初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:果てしなきサーカスの旅―国際サーカス村物語
著者:西田敬一
出版社: 現代書館 (2009/11)
ISBN-10: 476846999X
目次:
序章 むこう岸のテントへ
第1章 国際サーカス村構想
第2章 雑技が語りかけてきた
第3章 サーカス学校への道
第4章 フール祭 挑戦と逃亡
終章 踊る背中と独り相撲
48ページ
それはそれでいいとおもうが、クリニクラウンはクリニクラウンである。
それを目指す人は、そのプロになってほしいが、それをおこなうことがクラウンの必須条件ではない。病院でクリニクラウンとしての仕事をしないなら、そのクラウンが本物ではないというような考え方がうまれてくるようであっては本末転倒なのだ。そもそもクラウンのしぐさには、この世の常識を覆したり、あるいは愚かな行為の反復によって、この世には、自分たちが見過ごしている、価値観が違うかもしれない別の生き方、別の世界があることを暗示しているのだ。
50
1960年代末から始まった、あらゆる権力、規制の価値観に対する異議申し立ての運動は、ここ40年の間に日本ではほぼ窒息状態となる一方でかつてそのような運動を行っていた人々の多くが新たな文化装置の中に組み込まれてしまっている。そうした装置がやがて崩壊する一方、より強固なガードを固めた、さまざまな文化・芸術協会が権力と二人三脚で生き残ろうとするに違いないからだ。ソマリア沖に出兵している自衛隊の護衛艦へヘリコプターが舞い降り、そこからパフォーマがと
85
だが日本の伝統的のものといえば、南京玉簾、蝦蟇の油売り、居合い抜きだったりする。
たとえば籠抜けなどの曲芸系の大道芸は見たことがない。
ハンドアクロバット系は有っても籠抜けはない。
略
2007年の朝日新聞朝刊の連載小説、夢枕貘の「宿神」に籠抜けの芸が描かれているものを読んだとき、胸躍るものがあったが、折角、大道芸ブームといわれるほど大道芸がはやっているならば古典的な大道芸がもっとでてきていいはずだ。
86
どの雑技団がもっとも印象に残っているかといえばシンチャンウィグル自治区の雑技団だ。
民族色が強く、音楽、衣装などひと味もふた味も違うのが、なんとも魅力的でしかも皆踊りがうまい。
たとえば男性ふたりのジャグリング。彼らが使う道具は、直径25センチほどのタンバリンのような太鼓であり、また長さ45センチほどの錫杖の形をしたもの。しかも太鼓をただジャグリングするのではなく、それを胸や膝に打ち当てて音をだしながらリズムを取るし、錫杖の方もシャリシャリと絶え間なく響き、伴奏の音楽がなくても、とてもリズミカルなので、楽しくみることができる
略
ジャグリングは近年ますますアート系というか、投げる道具の数を競うよりも投げたものが描く道具の軌跡や、あやつる道具と身体の柔軟性のコンビネーションという方向に進んでいるが、使う道具にオリジナリティを求めるジャグラーがもっとでてきてもいいように思うのはぼくだけだろうか
たぶん高度に専門化しつつあるジャグラーの世界では、変わった道具を使う、いわば民族派はあまり評価されないのかもしれない。
だがもしジャグリングの世界に転換期がやってくるとすれば土着的な道具の発見から始まるような気がするのだが、どうだろうか。
87ページ
ウイグル族の演目のひとつにハイワイヤーがある。この演目は旧ソ連邦の国々からヨーロッパの国々まで広く浸透しているものだが、ウイグル族のハイワイヤーには、彼らの民族芸能のタワァズ(中国語で表記すると、達瓦「子偏に牧の作り」。)
略
ウイグル族のタワァズは、まさにそうした民族芸能であり、しかも伝説の物語がある。それは。城に閉じこめられたお姫様を救うために、一人の若者が城壁に坂綱を張って、城の中に入り込み、救い出したという、他愛のない物語だが、なんともほほえましいではないか。
