初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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ジャグリングで社会で楽しくする会第二回で日本の曲芸の歴史を語ります。
タイトル「日本におけるジャグリングの歴史、奈良時代から江戸時代まで」
ジャグリングは千年以上前から日本で演じられていました。奈良時代から江戸時代まで、芸の担い手の変遷を中心にジャグリングと社会の関わりを語ります。
twitter ハッシュタグ #juggling_society で探してみてください
どんな内容を語るのかつぶやいています。現在室町時代あたりかな。
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読売新聞にジャグリングに関する記事が掲載された。
ピーターフランクルさんとジャグリング協会理事長である鶴見へのインタビューを元に書かれている。
これにあわせてジャグリング検定表がジャグリング協会Web上で公開された。
私で5級くらいかなあ。
ピーターフランクルさんとジャグリング協会理事長である鶴見へのインタビューを元に書かれている。
これにあわせてジャグリング検定表がジャグリング協会Web上で公開された。
私で5級くらいかなあ。
書名:江戸の大道芸人
著者:光田 憲雄
出版社: つくばね舎 (2009/08)
ISBN-10: 4924836737
目次:
1章 日本の大道芸―まずはご覧じろ
2章 江戸大道芸の系譜
3章 江戸の大道芸人点描
4章 南京玉すだれ名称変遷史
5章 がまの油は何時から筑波山になったか
6章 反魂丹の謎―松井源水と松井源左衛門
7章 四季の物売り

前半は比較的よくある江戸時代の大道芸の紹介。
この本は後半がおもしろい。
南京玉簾、蝦蟇の油、曲独楽のルーツに関する独自研究が発表されている。
21ページ
大神楽
「続飛鳥川」は、大晦日は天狗、小正月と盂蘭盆は閻魔増といろいろ区別が
あった様子を次のように記す。
太神楽
年越しの日ばかり天狗の面かぶり来る。
お出入りの閻魔様言ふて、正月16日と7月16日、小さき木造の閻魔を持ちき
たり、奥へ出す。賽銭、米など入れ返す。
太神楽から直接の影響を受けたか否かは不明だが、もう少し時代が下がると
「わいわい天王」というのが現れる
54ページ
わいわい天王
天狗の面をかぶり子供を集めては、「わいわい天王囃すがお好き」などと唱
えながら、「牛頭天王」とかかれたお札をばらまき、後で親の家を一軒一軒
回っては、お布施を乞うた雑業者のうちの神道者のことである
後半の章は独自研究の成果が見えておもしろい
南京たますだれの歴史
137ー160
南京玉簾と呼ばれるようになったのはなんと昭和50年代から!それまでは、
すだれ、手遊び、竹からくり、編み竹などと呼ばれていたそうだ。
昭和41年に芝辻たかし氏がすだれ状道具を持ってTV素人寄席に出演したとき、
プロの審査員たちも驚いたほど、たますだれは忘れ去られた存在だった。
「諸芸口上集」には玉簾の口上が掲載されているが、この本自体が昭和にか
かれた偽書ではないかと著者は疑っており、いろいろ証拠を示している。
蝦蟇の油は筑波山にはなかった!
161ー175
蝦蟇の油売りの話は上方落語からきており、口上をみても上方の地名ばかり、
筑波山に蝦蟇の油売りは存在しない。
松井源水は反魂丹を売っていなかった
176-189
「松井家由緒書」によると松井家は越中出身で反魂丹製造販売となっているが、
どうも嘘らしい。反魂丹を売っていたのは居合い抜きをしていた松井源左衛門
であり、源水は曲独楽をやって歯磨きを売っていた。また反魂丹を売る曲鞠つ
かいもいた。
著者:光田 憲雄
出版社: つくばね舎 (2009/08)
ISBN-10: 4924836737
目次:
1章 日本の大道芸―まずはご覧じろ
2章 江戸大道芸の系譜
3章 江戸の大道芸人点描
4章 南京玉すだれ名称変遷史
5章 がまの油は何時から筑波山になったか
6章 反魂丹の謎―松井源水と松井源左衛門
7章 四季の物売り

前半は比較的よくある江戸時代の大道芸の紹介。
この本は後半がおもしろい。
南京玉簾、蝦蟇の油、曲独楽のルーツに関する独自研究が発表されている。
21ページ
大神楽
「続飛鳥川」は、大晦日は天狗、小正月と盂蘭盆は閻魔増といろいろ区別が
あった様子を次のように記す。
太神楽
年越しの日ばかり天狗の面かぶり来る。
お出入りの閻魔様言ふて、正月16日と7月16日、小さき木造の閻魔を持ちき
たり、奥へ出す。賽銭、米など入れ返す。
太神楽から直接の影響を受けたか否かは不明だが、もう少し時代が下がると
「わいわい天王」というのが現れる
54ページ
わいわい天王
天狗の面をかぶり子供を集めては、「わいわい天王囃すがお好き」などと唱
えながら、「牛頭天王」とかかれたお札をばらまき、後で親の家を一軒一軒
回っては、お布施を乞うた雑業者のうちの神道者のことである
後半の章は独自研究の成果が見えておもしろい
南京たますだれの歴史
137ー160
南京玉簾と呼ばれるようになったのはなんと昭和50年代から!それまでは、
すだれ、手遊び、竹からくり、編み竹などと呼ばれていたそうだ。
昭和41年に芝辻たかし氏がすだれ状道具を持ってTV素人寄席に出演したとき、
プロの審査員たちも驚いたほど、たますだれは忘れ去られた存在だった。
「諸芸口上集」には玉簾の口上が掲載されているが、この本自体が昭和にか
かれた偽書ではないかと著者は疑っており、いろいろ証拠を示している。
蝦蟇の油は筑波山にはなかった!
