初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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アジア演劇講座タイ演劇まるごとツアーに参加した。
バンコク・シアター・ネットワーク(BTN)のプロデューサーによるタイ現代劇の講義だったのだが、その背景に流されていたバンコクシアターフェスティバルの映像の中にジャグラーが登場。若い男女のカップルで5ボールバウンズを楽しそうに演じていた。若いっていいねえ。
伝統風の衣装を着て3ボールをへたくそにやる芸人とバイオリン引きのコンビもあり。
講義終了後に講師にタイでのジャグリングについて聞いたところ、フェスティバルに出てきているとここと。どうやらライトアップかファイヤーのクラブジャグラーらしい。タイ独自の何かというのを期待したのだけれど、あまりなさそう。。
年に1度開催されている Bangkok Theater Festivalの存在を知ったので来年とか再来年いけば何かに出会えるかもしれない。
バンコク・シアター・ネットワーク(BTN)のプロデューサーによるタイ現代劇の講義だったのだが、その背景に流されていたバンコクシアターフェスティバルの映像の中にジャグラーが登場。若い男女のカップルで5ボールバウンズを楽しそうに演じていた。若いっていいねえ。
伝統風の衣装を着て3ボールをへたくそにやる芸人とバイオリン引きのコンビもあり。
講義終了後に講師にタイでのジャグリングについて聞いたところ、フェスティバルに出てきているとここと。どうやらライトアップかファイヤーのクラブジャグラーらしい。タイ独自の何かというのを期待したのだけれど、あまりなさそう。。
年に1度開催されている Bangkok Theater Festivalの存在を知ったので来年とか再来年いけば何かに出会えるかもしれない。
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書名:手妻のはなし 失われた日本の奇術
著者:藤山新太郎
出版社: 新潮社 (2009/8/26)
ISBN-10: 4106036479
内容(「BOOK」データベースより)
手妻、それは日本人が考え、独自に完成させたマジックのこと―古くは奈良平安期の散楽、猿楽に遡り、その後、大道芸として発展、江戸期に娯楽見世物となり大成した大衆芸能である。「水芸」「浮かれの蝶」「呑馬術」など精緻を極めるトリックの数々―時代の変遷と共に奇術としての芸はどのように進化していったか、また日本人はエンターテイメントとして何を求めてきたのか…唯一の継承者がその発展、消長を振り返る。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
藤山 新太郎
1954年東京大田区生まれ。プロマジシャン。(社)日本奇術協会副会長。伝統的な日本奇術「手妻」の継承者。88年、94年に文化庁芸術賞、98年に文化庁芸術祭大賞を受賞。海外でも、マジックオブザイヤー・ビジティングマジシャンに二度選ばれている。お囃子に紋付袴で舞台に立ち、「水芸」「浮かれの蝶」などの古典奇術の多くを得意とする。日本に来訪する賓客の前でひんぱんに手妻を披露したり、海外公演を数多くこなしている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
目次:
第1部 呪術・宗教と娯楽の狭間―古代~平安、鎌倉、室町時代(散楽以前の幻戯―卑弥呼の鬼道から修験道まで
散楽―奈良時代の国立雑技団
阿倍清明―科学としての陰陽道
放下―布教がいつしか大興行へ)
第2部 日本独自の民衆芸の誕生―江戸時代初期~中期(三人のスターたと―古の伝内、都右近、塩屋長次郎
手妻の誕生―娯楽芸としての発展
からくり人形―傀儡師の系譜
伝授本―元禄期、庶民生活の底力)
第3部 芸の質から興行形式まで、工夫と円熟―江戸時代後期(小屋掛けと寄席の進出―華やかなりし文化文政の手妻興行
柳川一蝶斎と「蝶」―単純芸を作り変えた画期的発想
手妻の傑作「水芸」―究極のイリュージョンに)
第4部 世界に名を轟かせた絶頂期―明治時代(松旭斎天一の登場―頂点を極めた男
パリの万国博覧会―世界に羽ばたく蝶の芸