ワイヤーの演技は中国語では鋼「糸が二つ並ぶ」(カンスー)という文字がつくが、そこにはもちろんなんの言い伝えもない。
5人囃子のキエフの遭難は手に汗握った
サーカス学校をどのような思いで造ったのか
194
ここPPSでサーカスという文化の持つ力の一つが十全に機能している姿はなんとも感動的であった。これまでも折りにつけ触れてきたが、サーカスはプロの人のものだけではない。まして廃れゆく芸能なのではない。
サーカスをプロだけに独占させておく必要はない。商売としてしかサーカスを利用していない人々や商業主義の仕組みからサーカスを解放していかなければならない。
サーカスの持つ力、その文化の力は人々の能力を開発し、人々を育てる力を持っていることになによりも注目していかなければならないはずだ。
伝統文化におしこんではいけない。エンターテインメント、ショーとしての商売の道具だけのものにしてはいけない。研究する知の中に押し込んでもいけない。それらすべてを常に人々をより豊かにする、まさしく人を生かす力を持つ視点からとらえ、そこからみていかなければならない。
著者:西田敬一
出版社: 現代書館 (2009/11)
ISBN-10: 476846999X
目次:
序章 むこう岸のテントへ
第1章 国際サーカス村構想
第2章 雑技が語りかけてきた
第3章 サーカス学校への道
第4章 フール祭 挑戦と逃亡
終章 踊る背中と独り相撲
48ページ
それはそれでいいとおもうが、クリニクラウンはクリニクラウンである。
それを目指す人は、そのプロになってほしいが、それをおこなうことがクラウンの必須条件ではない。病院でクリニクラウンとしての仕事をしないなら、そのクラウンが本物ではないというような考え方がうまれてくるようであっては本末転倒なのだ。そもそもクラウンのしぐさには、この世の常識を覆したり、あるいは愚かな行為の反復によって、この世には、自分たちが見過ごしている、価値観が違うかもしれない別の生き方、別の世界があることを暗示しているのだ。
50
1960年代末から始まった、あらゆる権力、規制の価値観に対する異議申し立ての運動は、ここ40年の間に日本ではほぼ窒息状態となる一方でかつてそのような運動を行っていた人々の多くが新たな文化装置の中に組み込まれてしまっている。そうした装置がやがて崩壊する一方、より強固なガードを固めた、さまざまな文化・芸術協会が権力と二人三脚で生き残ろうとするに違いないからだ。ソマリア沖に出兵している自衛隊の護衛艦へヘリコプターが舞い降り、そこからパフォーマがと
85
だが日本の伝統的のものといえば、南京玉簾、蝦蟇の油売り、居合い抜きだったりする。
たとえば籠抜けなどの曲芸系の大道芸は見たことがない。
ハンドアクロバット系は有っても籠抜けはない。
略
2007年の朝日新聞朝刊の連載小説、夢枕貘の「宿神」に籠抜けの芸が描かれているものを読んだとき、胸躍るものがあったが、折角、大道芸ブームといわれるほど大道芸がはやっているならば古典的な大道芸がもっとでてきていいはずだ。
86
どの雑技団がもっとも印象に残っているかといえばシンチャンウィグル自治区の雑技団だ。
民族色が強く、音楽、衣装などひと味もふた味も違うのが、なんとも魅力的でしかも皆踊りがうまい。
たとえば男性ふたりのジャグリング。彼らが使う道具は、直径25センチほどのタンバリンのような太鼓であり、また長さ45センチほどの錫杖の形をしたもの。しかも太鼓をただジャグリングするのではなく、それを胸や膝に打ち当てて音をだしながらリズムを取るし、錫杖の方もシャリシャリと絶え間なく響き、伴奏の音楽がなくても、とてもリズミカルなので、楽しくみることができる
略
ジャグリングは近年ますますアート系というか、投げる道具の数を競うよりも投げたものが描く道具の軌跡や、あやつる道具と身体の柔軟性のコンビネーションという方向に進んでいるが、使う道具にオリジナリティを求めるジャグラーがもっとでてきてもいいように思うのはぼくだけだろうか
