしてくださいました。
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書名:寺社と芸能の中世
著者:安田 次郎
出版社: 山川出版社 (2009/05)
ISBN-10: 4634546922
出版社/ 著者からの内容紹介:
中世後期の興福寺と春日社を中心に、そこで行われた田楽・延年・猿楽について概観し、芸能が寺社の法会や神事、僧集団や寺院経済のあり方、権力者や社会の動向との関わりを見る。
内容:(「BOOK」データベースより)
寺院や神社の境内には、清澄で落ち着いた空気が流れている。仏堂や社殿など、多くの建築が歳月をへてしぶい色をみせていることも、あの特有の雰囲気をつくりだしているだろう。しかし、かつて寺社の境内は、もっとにぎやかで楽しい場所だったかもしれないのである。法会や祭礼の日はもちろん、そうでないときにも僧侶や神官たちはしばしば田楽・延年・猿楽などの芸能を楽しんだ。多くの芸能者たちが寺社に出入りし、僧や神官、美しく装った稚児たちが芸能を鑑賞し、みずから演じてもいた。中世の寺社は、劇場でもあった。
16
足利尊氏もまた田楽に熱中した。
略
弟の直義は「天下の武将として雑戯を好み、政務を妨ぐ、前代高時の鑑、遠からず」(続本朝通鑑巻136)と兄を諫めたが、かえって尊氏は、高師直とともに政務をみるように申しつけたではないか、自分はもう余命を田楽で慰めてすごしたいといいだす始末であったという。
尊氏と田楽といえば、必ず言及されるのが桟敷崩れの田楽である。1349(貞和5)年6月11日京都鴨川の四条河原でこの地に橋を渡す費用を集めるための勧進興行として田楽が行われた。
太平記(巻27)には「このとき円形の桟敷を「三重四重に組上」た、つまり三階建て、四階建てにつくったとある。「師守記」など当時の貴族の日記にはそんなことは書いていないので本当に三階建て、四階だてだったのか不安が残るが、前評判が高くて多くの人が詰めかけたのは確かなようである。
中門口、ささら(編木)、乱拍子、刀玉、立ち会い舞が終わり、8・9歳の少年が猿の面をつけ、「御幣を差し上げて、赤地の金欄の打懸(うちかけ)に虎皮の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛び上り、左へ回(まわり)右へ曲(めぐ)り、はねかえりては上」る芸を披露したとき、「あら面白や、耐え難や」と熱狂した観衆の動きと重みにたえかねた桟敷がどっと倒壊したのである。
略
さっそく河原には「田楽の将棋倒しの桟敷には王ばかりこそ登らざりけれ」と天皇(将棋の王の連想)だけが来場していなかったという狂歌がたてられた。
36
延年は大寺院の法会の後に慰労会・打ち上げとして、また将軍や賓客の接待・歓迎行事として僧や稚児が中心となって行った芸能の総称、またその会のことである。
南都や大和では興福寺、東大寺、法隆寺、薬師寺、長谷寺、多武峯などで行われた記録がある
43ページ
論議に負けた外道は、くやしまぎれに神通力で戒賢が猫を出す。つぎにウサギをだすが、戒賢の鷹にやられてしまう。外道は最後にムカデを出すが、戒賢が鶏をだして勝負が決する。ここに登場するネズミ以下も僧が扮したもので、頭にネズミ以下の作り物をかぶったので、「被り物」といわれる。「走」あるいは「走物」ともいわれる。
56
どうも延年には面子の問題がかかわっていたように思われる
略
将軍義教も延年の有無にこだわったことがあった。
夫人が南都に下向したときに興福寺に延年を要求したが、興福寺は女性相手に延年を実施したことはないと断った。怒った将軍義教は京都でやれと命令、あわてた興福寺は夫人の宿泊先で延年を行ったが、義教は京都の室町殿もう一度延年をやれと命令した。
著者:安田 次郎
出版社: 山川出版社 (2009/05)
ISBN-10: 4634546922
出版社/ 著者からの内容紹介:
中世後期の興福寺と春日社を中心に、そこで行われた田楽・延年・猿楽について概観し、芸能が寺社の法会や神事、僧集団や寺院経済のあり方、権力者や社会の動向との関わりを見る。
