初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世
著者:沖浦和光
出版社: 文藝春秋 (2007/08)
ISBN-10: 4166605879
近代の漂白する民についての解説本。ドサ回りの芝居、香具師、
江戸の辻芸、明治政府の弾圧などが書かれている。
新しい情報はないけれどコンパクトにまとまっていて読みやすい。
参考図書がいろいろ提示されていて役にたちそう。
目にとまったものは次のとおり。
近世末期の辻芸・大道芸の実態を見事に活写しているのは菊池
貴一郎の「絵本江戸風俗往来」(鈴木 棠三 編、東洋文庫、平凡社)
斉藤げっしんの「東都歳時記」(東洋文庫、平凡社)
農村舞台については「農村舞台の総合的研究」(桜楓社、1971年)角田一郎編。
インドネシアの寅さん(岩波書店、1998年)
著者:沖浦和光
出版社: 文藝春秋 (2007/08)
ISBN-10: 4166605879
近代の漂白する民についての解説本。ドサ回りの芝居、香具師、
江戸の辻芸、明治政府の弾圧などが書かれている。
新しい情報はないけれどコンパクトにまとまっていて読みやすい。
参考図書がいろいろ提示されていて役にたちそう。
目にとまったものは次のとおり。
近世末期の辻芸・大道芸の実態を見事に活写しているのは菊池
貴一郎の「絵本江戸風俗往来」(鈴木 棠三 編、東洋文庫、平凡社)
斉藤げっしんの「東都歳時記」(東洋文庫、平凡社)
農村舞台については「農村舞台の総合的研究」(桜楓社、1971年)角田一郎編。
インドネシアの寅さん(岩波書店、1998年)
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書名:太夫才蔵伝―漫才をつらぬくもの
著者:鶴見 俊輔
出版社: 平凡社 (1979/11)
ASIN: B000J8D8KM
内容:(「MARC」データベースより)
扇と鼓を手にしたかつての万歳師の芸は、新しく「漫才」にその姿を変えた。太夫・才蔵の源流を辿り、漫才師の言葉のやりとりの中に自由なる精神をさぐる。
目次:
漫才との出会い
万歳の源流
都会の夢
役割分担
放送史の流れのなかで
広告の歴史のなかで
興行の歴史のなかで
社会思想史の一ページ
エンタツ・アチャコの登場
家の内と外
にせもの哲学
過ぎたる望み
万歳の要素
パンチとジュディー
万歳と日本の伝統
表紙は2000年の再刊のもの。
この本には11世紀あたりの万歳の源流から1970年代当時の
漫才の頑丈まで綴られている。
かつては太夫と才蔵の役割分担がはっきりできており、
両者が互いに見合ってにっこり笑うところが芸の見せ場であったそうだ。
62ページに大正時代の三河の神楽(万歳)の巡業風景が引用されて
いるのだがこれがまるで太神楽。祝詞をあげ、剣の舞。次に獅子舞が
女振りで幣と鈴を持ち、才蔵はササラを持つ。段物、おかめの舞、
万歳、曲、立物などを演じた、とある。
舞、獅子舞、曲芸、茶番とまさに太神楽ではないか。ササラだけが
ちょっと変わっているけれど
出典は「三州戸金の神楽村および神楽の才蔵のこと」、民族2巻2号、
1927年1月。全集第三巻所収。
現代にはいって、吉本興業の総支配人林正之助氏による「ヨシモト」
発刊の辞。
”常に大衆を忘れない”といふことが私の持論であり、吉本の信条である。
かっこいい。吉本が現在までに発展した礎がここにあるのね。
エンタツ氏と秋田実氏が「漫才をもっとよくするには芝居と同じように
台本を必要とする」と考えたのは興味深い(140ページ)
即興性がどんどん増している現状とは逆方向ではないのか?
182ページ
--
秋田実は昭和の漫才史の裏にはたらく指南番として不時の用にそなえて
おどろくべき量のたねを集めそれをしわけして持っていた。。。略。。
そのはじまり、というより全体の分類のもとになる模型が「二行の笑い」
「三行の笑い」である。
--
曲芸だって気の利いた台詞があったほうがおもしろい。
どこかにDBをつくってみる?