161ー175
蝦蟇の油売りの話は上方落語からきており、口上をみても上方の地名ばかり、
筑波山に蝦蟇の油売りは存在しない。
松井源水は反魂丹を売っていなかった
176-189
「松井家由緒書」によると松井家は越中出身で反魂丹製造販売となっているが、
どうも嘘らしい。反魂丹を売っていたのは居合い抜きをしていた松井源左衛門
であり、源水は曲独楽をやって歯磨きを売っていた。また反魂丹を売る曲鞠つ
かいもいた。
書名:サーカス―起源・発展・展望
著者:エヴゲニィ クズネツォフ
出版社:ありな書房 (2006/12)
ISBN-10: 4756606946

P9
サーカスの円形アリーナをマネージュと言い、直径13mである
馬のアクロバットを行うために円形の空間となった。
P12
マネージュにおける鞭は合図として使われる。馬が一定のテンポを
保って正確なリズムで走るために鞭で馬のテンポを制御している
P20
16-17世紀において曲馬が少なかったのはまず経済的事情による。
維持費はかかるし、興行の中断などで耐えられねばならない。
調教師や馬上のアクロバット芸人は少なくとも「資本家」でなくてはならない
P21
18世紀なかばで曲馬が受けた理由の仮説。
産業革命は、下層芸術の需要者だった定期市や市場を衰退させ
そのため広場の見世物が息絶えてしまった。必然的に皆都市に向かって
P139
合戦パントマイムドラマから、本来の意味の演劇にまで変化していった
「悪魔の薬」はレパートリーごたまぜの舞台だった。
P164
若いドイツのサーカスが勝利した理由は、狙いを変えたてんにある。レンツの
サーカスは社会の特権層ではなく、プチブルと都市の市民層に照準を合わせた。
パリで主導権を握っていた観客に比べて社会構成が等質で庶民的な層を念頭においた。
P176
60年代初頭のアメリカの移動サーカスは、当時は田舎しか回っていなかったヨーロッパ
の移動サーカスとは相当に趣を異にしていた。アメリカのサーカスは一大企業であり
規模においては常設サーカスそのものであって地方を巡っていく移動大テントサーカス
という新しい形態をとっていた。
P191
ロシアで普及していた組み立て式のテントサーカスは同業者の間では、アメリカ人を
まねてシャピトーサーカスとよばれていた。米国の場合規格化し、組み立て部品を
建築技術的に正確に作り上げていた。ロシアにシャピトーが発達したのは、貧困と
組織力の弱さが理由になっており、家内工業的な手作りのものであった。
P193
ニキーチン兄弟一座の核をなしていたのはロシアの芸人たちであり、中でもピョートル
ニキーチンが群を抜いていた。彼は曲乗り、馬上のパントマイム、早代わり劇、新形式
の馬上アクロバット、さまざまな道具を使った軽業、床でのジャンプなんでもできた。
ジャグリングと馬上のアクロバットをこなす、ロシア最初のジャグラーのひとり
ミハイル・パシチェンコは当時ニキーチン兄弟のところで芸人としての一歩を踏み出していた。
P202
ジョッキー芸はイギリスで生まれたとされている。中部ヨーロッパで曲馬師のシャルルスレザク
によってはじめて披露されたのは60年代末である。
アクロバットをくみあわせたもので常にジョッキーの服装をしていた。ジョッキー跳びという
独特な曲芸あり。
P207
生活の中で馬がきわめて重要な役割を果たしていた20年代には生活がそのまま寸劇の材料
にもなっていた。馬車駅や馬術学校、駅逓馬車や馬市が生活の身近にあり若いサーカスの
源になっていた。しかし80年代近くにあると、だめになる。馬の調教で再現できるような
現実生活はもはや見出しがたかった。
P218
19世紀末には馬のサーカスは主要レパートリーの地位からサーカスを構成する多くの要素
の中のひとつという地位に落ち、そのさい、高等馬術や馬上のアクロバット、調馬などの
分野における表現は技術面で複雑さを増し、動きをダイナミックにして支配階級の
スポーツ的関心にますます近づけた。
P220
オーギュストは70年代にどこからともなく自然に生まれた。誕生した当初のオーギュスト
は滑稽でのろまなユニフォーム着用者として登場しており、着飾って登場しかっこよく
きびきびとした芸を披露していた芸人たちとは好対照をなしていた。
P227
シャリヴァリー---道化芸の第一段階でもっとも簡単な形式。シャリヴァリは集団でおこなう
演目であり、跳躍の訓練を受けた芸人たちがクラウンやオーギュストの衣装をまとい、本物
のクラウンなどの後に我先にと飛び板から跳躍していくもの。
P228
次の段階はルプリーズであり会話は小芝居。「蝶々取り」というシャンバリエールの先に
蝶の紙を結びつけてそれを捕まえに行くという演技、いつまでたっても蝶はつかまらない。
マイムとアクロバットを活用した」演技では愚図で近眼であることになっていた。
P274
日本人アクロバット芸人
日本人アクロバット芸人とは独立したひとつのジャンルであった。
