初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
カレンダー
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
ブログ内検索
カテゴリー
最新TB
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
題名:ジャグリングで社会をたのしくする会第3回 「コミュニケーションツールとしてのジャグリングの可能性」
日時:2011年3月26日13:30-17:00
会場:深川いっぷく
講師:後藤学さん
主催:ハードバンチャーしんのすけさん
☆パフォーマンスのサポートは仕事にも役立つ
・パフォーマンスの司会経験が仕事のプレゼンにも役に立った。
・キーワードだけ書いておいてプレゼンするということができるように。
・サークルの中でも支える側に回るのと同様に会社の中でも自分ができるポジションを探せる。
・会社に依存しない自分も作り出せる。
・自分のスキルを磨くため何かしたいと思っておもちゃコンサルタントを取った。
☆ジャグリングはパフォーマンスだけではない
・ジャグリングが飽きてくると司会を仕事としてやるようになった。
・ジャグリング道具作りも好きだった。
・デビルスティックの自作方法を公開した後で、見知らぬ人が自分と同じ物を持って
いるのを見たのはうれしかった。
・子供たちと一緒に作ってそれで練習していくというのがいい。
☆笑顔を長続きさせるには
・病院でパフォーマンスをすると楽しんでくれるが、その場だけで長続きしない。
・ジャグリング道具の作り方を教えていくと、作り方が残って笑顔が長続きする。
・子供の笑顔を持続させるためにはその周りの親御さん、看護師さんを楽しませる。
☆ボランティアでパフォーマンスするのはスタッフに信用を得ることが大切
・入院した際、入院先の主治医の先生から小児科の先生に掛け合っていただいて
パフォーマンスができた。
・シティライフの1面に載り、これがひとつの通行手形となった。
・今度は病院のニュースに載ってまたやりやすくなった。
・シティライフでおもちゃコンサルタントとしてよんでくれてラジオ、テレビに出た。
・やりたいというところに向かうためにはいろんなところを固めていって
信頼を醸成する。
・自分がどんな人かいかに信用してもらうかがボランティアでは大切。
・今までに何回か実績があるという証拠があると良い。
☆病院でのパフォーマンスはたいへん
・病院にとってイメージアップになることでも看護師さんはとてもたいへん。
・売名行為をしているのかと病院で疑われたことがある。
・病院は楽しむ場所じゃない、というところがポイントかも。
・現在はメインの病院を決めて頻繁に行けるようにしている。
・イベントとしてやるのではなくその子たちのお兄さんという感じでやっている。
・病院に行くというのは人のうちに上がり込むということ、たくさん引き出しを
用意していろいろやる。バルーン、緩衝材工作等々。
☆パフォーマンスを見せるのが目的ではなく、楽しんで貰うことが目的
・緩衝材でうさぎを作ったことで、飼育セット作りなど遊びが広がった。
・小さな子たち相手だとパフォーマンスせずにものを見せるだけで終わることもある。
・支えていると皿回し。風船を膨らませてぽんぽんしているだけでも楽しい。
・主人公はお客様、自分に注目してもらうのではなくて喜んでもらうためのパフォーマンス。
・若いおかあさんに風船あげたらチョー元気になりました。
・完璧なものを提供せず工夫の余地を与え、ここから始まるようなことを教えて帰る。
・遊びを含めてジャグリングしなくてもよい。子供たちからアイディアをもらうことが多い。
・コップを山にしてロケットをぶつける。手でくずさせるだけでストレス発散になる。
・やらせていただいているという気持ちを持つ。
・押し売り的なところはだめ、客がどういう反応をするかが問題。