江戸期からの脱却と新たなる波―日本文化の否定)
第5部 失われゆく過程―大正、昭和、そして現代(一世を風靡した娘太夫、天勝―美貌のネタッ子
蝶のその後―そして昭和の手妻師たち)
![](http://ec2.images-amazon.com/images/I/415Imbf3fTL._SS500_.jpg)
日本のマジックの歴史と現状がかかれている
散楽以前の目眩ましにはじまり、江戸明治大正昭和そして現在まで。
明治以降がおもしろい。
著者による「手妻」の定義
「作品小道具の継承」
「演技、型の継承」
「口伝の継承」
「元々の型の継承」
「日本の伝統文化の継承」
蝶の伝授法。
「蝶」の継承の際には、文政2年以前の「蝶の一曲」、谷川定吉の「浮かれの蝶」、「初代柳川一蝶斎の蝶の一曲」、そして最後に著者の「蝶のたはむれ」と歴史の順に稽古を行う
四つの型を歴史の順に稽古を行うことで、昔の手妻師が何を語ろうかとしたかが理解できる。
この歴史順に練習するというのがたいへん興味深い、私もできることなら習いたい。
後口上の蝶の工夫もおもしろい。
--
蝶の手順がつぎはぎだったため、口上がないと物語として続かなくなってしまっていた。
蝶の手順を一度解体し、口上なしで物語としてつながるように改善を行った。
--
物語を語ることと、口上による間延びの抑制、を手順の改善により同時に行ったのはすばらしい。みてみたい。
著者:藤山新太郎
出版社: 新潮社 (2009/8/26)
ISBN-10: 4106036479
内容(「BOOK」データベースより)
手妻、それは日本人が考え、独自に完成させたマジックのこと―古くは奈良平安期の散楽、猿楽に遡り、その後、大道芸として発展、江戸期に娯楽見世物となり大成した大衆芸能である。「水芸」「浮かれの蝶」「呑馬術」など精緻を極めるトリックの数々―時代の変遷と共に奇術としての芸はどのように進化していったか、また日本人はエンターテイメントとして何を求めてきたのか…唯一の継承者がその発展、消長を振り返る。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
藤山 新太郎
1954年東京大田区生まれ。プロマジシャン。(社)日本奇術協会副会長。伝統的な日本奇術「手妻」の継承者。88年、94年に文化庁芸術賞、98年に文化庁芸術祭大賞を受賞。海外でも、マジックオブザイヤー・ビジティングマジシャンに二度選ばれている。お囃子に紋付袴で舞台に立ち、「水芸」「浮かれの蝶」などの古典奇術の多くを得意とする。日本に来訪する賓客の前でひんぱんに手妻を披露したり、海外公演を数多くこなしている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
目次:
第1部 呪術・宗教と娯楽の狭間―古代~平安、鎌倉、室町時代(散楽以前の幻戯―卑弥呼の鬼道から修験道まで
散楽―奈良時代の国立雑技団
阿倍清明―科学としての陰陽道
放下―布教がいつしか大興行へ)
第2部 日本独自の民衆芸の誕生―江戸時代初期~中期(三人のスターたと―古の伝内、都右近、塩屋長次郎
手妻の誕生―娯楽芸としての発展
からくり人形―傀儡師の系譜
伝授本―元禄期、庶民生活の底力)
第3部 芸の質から興行形式まで、工夫と円熟―江戸時代後期(小屋掛けと寄席の進出―華やかなりし文化文政の手妻興行
柳川一蝶斎と「蝶」―単純芸を作り変えた画期的発想
手妻の傑作「水芸」―究極のイリュージョンに)
第4部 世界に名を轟かせた絶頂期―明治時代(松旭斎天一の登場―頂点を極めた男
パリの万国博覧会―世界に羽ばたく蝶の芸
江戸期からの脱却と新たなる波―日本文化の否定)
第5部 失われゆく過程―大正、昭和、そして現代(一世を風靡した娘太夫、天勝―美貌のネタッ子
蝶のその後―そして昭和の手妻師たち)
![](http://ec2.images-amazon.com/images/I/415Imbf3fTL._SS500_.jpg)
日本のマジックの歴史と現状がかかれている
散楽以前の目眩ましにはじまり、江戸明治大正昭和そして現在まで。
明治以降がおもしろい。
著者による「手妻」の定義
「作品小道具の継承」
「演技、型の継承」
「口伝の継承」
「元々の型の継承」