彼らはいぶし銀の龍を刺繍した紺青色の裃を着てマネージュに登場するのを常としており、
細かな花模様がついた紺青色の布を絨毯の上に敷いて演技をする。
うやうやしくお辞儀をすると、裃をぱっと脱ぎ捨て、絹の胴着と膝までの袴といったいでたち
になる。民族色豊かな離れ業の最初は、垂直に張った綱をよじ登るものである。日本人は
ヨーロッパ人のように手で登るのではなく、手と足の両方を使って登る。よく発達した
足の指と足袋を利用して、手足双方で綱につかまり、垂直の綱をかなりの高さにまで
猿のように登っていく。
離れ業の第二は、45度という急勾配で張った針金を登り、上端でバランスをとったあと
後ろ向きで猛然と滑り降り、観客の度肝を抜く
第三は下役が支えたしなやかな竹ざおの上でのバランス芸と吊り下げられた短い竹の上で
3,4人が演じるバランス芸である。
第四は足芸である。力強さやダイナミズムを売りものとしたこのジャンルでもヨーロッパ人
とは異なり、日本人アクロバットはもっぱらバランス芸の繊細さやきわどいバランス、手の込んだ
衒いを狙っていた。
P284
ジャグラー
ジャグリングもいまや転換期を迎えていた。厩舎との結びつきから離れ、隣接するアクロバット
的ジャンルからも分かれ「かけもち」を拒もうとしていた。そしてもっぱら自らの分野にのみ
狭く専門化し、形式面をすっかり刷新し、技術面の著しいレベルアップを図っていた。
小道具や、小道具に規定された特徴しだいで、ジャグラーは、バランス系ジャグラー、
強力ジャグラー、クラフトジャグラー、サロンジャグラーへと分化していく。
P288
サーカスから若き軽演劇がとりこんだものの第一はスポーツアクロバットである。
この場合は日本人アクロバット芸人からジョングルールにいたるまで全てのだしものを
マネージュから舞台へ容易に移すことができた
P291
サロンジャグラーは頭の先から踵まで、サロンやレストラン風の小道具から容姿にいたるまで、
全ての点で典型的であり、徹底していた、彼は上流社会のダンディな道楽者を表しており、
燕尾服姿でエレガントに登場する。彼をアシストするのはナイトガウンを着て、この演技に
巧みに加わることになる粋な女性化、ひどく軽薄だが魅惑的に肌を露出した女性である。
脇の下にナプキンをはさんだ召使や馬丁あるいは女性帽子店やレストランのボーイも手伝う。
彼はレストランか酒場らしき舞台装置で演技し、ブルジョアの観客にとってはおなじみの
日用品ーシルクハット、ステッキ、傘、葉巻タバコ、時計、昼食の献立表、シャンパンの瓶、
フルーツとナイフ、サラダボール、皿、ビリヤードのキューと玉、を使い、時にマーチや
タンゴ、フォックストロットなどにあわせて曲芸をする。
アンリ・アグスト、カラ、ウィリー・パンツァーとその仲間たち、そしてペレツ・アンサンブル
は1880年代から1900年代にかけての代表的なサロンジャグラーである。
アンリ・アグストはレストランーサロン風の軽業の発案者であり、自作の「定食」や「パリの
レストランの一場面」を売り物にしていた。軽演劇舞台を考えて構成されたこれらのだしもの
ではアグストが、レストランらしき舞台装置に、一杯機嫌の初老の道楽者姿で、娼婦の手を
とって登場する。客をみつけてよろこんだ給仕と給仕長は食事の用意を始めるが、食卓の
品物を使ってジャグリングを行う。皿や果物、コップやナイフはテーブルに出される代わりに
投げ上げられ、放物線を描いてテーブル上に落ちる。年老いた道楽者とその陽気な連れは
次第に給仕と給仕長のしていることに誘い込まれていく。レストランの小部屋全体に物が
飛び交う中で、年老いたいたずらものは疲れも見せず、隙を狙って糊のついた白いテーブルクロス
を食卓からすばやくはぎとろうとする。給仕たち全員がそうはさせじとテーブルめがけて
突進するが、客はみごとにテーブルクロスをはぎとり、食卓の品はかすかに動いただけで
そのままテーブル上に残る。
ウィリー・パンツァーとパートナーたちは、アグストのだしものを「レストランの調理場
の一場面」へとつくりなおした。また第一次大戦前の時期には他にぬきんでていたペレツ
一座はこれと同じ性格の出し物「レストラン<マクシム>での晩餐」によって名を馳せた。
P292
テニスジャグラーとインディアンクラブジャグラーは前世紀末のもっとも典型的な
スポーツジャグラーである。前者はテニス用の服装をし、ラケットとボールを手にして
グラウンドにいるかのように芸を披露した。それにたいして後者は色とりどりの金属板
で装飾されたインディアンクラブを使ってジャグリングをおこなった。
P356
公証契約
1870年代に登場した契約書には雇用側にはあらゆる権利を与えるのにたいし、芸人たちには
あらゆる義務を課し、権利は一切あたえないというものであった。
P366
芸人の国際的連帯を実現したのは「国際芸人センター」 Internationale Artisten-Loge
である。略称IAL,1901年にベルリンで組織。ここを拠点として自分たちの権利獲得のために