・自分のショーを見てくれることで見た人が元気になる。
・その場にあったパフォーマンスをする、ジャグリングはあくまでツールである。
・パフォーマンスにいってパフォーマンスしないということもある。
・ボールを落とすだけでも受けることがある
・自分でジャグリングを磨きたいというところとそうでないところをきりわける
☆人にあまり頼らない、邪魔しない
・凄く忙しい場所もある。
・必要な機材は全部もって行く。ラジカセなども全部持っていく。
・音楽流さなくてもできるくらいにしておく。ずっと喋っているとか。
・音楽にのせたやりかたしか準備してないと急きょ中止になっても怒らない。
・あまり人がいかない所に行く。
・プロのステージを邪魔しない。
☆続けることが一番
・無理しちゃ駄目、持続可能な範囲でやろう。
・自分ができる範囲でやる。
・一生続けられるペースでもよい
・優先順位は、1番家族 2番仕事 3番ボランティア!そうでないと持続可能でない。
・ここまでなら使って良いというボランティア関係費用を予算化する。そうすればそこまで
使っても平気になる。だって予算内なのですもの。
PR
書名:韓国サーカスの生活誌―移動の人類学への招待
著者:林 史樹
出版社: 風響社 (2007/10)
ISBN-10: 4894891174
韓国サーカスに入団してのフィールドワークを通しての胃サーカス生活の記録と、移動
する集団というものの組織構造や移動ということが人々に与える影響の分析。
元々が東京外国語大大学院修士論文が土台となっている。
サーカスはそもそも研究対象になっていない。サーカスの定義自身が難しく、ここでは
「公演のプログラムを持ち、仮設あるいは常設の劇場で曲芸を見せて、その対価として
の観覧料をとる組織集団」、くわえて「イメージとしての西洋で誕生した形態を継承し
たとかんがえられる見世物集団」という付帯条件がつく。
朝鮮半島にはじめてはいったサーカス団は日本人のものらしいが、日本のサーカス団が
いつどこにはいったかということははっきりしていない。同様に韓国(朝鮮)人による
最初のサーカス団もはっきりしない。1930年前後に韓国人の手によってつぎつぎとサー
カス団ができていることは確か。
1955ー65あたりが最盛期だったようで、10を越えるサーカス団ああった。60年代
後半から「魔術団」と呼ばれる団体が興業をはじめた。魔術団は手品師を中心とし軽業
も行っていた。魔術団はサーカス団が所有していたものの他、逆にサーカス団の前身と
なったものもある。魔術団とサーカス団の間を行き来する芸人も多く関係は緊密であっ
た。70年後半から人気が下降、それでも80年代初めまでは公演時間も3時間ほどでひと
つの演目も長かった。90年になるとサーカスの規模も縮小し、団体数も4ー5団体になっ
てしまう。91年10月に児童福祉法違反の疑いでサーカスに一斉捜査がはいった。15歳に
ならない少年少女を舞台に上げていた韓国のサーカス団団長、両親などは禁固刑を受け
た。
韓国サーカスには、専門用語において非常に多くの日本語の形跡がのこっている。コヤ、
マルタゴヤ、ハリ、アシバ、アンドン、イチリン(一輪車)、ウチアゲ、オオカンバン、
オヤジ、カーサ(傘回し)、キド(木戸)、シンマイ、シマイ(終い)、タテカンバン、
チラシ、ハリガネ(針金渡り)、ベニタ(ベニヤ板)、ピン(ピンハネ)、など。
韓国のサーカスで行われている曲芸の大半は日本からはいったものであり、綱渡り、足
芸、肩芸が主流である。
伝統的な移動芸能集団としては、男子だけで構成され、軽業が多い男寺党と女性を中心
に編成され歌や踊りが中心であった寺党がある。かれらは30ー50名単位で移動を繰り返し
ており、村の許可をえてはじめて1日だけの公演が許され、わずかな路銀を得たといわれ
ている。昼間は技芸を見せる男寺党や寺党も日が暮れると前者は稚児が男色を、後者は
女子が春を売ったとされている。