内容:(「BOOK」データベースより)
寺院や神社の境内には、清澄で落ち着いた空気が流れている。仏堂や社殿など、多くの建築が歳月をへてしぶい色をみせていることも、あの特有の雰囲気をつくりだしているだろう。しかし、かつて寺社の境内は、もっとにぎやかで楽しい場所だったかもしれないのである。法会や祭礼の日はもちろん、そうでないときにも僧侶や神官たちはしばしば田楽・延年・猿楽などの芸能を楽しんだ。多くの芸能者たちが寺社に出入りし、僧や神官、美しく装った稚児たちが芸能を鑑賞し、みずから演じてもいた。中世の寺社は、劇場でもあった。
16
足利尊氏もまた田楽に熱中した。
略
弟の直義は「天下の武将として雑戯を好み、政務を妨ぐ、前代高時の鑑、遠からず」(続本朝通鑑巻136)と兄を諫めたが、かえって尊氏は、高師直とともに政務をみるように申しつけたではないか、自分はもう余命を田楽で慰めてすごしたいといいだす始末であったという。
尊氏と田楽といえば、必ず言及されるのが桟敷崩れの田楽である。1349(貞和5)年6月11日京都鴨川の四条河原でこの地に橋を渡す費用を集めるための勧進興行として田楽が行われた。
太平記(巻27)には「このとき円形の桟敷を「三重四重に組上」た、つまり三階建て、四階建てにつくったとある。「師守記」など当時の貴族の日記にはそんなことは書いていないので本当に三階建て、四階だてだったのか不安が残るが、前評判が高くて多くの人が詰めかけたのは確かなようである。
中門口、ささら(編木)、乱拍子、刀玉、立ち会い舞が終わり、8・9歳の少年が猿の面をつけ、「御幣を差し上げて、赤地の金欄の打懸(うちかけ)に虎皮の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛び上り、左へ回(まわり)右へ曲(めぐ)り、はねかえりては上」る芸を披露したとき、「あら面白や、耐え難や」と熱狂した観衆の動きと重みにたえかねた桟敷がどっと倒壊したのである。
略
さっそく河原には「田楽の将棋倒しの桟敷には王ばかりこそ登らざりけれ」と天皇(将棋の王の連想)だけが来場していなかったという狂歌がたてられた。
36
延年は大寺院の法会の後に慰労会・打ち上げとして、また将軍や賓客の接待・歓迎行事として僧や稚児が中心となって行った芸能の総称、またその会のことである。
南都や大和では興福寺、東大寺、法隆寺、薬師寺、長谷寺、多武峯などで行われた記録がある
43ページ
論議に負けた外道は、くやしまぎれに神通力で戒賢が猫を出す。つぎにウサギをだすが、戒賢の鷹にやられてしまう。外道は最後にムカデを出すが、戒賢が鶏をだして勝負が決する。ここに登場するネズミ以下も僧が扮したもので、頭にネズミ以下の作り物をかぶったので、「被り物」といわれる。「走」あるいは「走物」ともいわれる。
56
どうも延年には面子の問題がかかわっていたように思われる
略
将軍義教も延年の有無にこだわったことがあった。
夫人が南都に下向したときに興福寺に延年を要求したが、興福寺は女性相手に延年を実施したことはないと断った。怒った将軍義教は京都でやれと命令、あわてた興福寺は夫人の宿泊先で延年を行ったが、義教は京都の室町殿もう一度延年をやれと命令した。
書名:河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶
著者:篠田 正浩
出版社: 幻戯書房 (2009/11)
ISBN-10: 4901998501
内容:(「BOOK」データベースより)
芸能がつくりあげた荒唐無稽こそ、宇宙の片隅で漂う人間の叡智の産物かもしれない。
構想50年―日本映画界の旗手が、芸能者たちの“運命”を追跡し、この国の“歴史”が
時系列で記される単純化に抗する、渾身の書き下ろし作品。
非常によくまとまった日本の芸能の歴史。
一冊だけ読むのだとしたらこれを読めばよいかもしれない。
参考文献などもまめに記述されている。
自らが芸能者の立場にたっての書き方がかんじられ、学者が書いている
歴史書よりずっとはいりやすいしおもしろい。