戦うことができた
P388
サーカスと軽演劇の混成
だしものは「パントマイムイントロダクション」と呼ばれる独特なマイム演技で始まるように
なった。演技者が自然にフットライトの前に飛び出し無理なく曲芸にうつるのを助けるもので
あった。
パントマイムはだしものの曲芸的部分に常に伴うようになり、10-12分マネージュにでる芸人
が5-6分を本芸にあて、同じほどの時間をパントマイム的場面に、つまり長いポーズを駆使
しなあら演劇的に展開される演技にあてることもまれではなかった。技術的にはとりたてて
言うほどのこともない一般的なだしものが評判をとり、そのために時にはうまく舞台化
され演じられることもあったパントマイムが核となり、曲芸は添えものとなっていった。
P403
第一次大戦まえの最先端のスポーツ器具だった空中駒を使ったジャグラー
P439
レスリング
グレコローマンレスリング選手権もだしものとなっていた
P474
ジャグリングの分野では、やや意外なことにジャグラーの術をその純粋な古典的形式に
戻したエンリコラステリの登場と活躍もあってか、ちょうど逆の傾向が優勢である。
ブルジョア的環境の中で活躍し、日常生活品をもとにしたかさばる小道具を使っていた
近代のジャグラーたちに対抗して、エンリコラステリはジャグラーのバランス芸的技能
を重視し、主に短い棒とゴム鞠を使った。小道具もその使い方も日本の芸人から借用
したものであったが、ラステリはそれにかなり手をくわえて大成功をおさめた
P475
もうひとつのながれはテーマ上の動機付けと客席のさくらの助手や多彩な音の組み合わせ
といった豊かな演技形式に頼る、エクサントリックジャグリングの方向に進んだ。
リッチ・ハイエズ、(1924年から25年にソ連の国立サーカスに客演した)キング・レップ、
それに(1925年から26年にソ連の国立サーカスに客演した)マック・タークがこの流派
の代表に数えられる。
P513
第一にサーカスとは、イデオロギー的実践のうちの特殊な一形態である芸術の中の一部門
である。第二にサーカスの演技は決して「下層の庶民的な」芸術ではなく、支配階級の
イデオロギーを独自の手段で具体化してきた芸術である。第三にサーカスとは十分に自立性
をもった芸術の一部門であって、独自の特徴をもっており演劇の派生物ではない。
著者:エヴゲニィ クズネツォフ
出版社:ありな書房 (2006/12)
ISBN-10: 4756606946

P9
サーカスの円形アリーナをマネージュと言い、直径13mである
馬のアクロバットを行うために円形の空間となった。
P12
マネージュにおける鞭は合図として使われる。馬が一定のテンポを
保って正確なリズムで走るために鞭で馬のテンポを制御している
P20
16-17世紀において曲馬が少なかったのはまず経済的事情による。
維持費はかかるし、興行の中断などで耐えられねばならない。
調教師や馬上のアクロバット芸人は少なくとも「資本家」でなくてはならない
P21
18世紀なかばで曲馬が受けた理由の仮説。
産業革命は、下層芸術の需要者だった定期市や市場を衰退させ
そのため広場の見世物が息絶えてしまった。必然的に皆都市に向かって
P139
合戦パントマイムドラマから、本来の意味の演劇にまで変化していった
「悪魔の薬」はレパートリーごたまぜの舞台だった。
P164
若いドイツのサーカスが勝利した理由は、狙いを変えたてんにある。レンツの
サーカスは社会の特権層ではなく、プチブルと都市の市民層に照準を合わせた。
パリで主導権を握っていた観客に比べて社会構成が等質で庶民的な層を念頭においた。
P176
60年代初頭のアメリカの移動サーカスは、当時は田舎しか回っていなかったヨーロッパ
の移動サーカスとは相当に趣を異にしていた。アメリカのサーカスは一大企業であり
規模においては常設サーカスそのものであって地方を巡っていく移動大テントサーカス
という新しい形態をとっていた。
P191
ロシアで普及していた組み立て式のテントサーカスは同業者の間では、アメリカ人を
まねてシャピトーサーカスとよばれていた。米国の場合規格化し、組み立て部品を
建築技術的に正確に作り上げていた。ロシアにシャピトーが発達したのは、貧困と
組織力の弱さが理由になっており、家内工業的な手作りのものであった。
P193
ニキーチン兄弟一座の核をなしていたのはロシアの芸人たちであり、中でもピョートル
ニキーチンが群を抜いていた。彼は曲乗り、馬上のパントマイム、早代わり劇、新形式
の馬上アクロバット、さまざまな道具を使った軽業、床でのジャンプなんでもできた。
ジャグリングと馬上のアクロバットをこなす、ロシア最初のジャグラーのひとり
ミハイル・パシチェンコは当時ニキーチン兄弟のところで芸人としての一歩を踏み出していた。
P202
ジョッキー芸はイギリスで生まれたとされている。中部ヨーロッパで曲馬師のシャルルスレザク
によってはじめて披露されたのは60年代末である。