男寺党が主に演じていたのは、農楽、皿回し、トンボ返り、綱渡り、仮面劇、人形劇で
ある。皿回し、トンボ返り、綱渡りはサーカスでも見られるが、内容については子とな
りを見せており、サーカス芸との直接的な関係はほとんどない。
とんぼ返りはシンプルなもので、組体操のようなものはない。韓国サーカスでは「クァ
ンデ(広大)」と呼ばれる扇でバランスをとって行う綱渡りがあり、これが男寺党の名
残をとどめる唯一の曲芸である。韓国サーカスでの綱渡りの主流は「カンス(パイプを
もってわたる)」「ハリガネ(素手または傘でバランスをとってわたる)」。
皿回しは男寺党では、茶碗や木製の皿を用いるのに対し、サーカスではプラスチック製
または陶器で作られた皿を用いている。演技においても、男寺党では1本のキセルの先
にもう1本キセルをたててその先で皿を回したり、皿を回したまま高く放り投げてキセ
ルの先で受けるという演技が中心となる。一方サーカスでは皿回しの棒としてとくに細
工を加えていない長細い棒を用い、同時に複数の皿を回したり、様々に難しい体勢をとっ
てみせるといった演技が中心となる。
「クァンデ」さえも実際にそれを行う曲芸師はサーカスにほとんどいない。
1940年以降は日本の植民地政策上、より管理しやすいが残っていった、伝統的な芸能集
団がなくなり、日本的なサーカスのみが生き残った。韓国サーカスは従来の移動芸能集
団を受け入れる基盤のもとに受け入れられ支持された。それと共に移動芸能集団のイメ
ージも引き継いでしまった。
94ー95の調査当時において韓国の移動サーカス団は4団体、規模は20ー30名前後。調査を
行ったDサーカス団で、構成員の総数は20名から35名、仮に構成員を30名とすると曲芸
師が12名、雑用係が8名、妻子・団長など曲芸にも雑用にも加わらない者が10名という
内訳になる。
韓国サーカスの公演地は、各地方で行われる「郷土祭」のイベント会場、もうひとつ
は主に地方都市の開発予定地やビル建設予定地である。収益は前者が多い。
椅子レンタルや物販といった入場量以外の収入はそれを管理する者の収入となり、そ
の代わり給料を、もらわない。こういった給料以外の収入は「ワリ」と呼ばれる。
給料に関しては長時間労働の割には安いという不満が多い。ただし住居費と食費はか
からない。
当時20代前半の曲芸師はサラリーマンより少し上の賃金、40代だと少し下になる。た
だし福利厚生や保険、労災、賞与などが異なる。また曲芸をしない下回りは5割から6
割の収入となる。
夏で13時間、冬で8時間が拘束時間、実際には休憩がはいるため、労働時間は8時間、
6時間程度である。
メディアの報道姿勢としてはサーカスを「消えゆく存在、郷愁を呼ぶもの」としてい
るものが多く、サーカスに対する偏見を助長している。サーカスのイメージは「哀愁」
「浮草」。1976年に韓水山が「浮草」というタイトルでサーカスの天幕の下を舞台と
して書いた小説がヒットし、映画化され、サーカス=浮草というイメージが定着して
いった。韓国において芸能が高く評価されることは久しくなかったが、1970年代から
の高度成長により国力をつけた韓国では自国「固有」の芸能を再評価しようという気
運が高まってくる。男寺党やパンソリ謡をはじめとして「韓国的」とみなされた芸能
は重要文化財という地位を与えられたが、「韓国的」な要素を持たず従来のままに捉
えられていたのが韓国におけるサーカスであった。団長を継承する際、団員と結婚す
る際、に家族から強い反対を受けた。サーカスに従事していることを他人に知られな
いようにしている者も多い。
サーカスにおいては、
労働力が常に不足しているため、誰でも受け入れる。
入る理由は、そこで生まれた・親が連れてきた、曲芸とサーカスの生活にあこがれた、逃げてきた。
出ていく理由は、人間関係悪化、劣悪な雇用条件(低賃金、居住・労働環境)、追っ手がきた。
誰でも代わりがいる下回りは安く使い、代わり手がなかなかいない芸人は高給ということで