著者:鶴見 俊輔
出版社: 平凡社 (1979/11)
ASIN: B000J8D8KM
内容:(「MARC」データベースより)
扇と鼓を手にしたかつての万歳師の芸は、新しく「漫才」にその姿を変えた。太夫・才蔵の源流を辿り、漫才師の言葉のやりとりの中に自由なる精神をさぐる。
目次:
漫才との出会い
万歳の源流
都会の夢
役割分担
放送史の流れのなかで
広告の歴史のなかで
興行の歴史のなかで
社会思想史の一ページ
エンタツ・アチャコの登場
家の内と外
にせもの哲学
過ぎたる望み
万歳の要素
パンチとジュディー
万歳と日本の伝統
表紙は2000年の再刊のもの。
この本には11世紀あたりの万歳の源流から1970年代当時の
漫才の頑丈まで綴られている。
かつては太夫と才蔵の役割分担がはっきりできており、
両者が互いに見合ってにっこり笑うところが芸の見せ場であったそうだ。
62ページに大正時代の三河の神楽(万歳)の巡業風景が引用されて
いるのだがこれがまるで太神楽。祝詞をあげ、剣の舞。次に獅子舞が
女振りで幣と鈴を持ち、才蔵はササラを持つ。段物、おかめの舞、
万歳、曲、立物などを演じた、とある。
舞、獅子舞、曲芸、茶番とまさに太神楽ではないか。ササラだけが
ちょっと変わっているけれど
出典は「三州戸金の神楽村および神楽の才蔵のこと」、民族2巻2号、
1927年1月。全集第三巻所収。
現代にはいって、吉本興業の総支配人林正之助氏による「ヨシモト」
発刊の辞。
”常に大衆を忘れない”といふことが私の持論であり、吉本の信条である。
かっこいい。吉本が現在までに発展した礎がここにあるのね。
エンタツ氏と秋田実氏が「漫才をもっとよくするには芝居と同じように
台本を必要とする」と考えたのは興味深い(140ページ)
即興性がどんどん増している現状とは逆方向ではないのか?
182ページ
--
秋田実は昭和の漫才史の裏にはたらく指南番として不時の用にそなえて
おどろくべき量のたねを集めそれをしわけして持っていた。。。略。。
そのはじまり、というより全体の分類のもとになる模型が「二行の笑い」
「三行の笑い」である。
--
曲芸だって気の利いた台詞があったほうがおもしろい。
どこかにDBをつくってみる?
題名:翁の座―芸能民たちの中世
著者:山路興造
出版社: 平凡社 (1990/03)
ISBN-10: 4582246044
目次:
1 芸能民たちの中世
(中世芸能の変質―「道」の芸能者から「手」の芸能者へ
被差別民芸能の変遷
「さゝら」とさゝら説経
万歳の成立)
2 翁と神事猿楽
(「翁猿楽」考
常行堂修正会と芸能
「翁」と群小猿楽座
群小猿楽座の動静
洛中洛外の神事猿楽
丹波猿楽日吉大夫考
近江猿楽座考)
これは著者が中世の芸能民たちについた論文の集大成の本。
序文において「風流」の解説を次のようにしている。
--
本来、風流という語は意匠ある趣向そのものをさす語であって、「風流」と
呼ぶ固有の芸能があったわけではない。(中略)のちには、風流の趣を尽くした
諸芸能のうち、拍子物の一種や延年の演目を単に「風流」の名で呼んだ場合も
あったが、これは風流の拍子物、風流を主眼とした延年などの略語であり、
イメージの固定化である。
***
「風流」の特色をどのように捉えたらよいのであろうか。
まずその第一は、人の目を驚かせることに眼目があったということになる。
換言すれば、趣向に命をかけた美意識、一回性に本質を求めた美意識である。
同じ場所で趣向を2回3回繰り返せばすでにそれは「風流」でなくなるのである。
ということは、「風流」という範疇に入る芸能は、創造にこそ生命をかけたが、
型の継承というものは皆無ということになる。修練による型の継承を拒否した
ところに存在するといっても過言ではない。