歴史の流れを追うというよりひとつひとつのエピソードの記述が著者の思いを告げている感じ。
ただ江戸時代にはいるとほとんど歌舞伎の話題に終始するのは残念。
P31
河原者に対する差別がいまだにある
桂離宮を飛び込みで見学しようとしたとき俳優というとことわられた。
梟の城を制作中のとき、四条河原の死闘の際の音曲効果として、壬生狂言の
囃子使用をかんがえたが、保存会からは
「我々が伝承している狂言は重要無形文化財で、河原乞食の芸とは違います」と拒絶された
132ぺージ
天平勝宝3年(751)、「続日本紀」は記す。
外来の技芸である散楽が宮廷舞楽の雅楽寮に編入され、「散楽戸」として官人芸能になったと。
137ページ「能楽源流考」能勢朝次
散楽戸廃止以前を「貴族的猿楽」以降を「賤民猿楽」とした。楽戸をもうけなくても自然発生的に芸を志向する人々があらわれ、その集団で芸の伝承はもちろん官人の中にも散楽伎の下いたっ者を選ぶことが可能になったというのである
散楽戸はそようちょうを免ぜられてきたが、その廃止によって賤しい雑戸の身分から納税者としての公民になれる道が開けた一方で、さらに下層のせんみんざつげいしゃとなる。
「中近世放浪芸の系譜」では官人として保護され慢心していた散楽の芸より、路上や社寺の境内で都人の目にさらされた放浪者の芸の方が刺激的で練達していたことが理由ではないかとして能勢の説を訂正する。
早稲田大学演劇博物館長の竹本幹夫は「事実は散楽のような多種目な芸能を官営で維持する財政の余裕がなくなったのではないか」と解説し、さらに大陸や朝鮮半島から渡来する芸能者が絶えることなくこの国に流入し、一ぴう巨大化した寺社は年中行事を支える自前の芸能者の確保を必要としたはずだと述べた
著者:篠田 正浩
出版社: 幻戯書房 (2009/11)
ISBN-10: 4901998501
内容:(「BOOK」データベースより)
芸能がつくりあげた荒唐無稽こそ、宇宙の片隅で漂う人間の叡智の産物かもしれない。
構想50年―日本映画界の旗手が、芸能者たちの“運命”を追跡し、この国の“歴史”が
時系列で記される単純化に抗する、渾身の書き下ろし作品。
非常によくまとまった日本の芸能の歴史。
一冊だけ読むのだとしたらこれを読めばよいかもしれない。
参考文献などもまめに記述されている。
自らが芸能者の立場にたっての書き方がかんじられ、学者が書いている
歴史書よりずっとはいりやすいしおもしろい。
歴史の流れを追うというよりひとつひとつのエピソードの記述が著者の思いを告げている感じ。
ただ江戸時代にはいるとほとんど歌舞伎の話題に終始するのは残念。
P31
河原者に対する差別がいまだにある
桂離宮を飛び込みで見学しようとしたとき俳優というとことわられた。
梟の城を制作中のとき、四条河原の死闘の際の音曲効果として、壬生狂言の
囃子使用をかんがえたが、保存会からは
「我々が伝承している狂言は重要無形文化財で、河原乞食の芸とは違います」と拒絶された
132ぺージ
天平勝宝3年(751)、「続日本紀」は記す。
外来の技芸である散楽が宮廷舞楽の雅楽寮に編入され、「散楽戸」として官人芸能になったと。
137ページ「能楽源流考」能勢朝次
散楽戸廃止以前を「貴族的猿楽」以降を「賤民猿楽」とした。楽戸をもうけなくても自然発生的に芸を志向する人々があらわれ、その集団で芸の伝承はもちろん官人の中にも散楽伎の下いたっ者を選ぶことが可能になったというのである
散楽戸はそようちょうを免ぜられてきたが、その廃止によって賤しい雑戸の身分から納税者としての公民になれる道が開けた一方で、さらに下層のせんみんざつげいしゃとなる。
「中近世放浪芸の系譜」では官人として保護され慢心していた散楽の芸より、路上や社寺の境内で都人の目にさらされた放浪者の芸の方が刺激的で練達していたことが理由ではないかとして能勢の説を訂正する。
早稲田大学演劇博物館長の竹本幹夫は「事実は散楽のような多種目な芸能を官営で維持する財政の余裕がなくなったのではないか」と解説し、さらに大陸や朝鮮半島から渡来する芸能者が絶えることなくこの国に流入し、一ぴう巨大化した寺社は年中行事を支える自前の芸能者の確保を必要としたはずだと述べた