たぶん高度に専門化しつつあるジャグラーの世界では、変わった道具を使う、いわば民族派はあまり評価されないのかもしれない。
だがもしジャグリングの世界に転換期がやってくるとすれば土着的な道具の発見から始まるような気がするのだが、どうだろうか。
87ページ
ウイグル族の演目のひとつにハイワイヤーがある。この演目は旧ソ連邦の国々からヨーロッパの国々まで広く浸透しているものだが、ウイグル族のハイワイヤーには、彼らの民族芸能のタワァズ(中国語で表記すると、達瓦「子偏に牧の作り」。)
略
ウイグル族のタワァズは、まさにそうした民族芸能であり、しかも伝説の物語がある。それは。城に閉じこめられたお姫様を救うために、一人の若者が城壁に坂綱を張って、城の中に入り込み、救い出したという、他愛のない物語だが、なんともほほえましいではないか。
ワイヤーの演技は中国語では鋼「糸が二つ並ぶ」(カンスー)という文字がつくが、そこにはもちろんなんの言い伝えもない。
5人囃子のキエフの遭難は手に汗握った
サーカス学校をどのような思いで造ったのか
194
ここPPSでサーカスという文化の持つ力の一つが十全に機能している姿はなんとも感動的であった。これまでも折りにつけ触れてきたが、サーカスはプロの人のものだけではない。まして廃れゆく芸能なのではない。
サーカスをプロだけに独占させておく必要はない。商売としてしかサーカスを利用していない人々や商業主義の仕組みからサーカスを解放していかなければならない。
サーカスの持つ力、その文化の力は人々の能力を開発し、人々を育てる力を持っていることになによりも注目していかなければならないはずだ。
伝統文化におしこんではいけない。エンターテインメント、ショーとしての商売の道具だけのものにしてはいけない。研究する知の中に押し込んでもいけない。それらすべてを常に人々をより豊かにする、まさしく人を生かす力を持つ視点からとらえ、そこからみていかなければならない。
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書名:東アジhttp://ec3.images-amazon.com/images/I/41NeqrNgJyL._SS500_.jpgアの民衆文化と祝祭空間
著者:鈴木 正崇 (編集)
出版社: 慶應義塾大学東アジア研究所 (2009/12)
ISBN-10: 4766417119
なかなか興味深い。
公開講座開催は知っていたのだが、参加しなかったのが少々悔やまれる。
世界のチャイナタウンからみた人々と文化の移動
陳天璽
横浜チャイナタウンに広東料理が多いのは、横浜に移住した古い華僑に広東人が多かったから。
「春節祭」は和製中国語で、1980年代にチャイナタウンの街おこしとしてはじまった。
インチョンのチャイナタウンでもジャジャンミョン祭りや中国人節が大々的に行われている。仕掛けたのはインチョン市。
日本における中国芸能と音楽の空間
王維
60p
「こきゅう」は日本固有の楽器、中国のは「にこ」
64p
にこは中国の楽器ではあるが、主体は日本人にかわった。中国大衆に好まれている楽器とはいえなかったが、日本のブームにより中国でも見直された。
都市祝祭の変貌 よさこい系イベントの展開
74
地域色というのが実はありそうでない、これからこれから地域色を出せるというのがよさこいの基本となります。
78p
参加型の祭りであることは重要です。参加型の祭りで、しかも約束事が非常に少ないことも大切です。人前で自分自身の練習の成果を、もちろんお客さんがきちんと見ているかどうかわからないのですけども、自己満足的に見せることができる。そういうタイプのお祭りです。
79p
みんなで創りあげていくという連帯感があると同時に、あるときになると、仲間がぱっといなくなってしまっても、それは自然なのです。
