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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:江戸と東京風俗野史
著者:伊藤晴雨 (著), 宮尾与男(編注)
出版社: 国書刊行会 (2001/07)
ISBN-10: 4336030677
内容:(「MARC」データベースより)
いかものの見世物、町にあふれる行商、珍奇な玩具、不可思議な迷信…。
江戸の生活世界を博物学的細密さで描き切った名著の復刻。初紹介の
「稿本江戸と東京風俗野史図絵」と、「江戸の盛り場」をも併録した
完全版。



「風俗野史」は明治の東京に残る江戸の風俗を絵筆で表現し、それに
説明を添えた作品である。

53ページ 豆蔵
---
江戸では、松川鶴市、山下鶴吉、愛宕下の源次、芥子之助等の名が
知られている。豆と徳利の芸を代表演目とし、空中に投げた豆を鎌
で切る芸を見せた。
。。。
源次は「サア見物、投げねえか投げねえか」といって往来の人に
投げてもらった銭を自分の手で空高くあげ、その落下する銭を、
片方の手に持つ細い串に刺す芸を見せた。
---

ここでは串で銭をさしている姿、鎌と豆と徳利を投げている姿、
豆とタクワン石(と説明に書いてある)を投げる姿が描かれている。

66ページ 口力
---
口力は口をつかってみせる曲持ちである。口で物を曳いたり、
またはくわえたりする。
...
描かれた図には、大きな桶を口にくわえる技を見せている。
この桶の中に大きな石を載せるだけではなく、その上に子供が
乗り、そこで曲芸を見せる。またその桶の上でもう一人の子供が
小桶(小判桶)を乗せ、逆立ちの曲技を見せている。
---

77ページ 竹沢藤治
---
宙乗りの雷は菅公の演目に登場するもので、雷の曲弾きである。
雷は背に負う太鼓の輪を叩き、三味線を弾く。
。。。
右側の絵は雷が衣装を引き抜いて船頭の姿になったところである。
曲目は「淀の川瀬の水車」。左の絵は鞠を巧みに扱ってみせる
曲鞠。曲手鞠ともいう。鞠は糸を巻いたもので、ここでは小鞠に
よる曲芸である。大鞠となると、ほぼ1キロ近くの重さとなる。
一つ大毬の曲では、二本の撥を使って、撥から撥へ毬を移動させる。
曲鞠は投げ物と同じように難曲といわれ、小手調べなどでは、
鞠を左袖から右袖へと渡す鞠の曲取りを見せる。この絵の曲目
は「月に兎、雲井の曲鞠」という。
---

雷様、杭に立つ船頭、兎の耳をつけて5ボール投げている絵が
掲載されている。
この「一つ大鞠の曲」というのはまさに一つ鞠の曲ではないか?!

78ページ藤治の曲芸
---
「番場の忠太物見の旗」(富士の裾野、富士の旗竿ともいう)
「王子の狐装束榎のたわむれ」
。。。
こうした曲芸の多くは、仕掛けのある大道具を使った。藤治の
演じる曲芸は、本芸とする曲独楽を見せるために演じた。
---
物見の旗は肩芸で方に立てた竿の上に人が乗る。
王子、、は足芸で足に立てた竿の上に人が乗る。
これが両方とも曲独楽の前座芸だったとはびっくり。







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書名:江戸年中行事図聚
著者:三谷一馬
出版社: 立風書房 (1988/02)
ISBN-10: 4651810152



江戸時代の絵と文に基づいて江戸の行事を紹介したもの。絵は当時の錦絵、絵本、黄表紙、合巻、人情本、滑稽本などの挿し絵から著者が模写したもの。同じ題材の絵を何枚も見て、風俗の間違いがないようにつとめ、著者の絵に書き直したとのこと。

太神楽の項には笛の上に棒をたてて笛を吹く絵が描かれている。太鼓と鐘が伴奏しそれに丸一の印がついている。
顔付けか役者気とりの太神楽(俳諧けい)
上手ほと口を明せる太神楽(野の錦)
太神楽きのふの窓の味をしめ(東月評万句合集)
幼子の負れて見んと太神楽(揚梅)
出典:黄表紙「三世相郎満八算」寛政9年 歌川豊国画

事始め・事納め」として不思議な風習が載っている
「江府年行事」には「12月8日事納めかごつる事1月におなじ」とある。

関東では2月8日を事納め、12月8日を事始めとして、両日ともに竹竿の先に目笊をうけ、家家の軒に高く出します。
一方婦人たちはあ牛蒡、芋、人参、焼き豆腐、蒟蒻などに粒赤大豆をいれた御事汁という味噌汁を作った。
書名:芸能民族学
著者:宮尾しげを
出版社: 伝統と現代社 現代ジャーナリズム出版会 (1975)
ASIN: B000J9G7M2

移動する芸能の章、186ページから太神楽についての記述がある。

--
もともと伊勢の御師は神楽以外に、暮れ近くになると伊勢歴と、国産のワカメ、ひじきなどをもって江戸へでて、伊勢参宮の信仰講中へ挨拶にまわっている。羽織袴で百万度の祈祷札を入れた箱をかついだ者の二人連れは恩師職系の者で、神楽のみをもって歩く人は神楽職と江戸時代は区別していた

暦をもってまわった御師職は明治初期に解体され、その人たちは転職を余儀なくされたが、元来が芸能者ではないので、簡単な獅子舞を持ち回る事のみになって、そこに獅子と放下との区別がはっきりとされた