100年サーカス報告会に参加。会場のニューロカフェは外苑前から7分程度の場所。
地図を見てきたがちょっと遠いけれどなかなか良い雰囲気のところ。
題名:100年サーカス報告会-ジャグリングとサーカスの創作を現代日本で試みようとすることの課題と展望
日時:2013年1月11日19:30-21:30
会場:ニューロカフェ東京
料金:一般1000円、日本ジャグリング協会員無料
座席:最後列
会場は写真撮影可、録画・録音禁止。満員でこんなかんじ。
☆概要
ことでん工場という特別な場を利用し、あえて昼と夜で異なる場を作った
昼夜ともに満員3/4が県内、1/4が県外
協賛 法人26社個人33人
地元メディア全てが取材に来た
http://www.100nencircus.com/
☆これまでの経緯
2011年5月から 一般市民向けに現代サーカス普及活動
異業種交流会などさまざまな接点から実行委員会立ち上げ
公演会場探しで難航、「ことでん」の役員の方で若い方がやってみようか!だが会社の了解取るまで半年かかった
公共交通の場なので、誰でも来れるような敷居の低い形にしたいと価格設定。
☆構想
演出は目黒さん!ながめくらしつの映像をみて演出をしてもらうなら彼!
音楽は松本の市民芸術館で一緒になったシカラムータさん
地元の長谷川愛実さん、までが当初の構想
田中さんのたっての希望で、高松で活動するジャグラーたちの出演を目黒さんに了承してもらった
こだわりとしては会場がことでん、生演奏、エアリアルを入れたかった
新しいけれど、新しすぎない懐かしさが残る雰囲気を作りたい
☆反省点
ボランティアによる運営の典型的な課題が発生
現役工場なので経った二日しか時間が取れない
チケット価格の設定、収支が満員でもペイできない
稽古場がなかった、全員のスケジュールをあわせることが難しかったなど課題はあった
☆今後は
瀬戸内サーカスファクトリー
作品を作る場を作りたい。
点ではなく複数の面になりたい
地域の人が参加して支える仕組み
運営、技術、舞台、デザイン、一般の人がサーカスにも身近にかかわれるプログラム、社員研修など。
2013年は拠点になる場所を、探しているところ
2014年スポンサーとか助成を探し始めた
☆はじめは
最初話がきたとはジャグラーが目黒さんだけだった
もうちょっと増やしたいということで信頼する二人に参加してもらった
ひとりひとりがうまいからといって一緒にできるとは限らない
目黒さんはYuriさんは一緒にやったことがあるがあきらさんとは初めて
一緒にできるような人になっていってという関係を半年くらいやっていった
人間関係はすごく大切、実行委員会が高松にあり練習が東京なので、なるべく
写真を取ってフェイスブックなどで状況を把握しあいましょうとしていた
☆構成全般について
ただ投げる、動く、取るみたいなやっていることは凄く単純、パターンとしては3つくらい
そういうのを左と右をかえてとか、そろったりとか組み合わせをかえた
それから先はどうするかは若い人たちに任せた。
普段の作り方だと曲が決まって、どの部分でこうしようと決めている
今回は違い曲が決まるのがぎりぎりになった、
通常はこの技を失敗したらどうやろう、1個1個きめておく
クラブパスで2カウントで落としたら、せいの!でやりなおすが、ボールだとカウントがあまりないので、
どの時点で落としたらどうするか1個1個決めていった
☆Yuriさん談
去年の3月のながめくらしつの公演で目黒さんと共演したのがご縁でこちらに出演させていただいた
目黒―Yuri,Yuri―あきらはやったことがあったが、目黒ーあきらの組み合わせがなくて最初苦労した。
今までやってきたことをベースにしながら、具体的な個々の技を拾いながら決めて行った
二人の組み合わせを変えると、全く同じ動きをすることがないし、口で語ってもうまく伝わらない
人に依存する感覚が染みついているとなかなかできない
人をかえて同じパターンをやるときも、ボールの個数だけきめて一からできることを拾っていく
その中で自分の納得のいくものを少しずつ積み重ねていく