ですから現代社会の人間関係、たとえば、連帯はしたい、みんなと一緒に何かを創り上げたい、けれどもプライベートをどんどん拘束されることは嫌だというような時代の雰囲気に非常にあっています。
韓国における祝祭
伊藤亜人
100
祝祭的な祭り形式が韓国ではどのくらい見られるかというとい、実はそう多くはないのです。
103
韓国では祝祭といえばむしろ個人の祝宴が中心となっていると言ってもよいかもしれません。
108
祝祭
1。「クッ」
在来のシャーマニズム的な儀礼形式、あるいは神霊との交渉を中心としたもの。そこに「マダン」と名付けて新しい形態の祝祭空間を作り出す動きが70年代からあちこしのとしにおいて見られた。
「マダン」とは「庭」という意味。
クッという形式をとりながら観客も一体となって巻き込むような演出、趣向を凝らした演劇形式。
2。「大学路」
祝祭的な空間を求めている若者のために政府がつくったもので、道路をふさいで歩行者天国のようにして民衆に下賜したもの。
実は官製。
3。「チュクチェ」
韓国は中央集権の伝統の強い社会ですから、地方行政の首長、たとえば郡なら郡守と言われるような人が中心となって行う祝祭。
80年代に全国に広がって「市民祭」とか「郡民の日」とか「文化祭」とかさまざまな名前をとるがパターンは一緒。たいていまず郡主が長々とつまらない挨拶をしてみんなが痺れをきらす。
官の権威を郡守の権威を演出する官尊民卑の儀礼といってもよいかと思うのです。
政府が管轄して行うものが実は韓国で現在「祝祭」(チュクチェ)といわれている。
韓国サーカスにみられる曲芸の越境
林史樹
韓国サーカスは1900年前後に日本を経由してはいったのが始まり。
1930年頃から徐々に韓国人経営者によるサーカスが誕生。
1980年代になるとTV、スポーツなどに押される。追い打ちをかけたのが、TV司会者への転身やナイトクラブへの引き抜き。
90年代後半には徐々に興業が成り立たないサーカスがでてきた。
2000年頃から中国の雑技団曲芸師が韓国のサーカスに組み込まれるようになった。この動きは東春サーカスが主導していくものの他のサーカス団は追随せず。
現在は太白サーカスと東春サーカスが中国曲芸師を取り込んでサーカスの脈をつないでいる。
中国人曲芸師をつれてきて雑技を演目にいれてしまったために韓国で行われてきた曲芸みられなくなった
仮面マジック、帽子ジャグリング、ピンポンや十字型のブーメランを用いた雑技団でよくみられる演目にかわった。
韓国・朝鮮に由来する曲芸といえば、2メートルほどの高さに張った荒縄をわたる「広大(クァンデ)」ていどしかない。これに関しては韓国の民謡を背景に流し、曲芸師も伝統衣装を着てでてくることで「韓国らしさ」を演出する。
華南における正月の祭祀空間
189
中国では廟が栄えるか栄えないかもその廟が村人に霊験を与えるかどうかにつながっています。村人が一生懸命祈ったけれど何の効き目もなかったというと、村人はその神様をさっさと見限ってほかの神様に乗り換えてしまいます。
206
文化政策による祭祀空間の舞台化、観光化という現象が起きていることを論じたいと思います。
略
ところで最近になって元々は農民がやっていたこの劇を安徴?の専門劇団がとりあげてこれを「世界遺産」として世界や国内の各地を上演して歩くようになりました。
2007年9月に香港での上演をみましたが、全く原型をとどめない不自然なものでした。
略
村でやっていれば素人芸なりに素朴な価値があるのですが、それがプロが取り上げていくということになりますと、ほとんど見るに耐えない変形を受ける、そういう例です。
112
”官製化した地域祝祭”ともいうべきものが「霊登祝祭」ヨンドンジェで、これは日本でも結構知られています。いわゆる珍島の海割れの祝祭です。天童よしみの歌で、海に道がヨンドンサリ云々と歌われたものです。
略