アクロバットをくみあわせたもので常にジョッキーの服装をしていた。ジョッキー跳びという
独特な曲芸あり。
P207
生活の中で馬がきわめて重要な役割を果たしていた20年代には生活がそのまま寸劇の材料
にもなっていた。馬車駅や馬術学校、駅逓馬車や馬市が生活の身近にあり若いサーカスの
源になっていた。しかし80年代近くにあると、だめになる。馬の調教で再現できるような
現実生活はもはや見出しがたかった。
P218
19世紀末には馬のサーカスは主要レパートリーの地位からサーカスを構成する多くの要素
の中のひとつという地位に落ち、そのさい、高等馬術や馬上のアクロバット、調馬などの
分野における表現は技術面で複雑さを増し、動きをダイナミックにして支配階級の
スポーツ的関心にますます近づけた。
P220
オーギュストは70年代にどこからともなく自然に生まれた。誕生した当初のオーギュスト
は滑稽でのろまなユニフォーム着用者として登場しており、着飾って登場しかっこよく
きびきびとした芸を披露していた芸人たちとは好対照をなしていた。
P227
シャリヴァリー---道化芸の第一段階でもっとも簡単な形式。シャリヴァリは集団でおこなう
演目であり、跳躍の訓練を受けた芸人たちがクラウンやオーギュストの衣装をまとい、本物
のクラウンなどの後に我先にと飛び板から跳躍していくもの。
P228
次の段階はルプリーズであり会話は小芝居。「蝶々取り」というシャンバリエールの先に
蝶の紙を結びつけてそれを捕まえに行くという演技、いつまでたっても蝶はつかまらない。
マイムとアクロバットを活用した」演技では愚図で近眼であることになっていた。
P274
日本人アクロバット芸人
日本人アクロバット芸人とは独立したひとつのジャンルであった。
彼らはいぶし銀の龍を刺繍した紺青色の裃を着てマネージュに登場するのを常としており、
細かな花模様がついた紺青色の布を絨毯の上に敷いて演技をする。
うやうやしくお辞儀をすると、裃をぱっと脱ぎ捨て、絹の胴着と膝までの袴といったいでたち
になる。民族色豊かな離れ業の最初は、垂直に張った綱をよじ登るものである。日本人は
ヨーロッパ人のように手で登るのではなく、手と足の両方を使って登る。よく発達した
足の指と足袋を利用して、手足双方で綱につかまり、垂直の綱をかなりの高さにまで
猿のように登っていく。
離れ業の第二は、45度という急勾配で張った針金を登り、上端でバランスをとったあと
後ろ向きで猛然と滑り降り、観客の度肝を抜く
第三は下役が支えたしなやかな竹ざおの上でのバランス芸と吊り下げられた短い竹の上で
3,4人が演じるバランス芸である。
第四は足芸である。力強さやダイナミズムを売りものとしたこのジャンルでもヨーロッパ人
とは異なり、日本人アクロバットはもっぱらバランス芸の繊細さやきわどいバランス、手の込んだ
衒いを狙っていた。
P284
ジャグラー
ジャグリングもいまや転換期を迎えていた。厩舎との結びつきから離れ、隣接するアクロバット
的ジャンルからも分かれ「かけもち」を拒もうとしていた。そしてもっぱら自らの分野にのみ
狭く専門化し、形式面をすっかり刷新し、技術面の著しいレベルアップを図っていた。
小道具や、小道具に規定された特徴しだいで、ジャグラーは、バランス系ジャグラー、
強力ジャグラー、クラフトジャグラー、サロンジャグラーへと分化していく。
P288
サーカスから若き軽演劇がとりこんだものの第一はスポーツアクロバットである。
この場合は日本人アクロバット芸人からジョングルールにいたるまで全てのだしものを
マネージュから舞台へ容易に移すことができた
P291
サロンジャグラーは頭の先から踵まで、サロンやレストラン風の小道具から容姿にいたるまで、
全ての点で典型的であり、徹底していた、彼は上流社会のダンディな道楽者を表しており、
燕尾服姿でエレガントに登場する。彼をアシストするのはナイトガウンを着て、この演技に
巧みに加わることになる粋な女性化、ひどく軽薄だが魅惑的に肌を露出した女性である。
脇の下にナプキンをはさんだ召使や馬丁あるいは女性帽子店やレストランのボーイも手伝う。
彼はレストランか酒場らしき舞台装置で演技し、ブルジョアの観客にとってはおなじみの
日用品ーシルクハット、ステッキ、傘、葉巻タバコ、時計、昼食の献立表、シャンパンの瓶、
フルーツとナイフ、サラダボール、皿、ビリヤードのキューと玉、を使い、時にマーチや
タンゴ、フォックストロットなどにあわせて曲芸をする。
アンリ・アグスト、カラ、ウィリー・パンツァーとその仲間たち、そしてペレツ・アンサンブル
は1880年代から1900年代にかけての代表的なサロンジャグラーである。
アンリ・アグストはレストランーサロン風の軽業の発案者であり、自作の「定食」や「パリの
レストランの一場面」を売り物にしていた。軽演劇舞台を考えて構成されたこれらのだしもの
ではアグストが、レストランらしき舞台装置に、一杯機嫌の初老の道楽者姿で、娼婦の手を