集団を形成している。また人間関係が悪化したときに、集団から離れることで危機を回避している。
移動するが故に、ものを持たず、ものを持たない故に移動しやすくなる。
サーカス団が憧れになる。
サーカスの演目は、マジック、ブランコ、肩芸、足芸、軟体、組体操、針金渡り、動物芸、ジャグリング、綱渡り、空中ブランコ。
曲芸師は各種の芸ができ、誰かが舞台に立てない時に互いに補完する役割をもつ。
移動に関する時間感覚が違う
著者:林 史樹
出版社: 風響社 (2007/10)
ISBN-10: 4894891174
韓国サーカスに入団してのフィールドワークを通しての胃サーカス生活の記録と、移動
する集団というものの組織構造や移動ということが人々に与える影響の分析。
元々が東京外国語大大学院修士論文が土台となっている。
サーカスはそもそも研究対象になっていない。サーカスの定義自身が難しく、ここでは
「公演のプログラムを持ち、仮設あるいは常設の劇場で曲芸を見せて、その対価として
の観覧料をとる組織集団」、くわえて「イメージとしての西洋で誕生した形態を継承し
たとかんがえられる見世物集団」という付帯条件がつく。
朝鮮半島にはじめてはいったサーカス団は日本人のものらしいが、日本のサーカス団が
いつどこにはいったかということははっきりしていない。同様に韓国(朝鮮)人による
最初のサーカス団もはっきりしない。1930年前後に韓国人の手によってつぎつぎとサー
カス団ができていることは確か。
1955ー65あたりが最盛期だったようで、10を越えるサーカス団ああった。60年代
後半から「魔術団」と呼ばれる団体が興業をはじめた。魔術団は手品師を中心とし軽業
も行っていた。魔術団はサーカス団が所有していたものの他、逆にサーカス団の前身と
なったものもある。魔術団とサーカス団の間を行き来する芸人も多く関係は緊密であっ
た。70年後半から人気が下降、それでも80年代初めまでは公演時間も3時間ほどでひと
つの演目も長かった。90年になるとサーカスの規模も縮小し、団体数も4ー5団体になっ
てしまう。91年10月に児童福祉法違反の疑いでサーカスに一斉捜査がはいった。15歳に
ならない少年少女を舞台に上げていた韓国のサーカス団団長、両親などは禁固刑を受け
た。
韓国サーカスには、専門用語において非常に多くの日本語の形跡がのこっている。コヤ、
マルタゴヤ、ハリ、アシバ、アンドン、イチリン(一輪車)、ウチアゲ、オオカンバン、
オヤジ、カーサ(傘回し)、キド(木戸)、シンマイ、シマイ(終い)、タテカンバン、
チラシ、ハリガネ(針金渡り)、ベニタ(ベニヤ板)、ピン(ピンハネ)、など。
韓国のサーカスで行われている曲芸の大半は日本からはいったものであり、綱渡り、足
芸、肩芸が主流である。
伝統的な移動芸能集団としては、男子だけで構成され、軽業が多い男寺党と女性を中心
に編成され歌や踊りが中心であった寺党がある。かれらは30ー50名単位で移動を繰り返し
ており、村の許可をえてはじめて1日だけの公演が許され、わずかな路銀を得たといわれ
ている。昼間は技芸を見せる男寺党や寺党も日が暮れると前者は稚児が男色を、後者は
女子が春を売ったとされている。
男寺党が主に演じていたのは、農楽、皿回し、トンボ返り、綱渡り、仮面劇、人形劇で
ある。皿回し、トンボ返り、綱渡りはサーカスでも見られるが、内容については子とな
りを見せており、サーカス芸との直接的な関係はほとんどない。
とんぼ返りはシンプルなもので、組体操のようなものはない。韓国サーカスでは「クァ
ンデ(広大)」と呼ばれる扇でバランスをとって行う綱渡りがあり、これが男寺党の名
残をとどめる唯一の曲芸である。韓国サーカスでの綱渡りの主流は「カンス(パイプを
もってわたる)」「ハリガネ(素手または傘でバランスをとってわたる)」。
皿回しは男寺党では、茶碗や木製の皿を用いるのに対し、サーカスではプラスチック製