「日本の伝統文化の継承」
蝶の伝授法。
「蝶」の継承の際には、文政2年以前の「蝶の一曲」、谷川定吉の「浮かれの蝶」、「初代柳川一蝶斎の蝶の一曲」、そして最後に著者の「蝶のたはむれ」と歴史の順に稽古を行う
四つの型を歴史の順に稽古を行うことで、昔の手妻師が何を語ろうかとしたかが理解できる。
この歴史順に練習するというのがたいへん興味深い、私もできることなら習いたい。
後口上の蝶の工夫もおもしろい。
--
蝶の手順がつぎはぎだったため、口上がないと物語として続かなくなってしまっていた。
蝶の手順を一度解体し、口上なしで物語としてつながるように改善を行った。
--
物語を語ることと、口上による間延びの抑制、を手順の改善により同時に行ったのはすばらしい。みてみたい。
書名:上方演芸大全
著者:大阪府立上方演芸資料館 (編集)
出版社: 創元社 (2008/11)
ISBN-10: 4422700723
内容:(「BOOK」データベースより)
漫才、落語、喜劇、浪曲、講談、諸芸、メディア、作家・裏方、劇場・寄席―。
上方演芸の総覧としてその歴史と魅力を集大成。笑いの芸、その源流から現在
まで、そして未来をも展望する。
144ページから「諸芸の流れと演者たち」 太神楽と曲芸。
---
わずかに舞台では宝家和楽・和喜美と海老一太郎・鈴子らが活躍したくらいで
東京に比べるとさびしい。和楽は角座の初期からレギュラーの色物として
活躍、たすき掛けの和装で和喜美の三味線により、放りあげたくわえばちの
上の土瓶を自在に動かし、ぱたっと静止させるのが得意芸のひとつだった。
海老一太郎は妹の鈴子と組んで皿回しなど太神楽の至芸を同じ角座でなどで
見せていた。なかでも竿に茶碗を左右に積み上げていく五階茶碗を得意とした。
今は鈴子の娘の鈴娘が芸を受け継ぎ、落語の席の貴重な色物として活躍している。
---
147ページ
---
千日劇場などで長らく活躍したラッキートリオは和楽の静の芸と違って、
くわえばちをアクロバットの動きの中でさらにショーアップして動の芸に
した。
著者:大阪府立上方演芸資料館 (編集)
出版社: 創元社 (2008/11)
ISBN-10: 4422700723
内容:(「BOOK」データベースより)
漫才、落語、喜劇、浪曲、講談、諸芸、メディア、作家・裏方、劇場・寄席―。
上方演芸の総覧としてその歴史と魅力を集大成。笑いの芸、その源流から現在
まで、そして未来をも展望する。
144ページから「諸芸の流れと演者たち」 太神楽と曲芸。
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わずかに舞台では宝家和楽・和喜美と海老一太郎・鈴子らが活躍したくらいで
東京に比べるとさびしい。和楽は角座の初期からレギュラーの色物として
活躍、たすき掛けの和装で和喜美の三味線により、放りあげたくわえばちの
上の土瓶を自在に動かし、ぱたっと静止させるのが得意芸のひとつだった。
海老一太郎は妹の鈴子と組んで皿回しなど太神楽の至芸を同じ角座でなどで
見せていた。なかでも竿に茶碗を左右に積み上げていく五階茶碗を得意とした。
今は鈴子の娘の鈴娘が芸を受け継ぎ、落語の席の貴重な色物として活躍している。
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147ページ
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千日劇場などで長らく活躍したラッキートリオは和楽の静の芸と違って、
くわえばちをアクロバットの動きの中でさらにショーアップして動の芸に
した。
書名:北京路地裏エンターテインメント
著者:于 潤 (著), 岩崎 菜子 (翻訳)
出版社: 毎日新聞社 (2008/8/26)
ISBN-10: 4620318884
![](http://ec2.images-amazon.com/images/I/51cnEbndIJL._SS500_.jpg)
いろいろなフートンの遊びや芸能についての本。
曲芸に近い遊びとしては、羽根蹴り、こままわし。
羽根蹴りなんてほとんどフットバッグ。
羽根蹴りをするときに歌う羽根蹴り歌というのもあるらしい。
人形芝居、高足踊り、猿回し、ネズミの曲芸、