この辺の経緯について私は論文を2、3編書いていますので、それをお読みになっていただければいいのですが、元はといえば、漁村の人たちの間に旧暦三月頃の大潮の日(ヨンドンサリ)に、ヨンドン・ハルマニというおばあさんがやってくるという信仰が韓国の南の海岸地帯に広く見られます。村の女性たちがその日はヨンドンコサといて簡単な供え物を海に向かって供えて大潮の海で潮干狩りのように貝や蛸や何かをとって1日を過ごします。そういう簡単なものだったのです。
それが1975年に海割れとして突如有名になりました。
略
その経緯をあとで聞いてみると、74年にフランスの駐韓大使がどういうわけか偶然珍島にきたといってそのときの話がフォークロアのようにつくられていまとなっては何が本当かわからなくなっています。
略
114
文化観光課にいた許ヨンムという人と、当時光州の新聞記者であった、金井[日天]という私もよく知っている人ですが、この二人が知恵を寄せ集めていろいろな伝説をつくりあげたのです。
それはどういうことかというと、海が引けて道があらわれるのはヘドンという村なのですが、へどんをほどんに読み替えて、「ホ」に「虎」という字を当てて、ここは昔虎がたくさんでて、虎の害を避けるために住民が向こうの島に渡って避難した。そのとき一人のお婆さんだけを取り残していった。そのお婆さんは毎日のように海に向かって龍神さまにお祈りしていると、あるとき海の中に道ができて村の人たちと再会できた。再会すると同時にそのお婆さんは息を引き取って霊が天に登っていったという話をつくりあげました。
霊が登るから霊登祭(ヨンドンジェ)というようになづけました。
これは全部つくった話なのです。やがてそのおばあさんの銅像が作られ、おばあさんを祀る祠が建てられ、そこで儀礼として祭祀が行われるようになり、その前に舞台がつくられ、文化財に指定されている珍島の民俗芸能を公演するというようになって、観光客に魅力のある祝祭につくりあげられたという経緯があります。
略
先日その金井「日天」さんが、許ヨンムさんと一緒にいて、僕もそこにいたのですが、やあ、
この前、文化観光部のなんとかが来て、この珍島のお祭りのことをほめ讃えるから、あれは僕ら二人でつくったんですよと言ったら、おまえたち何を言うか、伝説とはそういうものではないといって全然取り合わなかったといって笑っていました。
こんなことは本当におきるんです。
著者:鈴木 正崇 (編集)
出版社: 慶應義塾大学東アジア研究所 (2009/12)
ISBN-10: 4766417119
なかなか興味深い。
公開講座開催は知っていたのだが、参加しなかったのが少々悔やまれる。
世界のチャイナタウンからみた人々と文化の移動
陳天璽
横浜チャイナタウンに広東料理が多いのは、横浜に移住した古い華僑に広東人が多かったから。
「春節祭」は和製中国語で、1980年代にチャイナタウンの街おこしとしてはじまった。
インチョンのチャイナタウンでもジャジャンミョン祭りや中国人節が大々的に行われている。仕掛けたのはインチョン市。
日本における中国芸能と音楽の空間
王維
60p
「こきゅう」は日本固有の楽器、中国のは「にこ」
64p
にこは中国の楽器ではあるが、主体は日本人にかわった。中国大衆に好まれている楽器とはいえなかったが、日本のブームにより中国でも見直された。
都市祝祭の変貌 よさこい系イベントの展開
74
地域色というのが実はありそうでない、これからこれから地域色を出せるというのがよさこいの基本となります。
78p
参加型の祭りであることは重要です。参加型の祭りで、しかも約束事が非常に少ないことも大切です。人前で自分自身の練習の成果を、もちろんお客さんがきちんと見ているかどうかわからないのですけども、自己満足的に見せることができる。そういうタイプのお祭りです。
79p
みんなで創りあげていくという連帯感があると同時に、あるときになると、仲間がぱっといなくなってしまっても、それは自然なのです。