とって登場する。客をみつけてよろこんだ給仕と給仕長は食事の用意を始めるが、食卓の
品物を使ってジャグリングを行う。皿や果物、コップやナイフはテーブルに出される代わりに
投げ上げられ、放物線を描いてテーブル上に落ちる。年老いた道楽者とその陽気な連れは
次第に給仕と給仕長のしていることに誘い込まれていく。レストランの小部屋全体に物が
飛び交う中で、年老いたいたずらものは疲れも見せず、隙を狙って糊のついた白いテーブルクロス
を食卓からすばやくはぎとろうとする。給仕たち全員がそうはさせじとテーブルめがけて
突進するが、客はみごとにテーブルクロスをはぎとり、食卓の品はかすかに動いただけで
そのままテーブル上に残る。
ウィリー・パンツァーとパートナーたちは、アグストのだしものを「レストランの調理場
の一場面」へとつくりなおした。また第一次大戦前の時期には他にぬきんでていたペレツ
一座はこれと同じ性格の出し物「レストラン<マクシム>での晩餐」によって名を馳せた。
P292
テニスジャグラーとインディアンクラブジャグラーは前世紀末のもっとも典型的な
スポーツジャグラーである。前者はテニス用の服装をし、ラケットとボールを手にして
グラウンドにいるかのように芸を披露した。それにたいして後者は色とりどりの金属板
で装飾されたインディアンクラブを使ってジャグリングをおこなった。
P356
公証契約
1870年代に登場した契約書には雇用側にはあらゆる権利を与えるのにたいし、芸人たちには
あらゆる義務を課し、権利は一切あたえないというものであった。
P366
芸人の国際的連帯を実現したのは「国際芸人センター」 Internationale Artisten-Loge
である。略称IAL,1901年にベルリンで組織。ここを拠点として自分たちの権利獲得のために
戦うことができた
P388
サーカスと軽演劇の混成
だしものは「パントマイムイントロダクション」と呼ばれる独特なマイム演技で始まるように
なった。演技者が自然にフットライトの前に飛び出し無理なく曲芸にうつるのを助けるもので
あった。
パントマイムはだしものの曲芸的部分に常に伴うようになり、10-12分マネージュにでる芸人
が5-6分を本芸にあて、同じほどの時間をパントマイム的場面に、つまり長いポーズを駆使
しなあら演劇的に展開される演技にあてることもまれではなかった。技術的にはとりたてて
言うほどのこともない一般的なだしものが評判をとり、そのために時にはうまく舞台化
され演じられることもあったパントマイムが核となり、曲芸は添えものとなっていった。
P403
第一次大戦まえの最先端のスポーツ器具だった空中駒を使ったジャグラー
P439
レスリング
グレコローマンレスリング選手権もだしものとなっていた
P474
ジャグリングの分野では、やや意外なことにジャグラーの術をその純粋な古典的形式に
戻したエンリコラステリの登場と活躍もあってか、ちょうど逆の傾向が優勢である。
ブルジョア的環境の中で活躍し、日常生活品をもとにしたかさばる小道具を使っていた
近代のジャグラーたちに対抗して、エンリコラステリはジャグラーのバランス芸的技能
を重視し、主に短い棒とゴム鞠を使った。小道具もその使い方も日本の芸人から借用
したものであったが、ラステリはそれにかなり手をくわえて大成功をおさめた
P475
もうひとつのながれはテーマ上の動機付けと客席のさくらの助手や多彩な音の組み合わせ
といった豊かな演技形式に頼る、エクサントリックジャグリングの方向に進んだ。
リッチ・ハイエズ、(1924年から25年にソ連の国立サーカスに客演した)キング・レップ、
それに(1925年から26年にソ連の国立サーカスに客演した)マック・タークがこの流派
の代表に数えられる。
P513
第一にサーカスとは、イデオロギー的実践のうちの特殊な一形態である芸術の中の一部門
である。第二にサーカスの演技は決して「下層の庶民的な」芸術ではなく、支配階級の
イデオロギーを独自の手段で具体化してきた芸術である。第三にサーカスとは十分に自立性
をもった芸術の一部門であって、独自の特徴をもっており演劇の派生物ではない。
書名:芸能の人類学
著者:姫野 翠
出版社: 春秋社 (1989/10)
言語 日本語
ISBN-10: 4393424514
目次:
第1章 呪術から芸能へ(呪術と芸能、芸能をになった人々)
第2章 芸能に見る東と西(舞踊の展開、東の音楽・西の音楽)
第3章 これからの芸能
71-74P
日本においては小正月(1/15)と盆(7/15)はマレビト来訪のラッシュ日
である。小正月において、異形の訪問者がやってきて、人々の歓待を
受け、邪を祓い、予祝をしていずこへともなく去っていくという形の
行事はほぼ日本全土にわたって存在している。能登のアマメハギ、
因幡のほとほと、岡山ー広島のコトコト、高知のカスズリ、ラオス
のフー・グヌ・グナ・グヌ、メラネシアのドゥクドゥク etc.