***
その観点からすれば、今日に伝承された風流系芸能は、すでにその風流としての
精神を失っているといっても過言ではない。
***
私は、風流系芸能の第一の特色として、創意ある趣向を生命とするもので、繰り
返しによる修練や「型」の伝承を拒否したところに成立することをあげたが、
技術の鍛錬を要求しないとなれば、その演者は専業の芸能者である必要はない。
素人がそれぞれ工夫を凝らすことにより成り立つのである。
すなわち、その時代に生きる一般の人々の美の意識がストレートに表現できる。
これを「風流」の第二の特色にあげることができるのだが、第一と第二は表裏の
関係にあるといっても良い。
--
実は風流というものがなんなのか理解しかねていたのだが、この解説をよんで
なんだかすごく納得できた。でも一般的な解釈なのか?>風流
また、宗教との関連について。。
--
わが国に伝承された芸能の背景には、本質的に呪術性があるという意見には、
私は大きな疑問を抱いている。
***
「呪能から芸能へ」という図式や「宗教から芸能へ」という発展論で
割りきってしまえない部分があるように思うのである。
その理由のひとつは、わが国の芸能には、古代において、呪術的要素など、
本来芸能が持っていたであろう背景を一切切り捨てた完成された姿で、大陸から
大量に導入されたことがあげられる。
***
律令体制のなかで、仏教行事の荘厳楽として、また宮廷儀礼の楽として移入された
大陸の芸能は、伝来当初からそれ自体に呪術的要素があったわけではない。基本的
には律令体制下の国家行事を荘厳するために、国家自体の手によって招来され、
伝習されたものとかんがえられる。
***
律令制社会およびその後に続く荘園公領体制下の社会において、支配者階級に
よって経済的裏づけを与えられた中央・地方の大社寺にあっては、その法会や
祭礼を荘厳すべき専業の芸能者が、その経済的庇護の下に存在したと思われる。
彼らは「道々遊者」とか」「道々の者」などと呼ばれて、生産活動に携わる
平民とは区別されたかもしれないが、職能を持った専業の民として蔑視される
ようなことはなかったと考える。
この「道々遊者」が演じた芸能が、多く外来系の芸能であったことはもちろんで、
伎楽・舞楽はもとより、散楽(猿楽)、田楽、傀儡、呪師、獅子舞などがあげられる。
--
宗教とは切り離された形で芸能がはじまったとする考えはかなり新鮮。
それにもともとは差別されていなかったらしい>芸能者。
もっとも千秋萬歳のように当初から被差別民によって行われていたらしい芸能もある。
1319年ごろには千秋萬歳が猿楽を演じるという公演の記録が出てくる。千秋萬歳に
限ったことではなく、田楽者が猿楽を演じたり、獅子舞が猿楽を演じるなどのことが
目立ち始め、本来の芸能者同士のテリトリーの原則が崩れだすようになるとのこと。
ディアボロのプロも10世紀からいたらしい。
「年中行事絵巻」巻12の祇園会の馬長童(めちょうわらわ)行列の場面に描かれる
街頭で輪鼓をまわしている烏帽子姿の雑芸者がそれである。
また14世紀にはジャグラーが。。
--
奈良の法隆寺に貞和5年(1349)に現れた手鞠突きの少年もそういう芸能者のひとり
であった。
己丑閏六月七日、御舎利殿ニ手マリ突児来、手マリヲ突 年十六七許也、(中略)
後日可参ト云給、次日八日礼堂ニテ突、上下諸人市成、曲舞一、次手マリ、
次にホネナシ、小刀ヲ口ニ一クワエ、左右一ツツ、三以ッテカエル、用途五百文
被下行、御舎利供養ヲ足スル預沙汰也
--
ダンスにジャグラーに軟体のショーだったらしい。口に刀をくわえるのは軟体か?
現在の中国雑技でも両手と口に灯りを持つ芸があるので、それと似た芸かも。
放下僧がささらを持つのはなぜか?また大神楽では?