ですから現代社会の人間関係、たとえば、連帯はしたい、みんなと一緒に何かを創り上げたい、けれどもプライベートをどんどん拘束されることは嫌だというような時代の雰囲気に非常にあっています。
韓国における祝祭
伊藤亜人
100
祝祭的な祭り形式が韓国ではどのくらい見られるかというとい、実はそう多くはないのです。
103
韓国では祝祭といえばむしろ個人の祝宴が中心となっていると言ってもよいかもしれません。
108
祝祭
1。「クッ」
在来のシャーマニズム的な儀礼形式、あるいは神霊との交渉を中心としたもの。そこに「マダン」と名付けて新しい形態の祝祭空間を作り出す動きが70年代からあちこしのとしにおいて見られた。
「マダン」とは「庭」という意味。
クッという形式をとりながら観客も一体となって巻き込むような演出、趣向を凝らした演劇形式。
2。「大学路」
祝祭的な空間を求めている若者のために政府がつくったもので、道路をふさいで歩行者天国のようにして民衆に下賜したもの。
実は官製。
3。「チュクチェ」
韓国は中央集権の伝統の強い社会ですから、地方行政の首長、たとえば郡なら郡守と言われるような人が中心となって行う祝祭。
80年代に全国に広がって「市民祭」とか「郡民の日」とか「文化祭」とかさまざまな名前をとるがパターンは一緒。たいていまず郡主が長々とつまらない挨拶をしてみんなが痺れをきらす。
官の権威を郡守の権威を演出する官尊民卑の儀礼といってもよいかと思うのです。
政府が管轄して行うものが実は韓国で現在「祝祭」(チュクチェ)といわれている。
韓国サーカスにみられる曲芸の越境
林史樹
韓国サーカスは1900年前後に日本を経由してはいったのが始まり。
1930年頃から徐々に韓国人経営者によるサーカスが誕生。
1980年代になるとTV、スポーツなどに押される。追い打ちをかけたのが、TV司会者への転身やナイトクラブへの引き抜き。
90年代後半には徐々に興業が成り立たないサーカスがでてきた。
2000年頃から中国の雑技団曲芸師が韓国のサーカスに組み込まれるようになった。この動きは東春サーカスが主導していくものの他のサーカス団は追随せず。
現在は太白サーカスと東春サーカスが中国曲芸師を取り込んでサーカスの脈をつないでいる。
中国人曲芸師をつれてきて雑技を演目にいれてしまったために韓国で行われてきた曲芸みられなくなった
仮面マジック、帽子ジャグリング、ピンポンや十字型のブーメランを用いた雑技団でよくみられる演目にかわった。
韓国・朝鮮に由来する曲芸といえば、2メートルほどの高さに張った荒縄をわたる「広大(クァンデ)」ていどしかない。これに関しては韓国の民謡を背景に流し、曲芸師も伝統衣装を着てでてくることで「韓国らしさ」を演出する。
華南における正月の祭祀空間
189
中国では廟が栄えるか栄えないかもその廟が村人に霊験を与えるかどうかにつながっています。村人が一生懸命祈ったけれど何の効き目もなかったというと、村人はその神様をさっさと見限ってほかの神様に乗り換えてしまいます。
206
文化政策による祭祀空間の舞台化、観光化という現象が起きていることを論じたいと思います。
略
ところで最近になって元々は農民がやっていたこの劇を安徴?の専門劇団がとりあげてこれを「世界遺産」として世界や国内の各地を上演して歩くようになりました。
2007年9月に香港での上演をみましたが、全く原型をとどめない不自然なものでした。
略
村でやっていれば素人芸なりに素朴な価値があるのですが、それがプロが取り上げていくということになりますと、ほとんど見るに耐えない変形を受ける、そういう例です。
112
”官製化した地域祝祭”ともいうべきものが「霊登祝祭」ヨンドンジェで、これは日本でも結構知られています。いわゆる珍島の海割れの祝祭です。天童よしみの歌で、海に道がヨンドンサリ云々と歌われたものです。