行事に共通しているのは,秘密結社・年齢集団的な要素、そして扮装。
ほとんどが仮面で顔を覆い、蓑または蓑状のものをつける。
顔を見せないのは個人の特徴を消し、蓑は神や精霊の依代となる。
95P
除災のために出発した念仏踊もだんだんと見た目のよさにこだわる
ようになり、風流化した。風流とは中世から近世において様々な
祭を豪華に、派手にするために作られた、小歌と踊りを主にした
芸能である。
98P
ジプシーと呼ばれている者はもともとインド北西部、現在の
パーンジャブ州からラジャスターン州にかけて住んでいた。
それがなんらかの理由で6-7世紀ごろ西に向かって移動を
開始する。インド→パキスタン→アフガニスタン→イラン→トルコ
→東ヨーロッパと7世紀以上かけて移動した。
102P
中世のヨーロッパには教会とは全く関係なく、世俗音楽を演奏する
芸人がいた。最下層に属するジョングルールは創作をせずに、他人
の歌を歌い、手品・曲芸動物使いなど万能芸人だった。
ミンストレルはジュングルールより上位にあって、創作もした。
貴族の館に召抱えられて、音楽をもって主に仕えていた。
139P
インドでは大地を踏みしめて精霊を目覚めさせ、豊かな恵みを約束
してもらうための、地の神との対話が、足が地についた、踏みしめる、
ステップを大切にする踊りを発達させた。
189P
長調=明るい、単調=暗い、は「西洋音楽の価値体系が通用する
世界」においてのみ正しい。斉太郎(サイタラ)節を聞いた米国人
は単調なので悲しい曲だと思った、しかし実は陰旋法といわれる
都節(ミヤコブシ)音階で短調ではない。
233P
フラは古代ハワイ王朝では、国家によって保護された芸能であった。
ところが1819年リホリホ王の治世下でタブーの廃止があり、フラの
神性が急速に薄れていった。1820年に米国からミッションがやって
きてキリスト教化がはじまり、それまでの宗教は迷信であるとして
しりぞけられ、フラの存続そのものも否定されてしまった。
その結果フラは地下へ潜ってポルノショーまがいの踊りにまで落ちた。
1883年に即位したデイヴィッド・カラカウア王がフラの復活を行った。
大胆な西欧風な音楽や踊り方(主としてファンタンゴやクァドリール)
を取り入れ再構築した。
234P~
ケーララのすぐ北にあるカルナータカ州につたわる、ヤクシャガーナ
という舞踊劇の上演形態の例をあげて芸能の変遷について検討する。
第一の例は豪華絢爛大衆化路線、ブラスバンド、花火、それにお寺から
お坊さん訪問イベント。
第二の例はステージショー化、本来のヤクシャガーナは土間で役者と
監修は同じ高さ。どうも舞台が遠い。
第三の例はオーソドックスなもの。
さてこのうちどれがこれからのヤクシャガーナに望ましいのか。
1.大衆化路線。これはこれで悪くない
2。舞台芸術への消化。芸術愛好家向けの演劇としての路線をとれば舞台芸術として活路があるだろう。
3.正統的なもの。本来あるべきスタイルを伝えるには最良。しかし
スポンサーになる側の大衆が伝統の保存に対して啓蒙されていないと
第一のパターンに流れてしまう。○○保存会というのがあるが、それと
おなじことに。この手の保存会が伝えている芸能は、本来それが伴って
いたはずの儀式の精神的内容は失われて、形骸化した技術のみが伝え
られている場合が多い。厄払いでもエンターテインメントでもない。
時代の様相につれて変化してこそ芸能ではないか。
241P
「観る・聞く芸能」から「参加する芸能」への変身がある。
芸能は
1.誰でも参加
2.普通の人で技術伝承者が一時的に演者となる
3.職業的演者(聖職者、賎民階級)
近代化で1,2は難しくなった。しかしカラオケの登場で様変わり。
個人が参加するうえに、芸能界の聖性をおとしてきている。
アマとプロの差が縮まってきている。
一億総中流という意識も後押し。
カラオケだけでなくロックコンサートのようにコンサートに「参加」
することもふえている。これは若者たちには聖なる祭。
社会の変化に合せて芸能は様々に姿を変え、さまざまな人に
支えられていくだろう。
著者:姫野 翠
出版社: 春秋社 (1989/10)
言語 日本語
ISBN-10: 4393424514
目次:
第1章 呪術から芸能へ(呪術と芸能、芸能をになった人々)
第2章 芸能に見る東と西(舞踊の展開、東の音楽・西の音楽)
第3章 これからの芸能
71-74P
日本においては小正月(1/15)と盆(7/15)はマレビト来訪のラッシュ日
である。小正月において、異形の訪問者がやってきて、人々の歓待を
受け、邪を祓い、予祝をしていずこへともなく去っていくという形の
行事はほぼ日本全土にわたって存在している。能登のアマメハギ、
因幡のほとほと、岡山ー広島のコトコト、高知のカスズリ、ラオス
のフー・グヌ・グナ・グヌ、メラネシアのドゥクドゥク etc.