空中独楽(空竹)、石蹴り(蹴球)もあり。
石蹴りは蹴って的に当てる系の遊びだった。
空竹はいまのディアボロ、これはハイトスを
楽しむものだが、中に空洞があるため速く回すと
音がなり、それも楽しみのひとつ。
もともとは庶民が自分で作っていたものだが、
市販されるようになり、縁日には欠かせない
アイテムとなった。
1960年代の文化大革命開始のころから市場に
でなくなったため、今の若者は遊び方を知らない。
しかし90年代半ばに民俗関連の商店におかれるよう
になり、近年は縁日の露店で売られている。
著者:于 潤 (著), 岩崎 菜子 (翻訳)
出版社: 毎日新聞社 (2008/8/26)
ISBN-10: 4620318884
![](http://ec2.images-amazon.com/images/I/51cnEbndIJL._SS500_.jpg)
いろいろなフートンの遊びや芸能についての本。
曲芸に近い遊びとしては、羽根蹴り、こままわし。
羽根蹴りなんてほとんどフットバッグ。
羽根蹴りをするときに歌う羽根蹴り歌というのもあるらしい。
人形芝居、高足踊り、猿回し、ネズミの曲芸、
空中独楽(空竹)、石蹴り(蹴球)もあり。
石蹴りは蹴って的に当てる系の遊びだった。
空竹はいまのディアボロ、これはハイトスを
楽しむものだが、中に空洞があるため速く回すと
音がなり、それも楽しみのひとつ。
もともとは庶民が自分で作っていたものだが、
市販されるようになり、縁日には欠かせない
アイテムとなった。
1960年代の文化大革命開始のころから市場に
でなくなったため、今の若者は遊び方を知らない。
しかし90年代半ばに民俗関連の商店におかれるよう
になり、近年は縁日の露店で売られている。
書名:韓国サーカスの生活誌―移動の人類学への招待
著者:林史樹
出版社: 風響社 (2007/10)
ISBN-10: 4894891174
![](http://ec2.images-amazon.com/images/I/510FK3HetRL._SS500_.jpg)
韓国サーカスに入団してのフィールドワークを通しての胃サーカス生活の記録と、移動
する集団というものの組織構造や移動ということが人々に与える影響の分析。
元々が東京外国語大大学院修士論文が土台となっている。
サーカスはそもそも研究対象になっていない。サーカスの定義自身が難しく、ここでは
「公演のプログラムを持ち、仮設あるいは常設の劇場で曲芸を見せて、その対価として
の観覧料をとる組織集団」、くわえて「イメージとしての西洋で誕生した形態を継承し
たとかんがえられる見世物集団」という付帯条件がつく。
朝鮮半島にはじめてはいったサーカス団は日本人のものらしいが、日本のサーカス団が
いつどこにはいったかということははっきりしていない。同様に韓国(朝鮮)人による
最初のサーカス団もはっきりしない。1930年前後に韓国人の手によってつぎつぎとサー
カス団ができていることは確か。
1955ー65あたりが最盛期だったようで、10を越えるサーカス団ああった。60年代
後半から「魔術団」と呼ばれる団体が興業をはじめた。魔術団は手品師を中心とし軽業
も行っていた。魔術団はサーカス団が所有していたものの他、逆にサーカス団の前身と
なったものもある。魔術団とサーカス団の間を行き来する芸人も多く関係は緊密であっ
た。70年後半から人気が下降、それでも80年代初めまでは公演時間も3時間ほどでひと
つの演目も長かった。90年になるとサーカスの規模も縮小し、団体数も4ー5団体になっ
てしまう。91年10月に児童福祉法違反の疑いでサーカスに一斉捜査がはいった。15歳に
ならない少年少女を舞台に上げていた韓国のサーカス団団長、両親などは禁固刑を受け
た。
韓国サーカスには、専門用語において非常に多くの日本語の形跡がのこっている。コヤ、
マルタゴヤ、ハリ、アシバ、アンドン、イチリン(一輪車)、ウチアゲ、オオカンバン、
オヤジ、カーサ(傘回し)、キド(木戸)、シンマイ、シマイ(終い)、タテカンバン、
チラシ、ハリガネ(針金渡り)、ベニタ(ベニヤ板)、ピン(ピンハネ)、など。
韓国のサーカスで行われている曲芸の大半は日本からはいったものであり、綱渡り、足
芸、肩芸が主流である。