これを投げたら次どうする、というのを一個一個確認しながら時間軸を伴うものにしていき、何回もアレンジしていった
☆あきらさん談
10年以上互いに存在を知っていたが話したことがなく、実際に練習を始めたのが昨年6月
Yuriくんとはいちどやっていたので感覚をつかんでいたが、目黒さんとは全く初めての状況で
ほんとに最初はどうやって作っていくのか、手探りだった
ながめくらしつでやっていたテクを覚えるとか、ふたりの練習風景を見てこんな感じかなあとか。
最初の一カ月はさぐりさぐり。人間的にも打ち解けてないまま
おわったあとは非常に楽しく、これからも一緒にやっていきたい
☆遠距離による難しさ
地元ジャグラー3人はいって、6人のシーンがいっぱいあるので遠隔地の問題が発生
9月くらいに高松に行ったときに、地元の方々の力量をなんとなく理解
こんな感じの流れ、という動画を4-5個とって、youtube のリンク限定公開でこういうのをやってこい、
実際5人6人で集まったのは2日前の深夜
東京では代役を呼んで練習。
現地の子も頑張っていたが、できるかわからないものもあった
合わせる時間がほとんどなかった。
目黒さんは演出家兼出演。演出助手もおらず、ひとりで走り回らねばならなかった
☆ジャグラーと他のメンバーの絡み
パッシングしているだけではなく、その間を愛実さんも絡む
ジャグラーだとパス通ってるだけじゃないかという所、彼女の身長より高いところを投げているのに怖がられた
ジャグラーとしてはやり慣れてしまっているのでどのタイミングで通るのだよと説明するのが難しい
なぜ通れない?とかちょっと嫌な感じになっていた。
本番当日はものすごくばたばたしていた。彼女は直前に通る練習をしないまま当日を迎えてひやひやした
ジャグリングのリングとエアリアルのリングがうまく繋がって演出的にきれいな場面だった
☆演奏リーダの大熊さん談
最初はなぜ高松?と思った
行ってみたらおもしろい空間。工場で生きた道具が、パーツがある
工場っておもしろい。道具がきらきらしている。そういうところでものを作るのってステージっておもしろい
☆会場のことでん工場について
ことでんの社員がものすごい掃除してくれてきれいになる
使用前使用後で見るとものすごくおもしろい
スタッフの人、設営・美術の人も大車輪で活躍した
舞台装置、半円形のホームを作った、目黒さんのアイディア
6月くらいに行ったときは、電車3両ある工場だった
最初はいったときに。くさい!気分が悪くなる人が出るだろう。
最後はいい感じでまとまった
下見に大熊さんがきてくださって、目をきらきらしていて、単なる鉄道ファンになってしまった。
映像の電車も大正時代、ちゃんと動いている
ことでんは全国のいらなくなった車両を買い取ってきてやっていた
パンタグラフは最初下がっていた。ことでんのひとたちがざわざわして、下がっているとカッコ悪いよね!
ということで急きょなおしてもらえた
☆音楽について
スケジュールがあわなかった。バンド全員がそろったのは本番のみ
曲の差し替えもあった。基本的にはお互いの持っているものをうまく組み合わせてできた
一緒にやったことがあるし、目黒さんがシカラムータファンだったので一緒にできるいいマッチだった
知らない人だとコミュニケーションするまで時間がかかった
すぐに中身の話ができた
曲を選ぶと演技とあわせないといけない
1曲だけ自分たちの曲だけど編成が小さいので生で演奏できないものがあった
バックトラックを録音しなおして生とミックスする方法を取った
これをする作業する時間があったのか?ぎりぎりになった
結果として新しい試みができて、舞台の中でも録音と生が交差するシーンがかっこいい
本番はたいへんだったのだがどうしてもその曲を使いたかった
皆で料理を作っている感じなのだけれど、具材はどんどんできていくが
最終的に料理するのは直前までたいへんだった。
練りこみが足りなかった、ランスルーができなかった
☆ゲネプロができなかった
前日も夜遅くまでやって目黒さんは帰る気はなかったが、他は帰りましょう!
残りは次の日になって。開場10分前までどうする?