または陶器で作られた皿を用いている。演技においても、男寺党では1本のキセルの先
にもう1本キセルをたててその先で皿を回したり、皿を回したまま高く放り投げてキセ
ルの先で受けるという演技が中心となる。一方サーカスでは皿回しの棒としてとくに細
工を加えていない長細い棒を用い、同時に複数の皿を回したり、様々に難しい体勢をとっ
てみせるといった演技が中心となる。
「クァンデ」さえも実際にそれを行う曲芸師はサーカスにほとんどいない。
1940年以降は日本の植民地政策上、より管理しやすいが残っていった、伝統的な芸能集
団がなくなり、日本的なサーカスのみが生き残った。韓国サーカスは従来の移動芸能集
団を受け入れる基盤のもとに受け入れられ支持された。それと共に移動芸能集団のイメ
ージも引き継いでしまった。
94ー95の調査当時において韓国の移動サーカス団は4団体、規模は20ー30名前後。調査を
行ったDサーカス団で、構成員の総数は20名から35名、仮に構成員を30名とすると曲芸
師が12名、雑用係が8名、妻子・団長など曲芸にも雑用にも加わらない者が10名という
内訳になる。
韓国サーカスの公演地は、各地方で行われる「郷土祭」のイベント会場、もうひとつ
は主に地方都市の開発予定地やビル建設予定地である。収益は前者が多い。
椅子レンタルや物販といった入場量以外の収入はそれを管理する者の収入となり、そ
の代わり給料を、もらわない。こういった給料以外の収入は「ワリ」と呼ばれる。
給料に関しては長時間労働の割には安いという不満が多い。ただし住居費と食費はか
からない。
当時20代前半の曲芸師はサラリーマンより少し上の賃金、40代だと少し下になる。た
だし福利厚生や保険、労災、賞与などが異なる。また曲芸をしない下回りは5割から6
割の収入となる。
夏で13時間、冬で8時間が拘束時間、実際には休憩がはいるため、労働時間は8時間、
6時間程度である。
メディアの報道姿勢としてはサーカスを「消えゆく存在、郷愁を呼ぶもの」としてい
るものが多く、サーカスに対する偏見を助長している。サーカスのイメージは「哀愁」
「浮草」。1976年に韓水山が「浮草」というタイトルでサーカスの天幕の下を舞台と
して書いた小説がヒットし、映画化され、サーカス=浮草というイメージが定着して
いった。韓国において芸能が高く評価されることは久しくなかったが、1970年代から
の高度成長により国力をつけた韓国では自国「固有」の芸能を再評価しようという気
運が高まってくる。男寺党やパンソリ謡をはじめとして「韓国的」とみなされた芸能
は重要文化財という地位を与えられたが、「韓国的」な要素を持たず従来のままに捉
えられていたのが韓国におけるサーカスであった。団長を継承する際、団員と結婚す
る際、に家族から強い反対を受けた。サーカスに従事していることを他人に知られな
いようにしている者も多い。
サーカスにおいては、
労働力が常に不足しているため、誰でも受け入れる。
入る理由は、そこで生まれた・親が連れてきた、曲芸とサーカスの生活にあこがれた、逃げてきた。
出ていく理由は、人間関係悪化、劣悪な雇用条件(低賃金、居住・労働環境)、追っ手がきた。
誰でも代わりがいる下回りは安く使い、代わり手がなかなかいない芸人は高給ということで
集団を形成している。また人間関係が悪化したときに、集団から離れることで危機を回避している。
移動するが故に、ものを持たず、ものを持たない故に移動しやすくなる。
サーカス団が憧れになる。
サーカスの演目は、マジック、ブランコ、肩芸、足芸、軟体、組体操、針金渡り、動物芸、ジャグリング、綱渡り、空中ブランコ。
曲芸師は各種の芸ができ、誰かが舞台に立てない時に互いに補完する役割をもつ。
移動に関する時間感覚が違う
題名:沖縄の遊行芸
著者:池宮正治
出版社:ひるぎ社(1990)
内容:カバ エイサー、組踊、歌劇、舞踏、さらには葬式や正月の民俗