伝統的な移動芸能集団としては、男子だけで構成され、軽業が多い男寺党と女性を中心
に編成され歌や踊りが中心であった寺党がある。かれらは30ー50名単位で移動を繰り返し
ており、村の許可をえてはじめて1日だけの公演が許され、わずかな路銀を得たといわれ
ている。昼間は技芸を見せる男寺党や寺党も日が暮れると前者は稚児が男色を、後者は
女子が春を売ったとされている。
男寺党が主に演じていたのは、農楽、皿回し、トンボ返り、綱渡り、仮面劇、人形劇で
ある。皿回し、トンボ返り、綱渡りはサーカスでも見られるが、内容については子とな
りを見せており、サーカス芸との直接的な関係はほとんどない。
とんぼ返りはシンプルなもので、組体操のようなものはない。韓国サーカスでは「クァ
ンデ(広大)」と呼ばれる扇でバランスをとって行う綱渡りがあり、これが男寺党の名
残をとどめる唯一の曲芸である。韓国サーカスでの綱渡りの主流は「カンス(パイプを
もってわたる)」「ハリガネ(素手または傘でバランスをとってわたる)」。
皿回しは男寺党では、茶碗や木製の皿を用いるのに対し、サーカスではプラスチック製
または陶器で作られた皿を用いている。演技においても、男寺党では1本のキセルの先
にもう1本キセルをたててその先で皿を回したり、皿を回したまま高く放り投げてキセ
ルの先で受けるという演技が中心となる。一方サーカスでは皿回しの棒としてとくに細
工を加えていない長細い棒を用い、同時に複数の皿を回したり、様々に難しい体勢をとっ
てみせるといった演技が中心となる。
「クァンデ」さえも実際にそれを行う曲芸師はサーカスにほとんどいない。
1940年以降は日本の植民地政策上、より管理しやすいが残っていった、伝統的な芸能集
団がなくなり、日本的なサーカスのみが生き残った。韓国サーカスは従来の移動芸能集
団を受け入れる基盤のもとに受け入れられ支持された。それと共に移動芸能集団のイメ
ージも引き継いでしまった。
94ー95の調査当時において韓国の移動サーカス団は4団体、規模は20ー30名前後。調査を
行ったDサーカス団で、構成員の総数は20名から35名、仮に構成員を30名とすると曲芸
師が12名、雑用係が8名、妻子・団長など曲芸にも雑用にも加わらない者が10名という
内訳になる。
韓国サーカスの公演地は、各地方で行われる「郷土祭」のイベント会場、もうひとつ
は主に地方都市の開発予定地やビル建設予定地である。収益は前者が多い。
椅子レンタルや物販といった入場量以外の収入はそれを管理する者の収入となり、そ
の代わり給料を、もらわない。こういった給料以外の収入は「ワリ」と呼ばれる。
給料に関しては長時間労働の割には安いという不満が多い。ただし住居費と食費はか
からない。
当時20代前半の曲芸師はサラリーマンより少し上の賃金、40代だと少し下になる。た
だし福利厚生や保険、労災、賞与などが異なる。また曲芸をしない下回りは5割から6
割の収入となる。
夏で13時間、冬で8時間が拘束時間、実際には休憩がはいるため、労働時間は8時間、
6時間程度である。
メディアの報道姿勢としてはサーカスを「消えゆく存在、郷愁を呼ぶもの」としてい
るものが多く、サーカスに対する偏見を助長している。サーカスのイメージは「哀愁」
「浮草」。1976年に韓水山が「浮草」というタイトルでサーカスの天幕の下を舞台と
して書いた小説がヒットし、映画化され、サーカス=浮草というイメージが定着して
いった。韓国において芸能が高く評価されることは久しくなかったが、1970年代から
の高度成長により国力をつけた韓国では自国「固有」の芸能を再評価しようという気
運が高まってくる。男寺党やパンソリ謡をはじめとして「韓国的」とみなされた芸能
は重要文化財という地位を与えられたが、「韓国的」な要素を持たず従来のままに捉
えられていたのが韓国におけるサーカスであった。団長を継承する際、団員と結婚す
る際、に家族から強い反対を受けた。サーカスに従事していることを他人に知られな
いようにしている者も多い。
サーカスにおいては、労働力が常に不足しているため、誰でも受け入れる。
入る理由は、そこで生まれた・親が連れてきた、曲芸とサーカスの生活にあこがれた、逃げてきた。
出ていく理由は、人間関係悪化、劣悪な雇用条件(低賃金、居住・労働環境)、追っ手がきた.