略
この辺の経緯について私は論文を2、3編書いていますので、それをお読みになっていただければいいのですが、元はといえば、漁村の人たちの間に旧暦三月頃の大潮の日(ヨンドンサリ)に、ヨンドン・ハルマニというおばあさんがやってくるという信仰が韓国の南の海岸地帯に広く見られます。村の女性たちがその日はヨンドンコサといて簡単な供え物を海に向かって供えて大潮の海で潮干狩りのように貝や蛸や何かをとって1日を過ごします。そういう簡単なものだったのです。
それが1975年に海割れとして突如有名になりました。
略
その経緯をあとで聞いてみると、74年にフランスの駐韓大使がどういうわけか偶然珍島にきたといってそのときの話がフォークロアのようにつくられていまとなっては何が本当かわからなくなっています。
略
114
文化観光課にいた許ヨンムという人と、当時光州の新聞記者であった、金井[日天]という私もよく知っている人ですが、この二人が知恵を寄せ集めていろいろな伝説をつくりあげたのです。
それはどういうことかというと、海が引けて道があらわれるのはヘドンという村なのですが、へどんをほどんに読み替えて、「ホ」に「虎」という字を当てて、ここは昔虎がたくさんでて、虎の害を避けるために住民が向こうの島に渡って避難した。そのとき一人のお婆さんだけを取り残していった。そのお婆さんは毎日のように海に向かって龍神さまにお祈りしていると、あるとき海の中に道ができて村の人たちと再会できた。再会すると同時にそのお婆さんは息を引き取って霊が天に登っていったという話をつくりあげました。
霊が登るから霊登祭(ヨンドンジェ)というようになづけました。
これは全部つくった話なのです。やがてそのおばあさんの銅像が作られ、おばあさんを祀る祠が建てられ、そこで儀礼として祭祀が行われるようになり、その前に舞台がつくられ、文化財に指定されている珍島の民俗芸能を公演するというようになって、観光客に魅力のある祝祭につくりあげられたという経緯があります。
略
先日その金井「日天」さんが、許ヨンムさんと一緒にいて、僕もそこにいたのですが、やあ、
この前、文化観光部のなんとかが来て、この珍島のお祭りのことをほめ讃えるから、あれは僕ら二人でつくったんですよと言ったら、おまえたち何を言うか、伝説とはそういうものではないといって全然取り合わなかったといって笑っていました。
こんなことは本当におきるんです。
書名:中世芸能を読む
著者:松岡心平
出版社: 岩波書店 (2002/02)
ISBN-10: 4000266039
出版社/著者からの内容紹介
芸能者たちのフィールドにその淵源をもつ不逞なる装飾文化「バサラ」,また禅の痕跡が色濃い侘びの文化「茶」や「立花」などにまで視野を延ばし,中世に至って集権性のたがが緩んだ共同体の空間に突出するさまざまな芸能の世界を,「勧進」「天皇制」「連歌」「禅」の4つ切り口から自在にまた先鋭に論じる.
27ページ
そういうところにあらたに興行型の勧進が出現します
略
唐招提寺の仏舎利出開帳というイベント、これは「鎌倉遺文」に載っている記事ですけれども、建長7年(1255)の8月5日付けで唐招提寺から興福寺に宛てて出された手紙の中にそのイベントのことがでてきます
略
唐招提寺の持っている仏舎利を興福寺に出開帳して、有縁のひとや知識のひとたちにたくさん集まってもらってお金を喜捨してもらい、寺社の修造を遂げたい、というわけです。
著者:松岡心平
出版社: 岩波書店 (2002/02)
ISBN-10: 4000266039
出版社/著者からの内容紹介
芸能者たちのフィールドにその淵源をもつ不逞なる装飾文化「バサラ」,また禅の痕跡が色濃い侘びの文化「茶」や「立花」などにまで視野を延ばし,中世に至って集権性のたがが緩んだ共同体の空間に突出するさまざまな芸能の世界を,「勧進」「天皇制」「連歌」「禅」の4つ切り口から自在にまた先鋭に論じる.