劇場を使えるのが2日しかないというのは無理だった
大きなトラブルが何もなくできて本当に幸運だった
しかしこれが常態化できるわけではない。
ジャグリングできる状態ではないと思ったが奇跡的に落とさなかった。
皆こうなったらこうしようと全部決められなかった
☆生演奏
高松のひとの感想、音楽が生で合うということが衝撃だったらしい。
サーカスで生演奏があると、古いサーカスでも凄く温かみがある
単に音が鳴っている以上の温かみがある。
お客様を客上げしてリングを首にかけるシーンで、投げたときにシンバルで音入れ、それがワクワクを作り上げた
☆ちゅうサンの役割
ストーリーテラー的にはいってくれて、新しい部分と客を繋いでくれた
ちゅうサンがいないとできないと思っていた
実際はいってもらってよかったし、子供たちがちゅうサンが出てくるだけで立ち上がってしまう
☆ちゅうサン談
タンタンさんと差をつけようとして行きすぎた。
全体的には最後の拍手のぶわっとくる感じが今までなかった拍手だった
演技面のところで深く突っ込んだ打ち合わせや練習をしてない
どういうふうにやっていったらいいのかわからなかった
時間が足りなかった。
☆観客の感想
観客の湯川さんの感想、湯川さんは目黒さんのステージをすべて鑑賞
最初は東京から高松まで行くことになってなんで高松まで?
実際行って、ことでんに乗ると意外と高松に人がいるなあ、ローカル電車なのに人がいるなあ、と思っていたら
皆サーカス見にきたお客さんだった
そこで凄い物を見にきたんだと思えた
会場はいったあとでも、会場の雰囲気がサーカスらしく、はいってすぐのめりこんだ
公演の内容も準備不足に思えなかった。
初めて現代サーカスらしいものができそうだ!
いままでこういうのができなかった、これからもっとできるかも
という希望が感じられた。わざわざ高松まで行った甲斐があったと感じた。
☆今後の活動
・田中
100年サーカスはこれ1本で終わりではない
・目黒
今回ほど大掛かりではないが、ジャグリング以外の人、ミュージシャンその他パフォーマと一緒に作ったらおもしろい
ジャグリングでやりたいことがものすごくいっぱいあるので何か
もし一緒にやりたい人がいれば声をかけてください。
ながめくらしつ番外編というオムニバスでいずれ一緒にやりたいなと思う人を呼んでやる
その人が何をするのか、ながめくらしつみたいな皆でやるのを両方やりつづけられるといいな
以上
これは会場で販売していたクッキー。食い損ねた Orz
題名:日本古典芸能史
著者:今岡 謙太郎
出版社: 武蔵野美術大学出版局 (2008/03)
ISBN-10: 4901631810
内容:
一読三嘆?ありそうでなかった、こんな本。謎めいた伎楽面から、猿楽の滑稽、能の幽玄、歌舞伎の破天荒、人形浄瑠璃の情、落語の洒脱、寄席の繁盛。古代から江戸時代までの芸能史を通覧する。
目次:
序 章 祭祀―儀式から芸能へ
第一章 伎楽と舞楽―国家行事と芸能
第二章 散楽から猿楽へ―「演技術」の進歩
第三章 田楽・猿楽の展開と「能」の形成
第四章 観阿弥・世阿弥と能の「大成」
第五章 歌舞伎の成立と定着
第六章 人形浄瑠璃の成立と発展
第七章 近世演劇の開花と近松門左衛門
第八章 竹豊両座と人形浄瑠璃の黄金時代
第九章 江戸中後期の歌舞伎
第十章 落語・講談の発展と諸芸の交流
〈落語の始祖について/江戸落語中興の祖と職業落語家/講釈・講談の展開/寄席芸の繁栄/寄席と諸芸の交流〉
第十一章 鶴屋南北と河竹黙阿弥―近世から近代へ
主要参考文献
人名索引
事項索引
芸能の歴史がとてもコンパクトにまとめられていて読みやすい。
伎楽は7世紀頃には日本にはいっていたらしい。「くれのうたまい」といわれることもあるように中国大陸中南方の文化圏で行われていた舞楽だった。伎楽は仮面劇の一種で現在の獅子舞に残っているらしいが、ほとんど資料がない