誰でも代わりがいる下回りは安く使い、代わり手がなかなかいない芸人は高給ということで集団を形成している。また人間関係が悪化したときに、集団から離れることで危機を回避している。移動するが故に、ものを持たず、ものを持たない故に移動しやすくなる。
サーカスの演目は、マジック、ブランコ、肩芸、足芸、軟体、組体操、針金渡り、動物芸、ジャグリング、綱渡り、空中ブランコ。
曲芸師は各種の芸ができ、誰かが舞台に立てない時に互いに補完する役割をもつ。
一般の人と移動に関する時間感覚が違う。
著者:林史樹
出版社: 風響社 (2007/10)
ISBN-10: 4894891174
![](http://ec2.images-amazon.com/images/I/510FK3HetRL._SS500_.jpg)
韓国サーカスに入団してのフィールドワークを通しての胃サーカス生活の記録と、移動
する集団というものの組織構造や移動ということが人々に与える影響の分析。
元々が東京外国語大大学院修士論文が土台となっている。
サーカスはそもそも研究対象になっていない。サーカスの定義自身が難しく、ここでは
「公演のプログラムを持ち、仮設あるいは常設の劇場で曲芸を見せて、その対価として
の観覧料をとる組織集団」、くわえて「イメージとしての西洋で誕生した形態を継承し
たとかんがえられる見世物集団」という付帯条件がつく。
朝鮮半島にはじめてはいったサーカス団は日本人のものらしいが、日本のサーカス団が
いつどこにはいったかということははっきりしていない。同様に韓国(朝鮮)人による
最初のサーカス団もはっきりしない。1930年前後に韓国人の手によってつぎつぎとサー
カス団ができていることは確か。
1955ー65あたりが最盛期だったようで、10を越えるサーカス団ああった。60年代
後半から「魔術団」と呼ばれる団体が興業をはじめた。魔術団は手品師を中心とし軽業
も行っていた。魔術団はサーカス団が所有していたものの他、逆にサーカス団の前身と
なったものもある。魔術団とサーカス団の間を行き来する芸人も多く関係は緊密であっ
た。70年後半から人気が下降、それでも80年代初めまでは公演時間も3時間ほどでひと
つの演目も長かった。90年になるとサーカスの規模も縮小し、団体数も4ー5団体になっ
てしまう。91年10月に児童福祉法違反の疑いでサーカスに一斉捜査がはいった。15歳に
ならない少年少女を舞台に上げていた韓国のサーカス団団長、両親などは禁固刑を受け
た。
韓国サーカスには、専門用語において非常に多くの日本語の形跡がのこっている。コヤ、
マルタゴヤ、ハリ、アシバ、アンドン、イチリン(一輪車)、ウチアゲ、オオカンバン、
オヤジ、カーサ(傘回し)、キド(木戸)、シンマイ、シマイ(終い)、タテカンバン、
チラシ、ハリガネ(針金渡り)、ベニタ(ベニヤ板)、ピン(ピンハネ)、など。
韓国のサーカスで行われている曲芸の大半は日本からはいったものであり、綱渡り、足
芸、肩芸が主流である。
伝統的な移動芸能集団としては、男子だけで構成され、軽業が多い男寺党と女性を中心
に編成され歌や踊りが中心であった寺党がある。かれらは30ー50名単位で移動を繰り返し
ており、村の許可をえてはじめて1日だけの公演が許され、わずかな路銀を得たといわれ
ている。昼間は技芸を見せる男寺党や寺党も日が暮れると前者は稚児が男色を、後者は
女子が春を売ったとされている。
男寺党が主に演じていたのは、農楽、皿回し、トンボ返り、綱渡り、仮面劇、人形劇で
ある。皿回し、トンボ返り、綱渡りはサーカスでも見られるが、内容については子とな
りを見せており、サーカス芸との直接的な関係はほとんどない。
とんぼ返りはシンプルなもので、組体操のようなものはない。韓国サーカスでは「クァ
ンデ(広大)」と呼ばれる扇でバランスをとって行う綱渡りがあり、これが男寺党の名
残をとどめる唯一の曲芸である。韓国サーカスでの綱渡りの主流は「カンス(パイプを