行事に共通しているのは,秘密結社・年齢集団的な要素、そして扮装。
ほとんどが仮面で顔を覆い、蓑または蓑状のものをつける。
顔を見せないのは個人の特徴を消し、蓑は神や精霊の依代となる。
95P
除災のために出発した念仏踊もだんだんと見た目のよさにこだわる
ようになり、風流化した。風流とは中世から近世において様々な
祭を豪華に、派手にするために作られた、小歌と踊りを主にした
芸能である。
98P
ジプシーと呼ばれている者はもともとインド北西部、現在の
パーンジャブ州からラジャスターン州にかけて住んでいた。
それがなんらかの理由で6-7世紀ごろ西に向かって移動を
開始する。インド→パキスタン→アフガニスタン→イラン→トルコ
→東ヨーロッパと7世紀以上かけて移動した。
102P
中世のヨーロッパには教会とは全く関係なく、世俗音楽を演奏する
芸人がいた。最下層に属するジョングルールは創作をせずに、他人
の歌を歌い、手品・曲芸動物使いなど万能芸人だった。
ミンストレルはジュングルールより上位にあって、創作もした。
貴族の館に召抱えられて、音楽をもって主に仕えていた。
139P
インドでは大地を踏みしめて精霊を目覚めさせ、豊かな恵みを約束
してもらうための、地の神との対話が、足が地についた、踏みしめる、
ステップを大切にする踊りを発達させた。
189P
長調=明るい、単調=暗い、は「西洋音楽の価値体系が通用する
世界」においてのみ正しい。斉太郎(サイタラ)節を聞いた米国人
は単調なので悲しい曲だと思った、しかし実は陰旋法といわれる
都節(ミヤコブシ)音階で短調ではない。
233P
フラは古代ハワイ王朝では、国家によって保護された芸能であった。
ところが1819年リホリホ王の治世下でタブーの廃止があり、フラの
神性が急速に薄れていった。1820年に米国からミッションがやって
きてキリスト教化がはじまり、それまでの宗教は迷信であるとして
しりぞけられ、フラの存続そのものも否定されてしまった。
その結果フラは地下へ潜ってポルノショーまがいの踊りにまで落ちた。
1883年に即位したデイヴィッド・カラカウア王がフラの復活を行った。
大胆な西欧風な音楽や踊り方(主としてファンタンゴやクァドリール)
を取り入れ再構築した。
234P~
ケーララのすぐ北にあるカルナータカ州につたわる、ヤクシャガーナ
という舞踊劇の上演形態の例をあげて芸能の変遷について検討する。
第一の例は豪華絢爛大衆化路線、ブラスバンド、花火、それにお寺から
お坊さん訪問イベント。
第二の例はステージショー化、本来のヤクシャガーナは土間で役者と
監修は同じ高さ。どうも舞台が遠い。
第三の例はオーソドックスなもの。
さてこのうちどれがこれからのヤクシャガーナに望ましいのか。
1.大衆化路線。これはこれで悪くない
2。舞台芸術への消化。芸術愛好家向けの演劇としての路線をとれば舞台芸術として活路があるだろう。
3.正統的なもの。本来あるべきスタイルを伝えるには最良。しかし
スポンサーになる側の大衆が伝統の保存に対して啓蒙されていないと
第一のパターンに流れてしまう。○○保存会というのがあるが、それと
おなじことに。この手の保存会が伝えている芸能は、本来それが伴って
いたはずの儀式の精神的内容は失われて、形骸化した技術のみが伝え
られている場合が多い。厄払いでもエンターテインメントでもない。
時代の様相につれて変化してこそ芸能ではないか。
241P
「観る・聞く芸能」から「参加する芸能」への変身がある。
芸能は
1.誰でも参加
2.普通の人で技術伝承者が一時的に演者となる
3.職業的演者(聖職者、賎民階級)
近代化で1,2は難しくなった。しかしカラオケの登場で様変わり。
個人が参加するうえに、芸能界の聖性をおとしてきている。
アマとプロの差が縮まってきている。
一億総中流という意識も後押し。
カラオケだけでなくロックコンサートのようにコンサートに「参加」
することもふえている。これは若者たちには聖なる祭。
社会の変化に合せて芸能は様々に姿を変え、さまざまな人に
支えられていくだろう。