に深い影響を与えたチョンダラー、ニンブチャー芸能を文献資料を駆使
して詳述する
沖縄で明治30年代にほろんでしまった人形芝居芸 チョンダラー について
記述したもの。明治以降は人間の芸となって一部がかろうじて生き延びて
いる。京太郎とかいて「チョンダラー」と呼ぶ。
ニンブチャーは「念仏者」のこと。チョンダラーとニンブチャーは
非常に密接な関係を持って時代を生き抜いてきたらしい。
ちょんだらーは正月の門付け芸であり、沖縄に存在する門付け芸
としては唯一のものであった。
チョンダラーは本土から伝えられたと見られている。
万歳系の夷回し、傀儡、唱門、扇子舞、春駒風馬舞、鳥刺し、鳥追い
など本土の雑多な芸能が取り込まれ、正月の祝福芸となっている。
チョンダラー、ニンブチャーはしばしばムヌクーヤー(物乞者)であった。
チョンダラーに関する文献としては次のものもある
「沖縄の祭祀と民俗芸能の研究」大城学 (著) 、
砂子屋書房 (2003/11) 、ISBN-10: 4790407527
著者:池宮正治
出版社:ひるぎ社(1990)
内容:カバ エイサー、組踊、歌劇、舞踏、さらには葬式や正月の民俗
に深い影響を与えたチョンダラー、ニンブチャー芸能を文献資料を駆使
して詳述する
沖縄で明治30年代にほろんでしまった人形芝居芸 チョンダラー について
記述したもの。明治以降は人間の芸となって一部がかろうじて生き延びて
いる。京太郎とかいて「チョンダラー」と呼ぶ。
ニンブチャーは「念仏者」のこと。チョンダラーとニンブチャーは
非常に密接な関係を持って時代を生き抜いてきたらしい。
ちょんだらーは正月の門付け芸であり、沖縄に存在する門付け芸
としては唯一のものであった。
チョンダラーは本土から伝えられたと見られている。
万歳系の夷回し、傀儡、唱門、扇子舞、春駒風馬舞、鳥刺し、鳥追い
など本土の雑多な芸能が取り込まれ、正月の祝福芸となっている。
チョンダラー、ニンブチャーはしばしばムヌクーヤー(物乞者)であった。
チョンダラーに関する文献としては次のものもある
「沖縄の祭祀と民俗芸能の研究」大城学 (著) 、
砂子屋書房 (2003/11) 、ISBN-10: 4790407527
題名:中世ヨーロッパ放浪芸人の文化史 しいたげられし楽師たち
著者:マルギット バッハフィッシャー
出版社: 明石書店 (2006/7/19)
ISBN-10: 4750323721
楽師は放浪芸人の最上階層で定住や定職への路も開かれていた。
芸人は差別されながら愛されていた。本音と建前の二重構造?
楽師は芸人と衣装が代わらなかったし、振る舞いも似ていた。
身分で衣装や髪型も規定されていたが、芸人はその枠外にいた。
また着古された衣装を芸人に報酬として贈ることは一般によく
あった。
楽師や芸人は権利なし、法的保護なし、名誉なし。
芸人への罪は見せかけの贖罪で足りる。芸人への犯罪は罪人の
影をきるだけでよい。。
しかしこれだけ差別されていながら芸人や貴族や聖職者に抱えられていた。
即興演奏が大切で、イベントの間ずっと音楽を奏で続けることが
求められていた。そのため繰り返し同じメロディをさまざまな変奏
で繰り返していたようだ。
音楽でペストを癒したりする。
中世初期では、放浪楽師に向けられていたのは異教徒であるという
非難が中心だったが、次の時期は放浪する娯楽芸人が悪魔的な本性を
持っているというイメージがだんだんと形成されてきたのであった。
常に教会は放浪楽師を自らの権威に対する重大な脅威と取らえていた。
なぜなら楽師は絶えず最大級の人気を博していたからである。
でも聖職者たちが個人的な娯楽のために楽師および曲芸師を雇う
ことをやめることはなかった。
著者:マルギット バッハフィッシャー
出版社: 明石書店 (2006/7/19)
ISBN-10: 4750323721
楽師は放浪芸人の最上階層で定住や定職への路も開かれていた。
芸人は差別されながら愛されていた。本音と建前の二重構造?