もってわたる)」「ハリガネ(素手または傘でバランスをとってわたる)」。
皿回しは男寺党では、茶碗や木製の皿を用いるのに対し、サーカスではプラスチック製
または陶器で作られた皿を用いている。演技においても、男寺党では1本のキセルの先
にもう1本キセルをたててその先で皿を回したり、皿を回したまま高く放り投げてキセ
ルの先で受けるという演技が中心となる。一方サーカスでは皿回しの棒としてとくに細
工を加えていない長細い棒を用い、同時に複数の皿を回したり、様々に難しい体勢をとっ
てみせるといった演技が中心となる。
「クァンデ」さえも実際にそれを行う曲芸師はサーカスにほとんどいない。
1940年以降は日本の植民地政策上、より管理しやすいが残っていった、伝統的な芸能集
団がなくなり、日本的なサーカスのみが生き残った。韓国サーカスは従来の移動芸能集
団を受け入れる基盤のもとに受け入れられ支持された。それと共に移動芸能集団のイメ
ージも引き継いでしまった。
94ー95の調査当時において韓国の移動サーカス団は4団体、規模は20ー30名前後。調査を
行ったDサーカス団で、構成員の総数は20名から35名、仮に構成員を30名とすると曲芸
師が12名、雑用係が8名、妻子・団長など曲芸にも雑用にも加わらない者が10名という
内訳になる。
韓国サーカスの公演地は、各地方で行われる「郷土祭」のイベント会場、もうひとつ
は主に地方都市の開発予定地やビル建設予定地である。収益は前者が多い。
椅子レンタルや物販といった入場量以外の収入はそれを管理する者の収入となり、そ
の代わり給料を、もらわない。こういった給料以外の収入は「ワリ」と呼ばれる。
給料に関しては長時間労働の割には安いという不満が多い。ただし住居費と食費はか
からない。
当時20代前半の曲芸師はサラリーマンより少し上の賃金、40代だと少し下になる。た
だし福利厚生や保険、労災、賞与などが異なる。また曲芸をしない下回りは5割から6
割の収入となる。
夏で13時間、冬で8時間が拘束時間、実際には休憩がはいるため、労働時間は8時間、
6時間程度である。
メディアの報道姿勢としてはサーカスを「消えゆく存在、郷愁を呼ぶもの」としてい
るものが多く、サーカスに対する偏見を助長している。サーカスのイメージは「哀愁」
「浮草」。1976年に韓水山が「浮草」というタイトルでサーカスの天幕の下を舞台と
して書いた小説がヒットし、映画化され、サーカス=浮草というイメージが定着して
いった。韓国において芸能が高く評価されることは久しくなかったが、1970年代から
の高度成長により国力をつけた韓国では自国「固有」の芸能を再評価しようという気
運が高まってくる。男寺党やパンソリ謡をはじめとして「韓国的」とみなされた芸能
は重要文化財という地位を与えられたが、「韓国的」な要素を持たず従来のままに捉
えられていたのが韓国におけるサーカスであった。団長を継承する際、団員と結婚す
る際、に家族から強い反対を受けた。サーカスに従事していることを他人に知られな
いようにしている者も多い。
サーカスにおいては、労働力が常に不足しているため、誰でも受け入れる。
入る理由は、そこで生まれた・親が連れてきた、曲芸とサーカスの生活にあこがれた、逃げてきた。
出ていく理由は、人間関係悪化、劣悪な雇用条件(低賃金、居住・労働環境)、追っ手がきた.
誰でも代わりがいる下回りは安く使い、代わり手がなかなかいない芸人は高給ということで集団を形成している。また人間関係が悪化したときに、集団から離れることで危機を回避している。移動するが故に、ものを持たず、ものを持たない故に移動しやすくなる。
サーカスの演目は、マジック、ブランコ、肩芸、足芸、軟体、組体操、針金渡り、動物芸、ジャグリング、綱渡り、空中ブランコ。
曲芸師は各種の芸ができ、誰かが舞台に立てない時に互いに補完する役割をもつ。
一般の人と移動に関する時間感覚が違う。