27ページ
そういうところにあらたに興行型の勧進が出現します
略
唐招提寺の仏舎利出開帳というイベント、これは「鎌倉遺文」に載っている記事ですけれども、建長7年(1255)の8月5日付けで唐招提寺から興福寺に宛てて出された手紙の中にそのイベントのことがでてきます
略
唐招提寺の持っている仏舎利を興福寺に出開帳して、有縁のひとや知識のひとたちにたくさん集まってもらってお金を喜捨してもらい、寺社の修造を遂げたい、というわけです。
書名:彩色江戸物売図絵 (中公文庫)
著者:三谷 一馬 (著)
出版社: 中央公論社 (1996/03)
ISBN-10: 4122025648
江戸時代の風俗をしめす絵に著者が勝手に?色をつけたもの。
色がつくとかなり楽しい。
七味唐辛子売りは唐辛子の巨大張りぼてをしょって売り歩いていた。
狐の飴売りは、飴が売れるとヘンな踊りをみせていた。
手車売り(ヨーヨー)なんてのもいたのね。
鳥渡一服(ちょっといっぷく):
吉原の格子を模したものをもってあるいてそこからキセルをだして花魁の真似をして
銭を乞うというかなりシュールな絵もある
けしの助は瓜のマジックの絵。
出典は「絵本盲文画話」(文政10年)水野盧朝画
「こは(略)浅草のけしの助として、江戸中知らざる者なき豆蔵なりけり。第一の芸は
毬、陶器(とくり)、鎌、刀、玉に交ぜて、豆さへ手玉に取、鎌、刀は手に取毎に同じく
落る、豆を切り割るに十に十はづる事なく、手玉の内に切割る、尤も一本足の高下駄
はきてする也。或いは品球、又は小さき屏風様の物を、角に箱の如く畳み、其内江
小玉、或はとくり抔(など)入て、どじょう、鳩などに変じさせ、又種成とて、何か蒔て(まきて)、
暫時に木綿にて造りし真桑瓜、実花葉まで栄へて顕るる、其外色々の手妻して、日々
大入なり。観音参詣の者は、此けしの助見ざる者はなきが如し。其業古風ながら、頗る名人
といいつべし。明和頃迄有りて没したる由。其子其孫今に至りても後を継ぎ、たへずけしの
助と呼。今は次第に器用になりて、放下もさまざま珍しき芸を尽くせども、初代けしの助の
如く、名人とは言ず、名人と唱えるは何芸にても、又格別の事成」
著者:三谷 一馬 (著)
出版社: 中央公論社 (1996/03)
ISBN-10: 4122025648
江戸時代の風俗をしめす絵に著者が勝手に?色をつけたもの。
色がつくとかなり楽しい。
七味唐辛子売りは唐辛子の巨大張りぼてをしょって売り歩いていた。
狐の飴売りは、飴が売れるとヘンな踊りをみせていた。
手車売り(ヨーヨー)なんてのもいたのね。
鳥渡一服(ちょっといっぷく):
吉原の格子を模したものをもってあるいてそこからキセルをだして花魁の真似をして
銭を乞うというかなりシュールな絵もある
けしの助は瓜のマジックの絵。
出典は「絵本盲文画話」(文政10年)水野盧朝画
「こは(略)浅草のけしの助として、江戸中知らざる者なき豆蔵なりけり。第一の芸は
毬、陶器(とくり)、鎌、刀、玉に交ぜて、豆さへ手玉に取、鎌、刀は手に取毎に同じく
落る、豆を切り割るに十に十はづる事なく、手玉の内に切割る、尤も一本足の高下駄
はきてする也。或いは品球、又は小さき屏風様の物を、角に箱の如く畳み、其内江
小玉、或はとくり抔(など)入て、どじょう、鳩などに変じさせ、又種成とて、何か蒔て(まきて)、
暫時に木綿にて造りし真桑瓜、実花葉まで栄へて顕るる、其外色々の手妻して、日々
大入なり。観音参詣の者は、此けしの助見ざる者はなきが如し。其業古風ながら、頗る名人
といいつべし。明和頃迄有りて没したる由。其子其孫今に至りても後を継ぎ、たへずけしの
助と呼。今は次第に器用になりて、放下もさまざま珍しき芸を尽くせども、初代けしの助の
如く、名人とは言ず、名人と唱えるは何芸にても、又格別の事成」
井の頭ポイ練習会 に初めて参加した。ポイは何度か講習会に参加しているものの、全く練習していない(汗)ので、ほんとに初心者。
3時からのYutaさんの初心者講習会に参加させていただいた。
りールターンができない Orz 2ビートウィーブをやろうとしてどうしても3ビートになってしまうOrz
でも講習を受けた結果、練習すればなんとかなりそうというところまでいったみたい。
ありがとうYutaさん。
次の写真は午後1時ごろで人がまださほど集まっていない頃。講習会の時間にはこの何倍もの人がいた。。
井の頭公園では井の頭公園アートマーケッツという企画があるのを初めて知った。
アート系小品の販売や大道芸がなされているのね。
次の写真は近くでやっていた漫画読み大道芸、人がそこそこ集まっていましたよ。