楽師は芸人と衣装が代わらなかったし、振る舞いも似ていた。
身分で衣装や髪型も規定されていたが、芸人はその枠外にいた。
また着古された衣装を芸人に報酬として贈ることは一般によく
あった。
楽師や芸人は権利なし、法的保護なし、名誉なし。
芸人への罪は見せかけの贖罪で足りる。芸人への犯罪は罪人の
影をきるだけでよい。。
しかしこれだけ差別されていながら芸人や貴族や聖職者に抱えられていた。
即興演奏が大切で、イベントの間ずっと音楽を奏で続けることが
求められていた。そのため繰り返し同じメロディをさまざまな変奏
で繰り返していたようだ。
音楽でペストを癒したりする。
中世初期では、放浪楽師に向けられていたのは異教徒であるという
非難が中心だったが、次の時期は放浪する娯楽芸人が悪魔的な本性を
持っているというイメージがだんだんと形成されてきたのであった。
常に教会は放浪楽師を自らの権威に対する重大な脅威と取らえていた。
なぜなら楽師は絶えず最大級の人気を博していたからである。
でも聖職者たちが個人的な娯楽のために楽師および曲芸師を雇う
ことをやめることはなかった。
書名:日中比較芸能史
出版社: 吉川弘文館 (1993/12)
言語 日本語
ISBN-10: 4642073469
内容:(「BOOK」データベースより)
日本の民間神楽や能・狂言・歌舞伎の源流はどこか。中国各地、特に
少数民族の間で今もなお行われている民間芸能を永年に亘って実地踏
査し、そこで繰り広げられる舞踊・劇・民俗などから、わが国の伝統
芸能の外来性を追究。定説化されている折口信夫・柳田国男等の芸能
史研究に新たな検討と批判を加え、日中比較芸能史の視点からの分析
を提示する。
目次:
はじめに 日中比較芸能史の視点からみえてくるもの
1 季節に来訪する神―まれびと論・異人論批判
2 蓑笠と杖の民俗―日中の田遊び
3 翁と三番叟―芸能における来訪神の系譜
4 六方・反閇・禹歩―顕現した神の足取り
5 日中韓の仮面劇
6 日本の神楽と中国の民間祭祀
7 中世神楽の形成
8 地獄往来から地獄破りへ―打城戯・通関・目連戯
9 本地物と人神―中国三層宇宙観と日本の中世的世界像
10 中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭り
11 三信遠花祭りの基本構造
12 芸能の故郷―日中憑霊信仰の比較
13 日中舞台の類同性
14 定式幕の誕生―五方五色観念の変遷
祭りや神楽、演劇、などについての起源を日中を比較して
論じたもの。残念ながら雑技や軽業についての話題はなかった。
出版社: 吉川弘文館 (1993/12)
言語 日本語
ISBN-10: 4642073469
内容:(「BOOK」データベースより)
日本の民間神楽や能・狂言・歌舞伎の源流はどこか。中国各地、特に
少数民族の間で今もなお行われている民間芸能を永年に亘って実地踏
査し、そこで繰り広げられる舞踊・劇・民俗などから、わが国の伝統
芸能の外来性を追究。定説化されている折口信夫・柳田国男等の芸能
史研究に新たな検討と批判を加え、日中比較芸能史の視点からの分析
を提示する。
目次:
はじめに 日中比較芸能史の視点からみえてくるもの
1 季節に来訪する神―まれびと論・異人論批判
2 蓑笠と杖の民俗―日中の田遊び
3 翁と三番叟―芸能における来訪神の系譜
4 六方・反閇・禹歩―顕現した神の足取り
5 日中韓の仮面劇
6 日本の神楽と中国の民間祭祀
7 中世神楽の形成
8 地獄往来から地獄破りへ―打城戯・通関・目連戯
9 本地物と人神―中国三層宇宙観と日本の中世的世界像
10 中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭り
11 三信遠花祭りの基本構造
12 芸能の故郷―日中憑霊信仰の比較
13 日中舞台の類同性
14 定式幕の誕生―五方五色観念の変遷
祭りや神楽、演劇、などについての起源を日中を比較して
論じたもの。残念ながら雑技や軽業についての話題はなかった。