舞楽はいつはいってきたのか定かでない
大化の改新と大宝令にほり雅楽寮が制定された。
そのころから渡来系の芸能が尊重された。
800年代頃から舞楽として整備がなされた。
散楽は舞楽などと一緒にはいってきて、よりくだけた芸だった。
田楽は農業従事者によるものと、専業者によるものがあり芸が異なっていた。高足による芸を特徴とする。
散楽の曲芸的要素はどうやら田楽法師で継承されていたらしい
能は猿楽でも田楽でも行われていた。
延年で猿楽が発展した。
初期猿楽の表芸はいわゆる「翁猿楽」と呼ばれる祝じゅてきな性格をもつ歌舞だった。そのため各地の寺院と結びついた
当初猿楽能より田楽能の方が人気があった。かんあみは「曲舞」と呼ばれる語りものの曲節を取り入れて人気を博した。
ぜあみはそれまでの古典を能作品の根底に据え、演劇的おもしろさと文学的品格の統一を図った。能舞台が整備されるのは秀吉の時代、橋がかりの原型ができた。
もっとも変わったのは実は明治時代。
能楽堂ができて明かりがつけられた。
以降、歌舞伎、人形浄瑠璃、落語、講談、色物についての記述がある。
幕末の歌舞伎まで。
著者:今岡 謙太郎
出版社: 武蔵野美術大学出版局 (2008/03)
ISBN-10: 4901631810
内容:
一読三嘆?ありそうでなかった、こんな本。謎めいた伎楽面から、猿楽の滑稽、能の幽玄、歌舞伎の破天荒、人形浄瑠璃の情、落語の洒脱、寄席の繁盛。古代から江戸時代までの芸能史を通覧する。
目次:
序 章 祭祀―儀式から芸能へ
第一章 伎楽と舞楽―国家行事と芸能
第二章 散楽から猿楽へ―「演技術」の進歩
第三章 田楽・猿楽の展開と「能」の形成
第四章 観阿弥・世阿弥と能の「大成」
第五章 歌舞伎の成立と定着
第六章 人形浄瑠璃の成立と発展
第七章 近世演劇の開花と近松門左衛門
第八章 竹豊両座と人形浄瑠璃の黄金時代
第九章 江戸中後期の歌舞伎
第十章 落語・講談の発展と諸芸の交流
〈落語の始祖について/江戸落語中興の祖と職業落語家/講釈・講談の展開/寄席芸の繁栄/寄席と諸芸の交流〉
第十一章 鶴屋南北と河竹黙阿弥―近世から近代へ
主要参考文献
人名索引
事項索引
芸能の歴史がとてもコンパクトにまとめられていて読みやすい。
伎楽は7世紀頃には日本にはいっていたらしい。「くれのうたまい」といわれることもあるように中国大陸中南方の文化圏で行われていた舞楽だった。伎楽は仮面劇の一種で現在の獅子舞に残っているらしいが、ほとんど資料がない
舞楽はいつはいってきたのか定かでない
大化の改新と大宝令にほり雅楽寮が制定された。
そのころから渡来系の芸能が尊重された。
800年代頃から舞楽として整備がなされた。
散楽は舞楽などと一緒にはいってきて、よりくだけた芸だった。
田楽は農業従事者によるものと、専業者によるものがあり芸が異なっていた。高足による芸を特徴とする。
散楽の曲芸的要素はどうやら田楽法師で継承されていたらしい
能は猿楽でも田楽でも行われていた。
延年で猿楽が発展した。
初期猿楽の表芸はいわゆる「翁猿楽」と呼ばれる祝じゅてきな性格をもつ歌舞だった。そのため各地の寺院と結びついた
当初猿楽能より田楽能の方が人気があった。かんあみは「曲舞」と呼ばれる語りものの曲節を取り入れて人気を博した。
ぜあみはそれまでの古典を能作品の根底に据え、演劇的おもしろさと文学的品格の統一を図った。能舞台が整備されるのは秀吉の時代、橋がかりの原型ができた。
もっとも変わったのは実は明治時代。
能楽堂ができて明かりがつけられた。
以降、歌舞伎、人形浄瑠璃、落語、講談、色物についての記述がある。
幕末の歌舞伎まで。