189
名古屋を中心として発足して関東、甲信越、奥州方面へかいだんしたのは、熱田明神の御師職系の人たちで明治の禁止令によって、ばたばたと廃業をよぎなくされ、いま獅子舞の家元として残った鏡味一族が、僅かに東京で名目をつないでいる。


大正の初めまで、東京では獅子舞は独立した芸能として扱われ、門付祝福芸として各戸を訪問していた。鏡味家は、その関東の総取締権を江戸時代より持っていたので、正月に縁起祝いの獅子舞をもって江戸に入ってくる者は幾らかの冥加金を鏡味家に納めることになっていた。
これに対して鏡味家からは桃色のふchとりした緑地に○に一の字を白く染めた、太鼓胴布を返礼に出したものである。その紋様から鏡味家を俗に丸一と呼んでいる。
これを巡回中太鼓の胴に巻いておかぬと、総家に渡りがついていないというので罰せられたものである。これは昭和時代まで続いていたが、太平洋戦の日本敗北によってGHQより解消されてしまい、獅子の各戸訪問も正月以外は許可されなくなった。
それを犯した者は、獅子頭を取り上げられる罰則が行われた。
こえは生活に困った任侠の徒が多く参与していたことにも原因があった。
これで江戸から東京の新春に彩りを添えていた、獅子舞も囃子の音も完全といってよいほどに中断されてしまった。
東洋経済オンラインにジャグリングの記事が!

http://toyokeizai.net/articles/-/12493

「東大・理系男子がハマる”変わり種”スポーツ」だそうな。
スポーツであるとともにアートであり、日本の伝統文化でもあるということも書いてほしかったかも。
書名:寺社と芸能の中世
著者:安田 次郎
出版社: 山川出版社 (2009/05)
ISBN-10: 4634546922
出版社/ 著者からの内容紹介:
中世後期の興福寺と春日社を中心に、そこで行われた田楽・延年・猿楽について概観し、芸能が寺社の法会や神事、僧集団や寺院経済のあり方、権力者や社会の動向との関わりを見る。
内容:(「BOOK」データベースより)
寺院や神社の境内には、清澄で落ち着いた空気が流れている。仏堂や社殿など、多くの建築が歳月をへてしぶい色をみせていることも、あの特有の雰囲気をつくりだしているだろう。しかし、かつて寺社の境内は、もっとにぎやかで楽しい場所だったかもしれないのである。法会や祭礼の日はもちろん、そうでないときにも僧侶や神官たちはしばしば田楽・延年・猿楽などの芸能を楽しんだ。多くの芸能者たちが寺社に出入りし、僧や神官、美しく装った稚児たちが芸能を鑑賞し、みずから演じてもいた。中世の寺社は、劇場でもあった。




16
足利尊氏もまた田楽に熱中した。

弟の直義は「天下の武将として雑戯を好み、政務を妨ぐ、前代高時の鑑、遠からず」(続本朝通鑑巻136)と兄を諫めたが、かえって尊氏は、高師直とともに政務をみるように申しつけたではないか、自分はもう余命を田楽で慰めてすごしたいといいだす始末であったという。
尊氏と田楽といえば、必ず言及されるのが桟敷崩れの田楽である。1349(貞和5)年6月11日京都鴨川の四条河原でこの地に橋を渡す費用を集めるための勧進興行として田楽が行われた。
太平記(巻27)には「このとき円形の桟敷を「三重四重に組上」た、つまり三階建て、四階建てにつくったとある。「師守記」など当時の貴族の日記にはそんなことは書いていないので本当に三階建て、四階だてだったのか不安が残るが、前評判が高くて多くの人が詰めかけたのは確かなようである。
中門口、ささら(編木)、乱拍子、刀玉、立ち会い舞が終わり、8・9歳の少年が猿の面をつけ、「御幣を差し上げて、赤地の金欄の打懸(うちかけ)に虎皮の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛び上り、左へ回(まわり)右へ曲(めぐ)り、はねかえりては上」る芸を披露したとき、「あら面白や、耐え難や」と熱狂した観衆の動きと重みにたえかねた桟敷がどっと倒壊したのである。

さっそく河原には「田楽の将棋倒しの桟敷には王ばかりこそ登らざりけれ」と天皇(将棋の王の連想)だけが来場していなかったという狂歌がたてられた。


36
延年は大寺院の法会の後に慰労会・打ち上げとして、また将軍や賓客の接待・歓迎行事として僧や稚児が中心となって行った芸能の総称、またその会のことである。
南都や大和では興福寺、東大寺、法隆寺、薬師寺、長谷寺、多武峯などで行われた記録がある

43ページ
論議に負けた外道は、くやしまぎれに神通力で戒賢が猫を出す。つぎにウサギをだすが、戒賢の鷹にやられてしまう。外道は最後にムカデを出すが、戒賢が鶏をだして勝負が決する。ここに登場するネズミ以下も僧が扮したもので、頭にネズミ以下の作り物をかぶったので、「被り物」といわれる。「走」あるいは「走物」ともいわれる。


56
どうも延年には面子の問題がかかわっていたように思われる

将軍義教も延年の有無にこだわったことがあった。
夫人が南都に下向したときに興福寺に延年を要求したが、興福寺は女性相手に延年を実施したことはないと断った。怒った将軍義教は京都でやれと命令、あわてた興福寺は夫人の宿泊先で延年を行ったが、義教は京都の室町殿もう一度延年をやれと命令した。
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