--
私は、すでにこのころ、竹という植物によって作られた「ささら」というものが、
社会組織の外に置かれた、人にあらざる者の身分を象徴するものと見受けられて
いたのではないかと考える。
***
世俗の身分を放下し、あるいは世間を捨てて遁世した宗教者たちが、自らの身を
社会の組織外に置いた証として非人身分を名乗り、その象徴としてささらを手に
したのではないかと思うのである。
***
しかし方便としての非人身分も次の代からは本当の非人身分となる。
***
今日、大神楽系の獅子舞は全国規模で分布しているが、それは中世最末期から
近世にかけて、伊勢神宮の信仰(後には熱田神宮なども)を持った下級宗教者
が、獅子頭を神座として諸国をまわり、その獅子の舞や、余興としての放下師
系の曲芸を見せて回ったからにほかならない。この獅子舞には獅子あやしとして
の道化がついたが、その役は採り物としたささらに象徴されるような身分の者が
受け持たされたようである。もちろん、大神楽という芸能が誕生した伊勢という
地が、ささらという楽器にとって縁の深いところであることは記すまでもなかろう
--
「ささら」というものが非人に関するシンボルになっていたとは知らなかった。
しかも当初の利用者の意図からどんどんはずれて差別の道具になっていくのね。
著者:山路興造
出版社: 平凡社 (1990/03)
ISBN-10: 4582246044
目次:
1 芸能民たちの中世
(中世芸能の変質―「道」の芸能者から「手」の芸能者へ
被差別民芸能の変遷
「さゝら」とさゝら説経
万歳の成立)
2 翁と神事猿楽
(「翁猿楽」考
常行堂修正会と芸能
「翁」と群小猿楽座
群小猿楽座の動静
洛中洛外の神事猿楽
丹波猿楽日吉大夫考
近江猿楽座考)
これは著者が中世の芸能民たちについた論文の集大成の本。
序文において「風流」の解説を次のようにしている。
--
本来、風流という語は意匠ある趣向そのものをさす語であって、「風流」と
呼ぶ固有の芸能があったわけではない。(中略)のちには、風流の趣を尽くした
諸芸能のうち、拍子物の一種や延年の演目を単に「風流」の名で呼んだ場合も
あったが、これは風流の拍子物、風流を主眼とした延年などの略語であり、
イメージの固定化である。
***
「風流」の特色をどのように捉えたらよいのであろうか。
まずその第一は、人の目を驚かせることに眼目があったということになる。
換言すれば、趣向に命をかけた美意識、一回性に本質を求めた美意識である。
同じ場所で趣向を2回3回繰り返せばすでにそれは「風流」でなくなるのである。
ということは、「風流」という範疇に入る芸能は、創造にこそ生命をかけたが、
型の継承というものは皆無ということになる。修練による型の継承を拒否した
ところに存在するといっても過言ではない。
***
その観点からすれば、今日に伝承された風流系芸能は、すでにその風流としての
精神を失っているといっても過言ではない。
***
私は、風流系芸能の第一の特色として、創意ある趣向を生命とするもので、繰り
返しによる修練や「型」の伝承を拒否したところに成立することをあげたが、
技術の鍛錬を要求しないとなれば、その演者は専業の芸能者である必要はない。
素人がそれぞれ工夫を凝らすことにより成り立つのである。
すなわち、その時代に生きる一般の人々の美の意識がストレートに表現できる。
これを「風流」の第二の特色にあげることができるのだが、第一と第二は表裏の
関係にあるといっても良い。
--
実は風流というものがなんなのか理解しかねていたのだが、この解説をよんで
なんだかすごく納得できた。でも一般的な解釈なのか?>風流
また、宗教との関連について。。
--
わが国に伝承された芸能の背景には、本質的に呪術性があるという意見には、
私は大きな疑問を抱いている。
***
「呪能から芸能へ」という図式や「宗教から芸能へ」という発展論で
割りきってしまえない部分があるように思うのである。
その理由のひとつは、わが国の芸能には、古代において、呪術的要素など、
本来芸能が持っていたであろう背景を一切切り捨てた完成された姿で、大陸から
大量に導入されたことがあげられる。
***
律令体制のなかで、仏教行事の荘厳楽として、また宮廷儀礼の楽として移入された
大陸の芸能は、伝来当初からそれ自体に呪術的要素があったわけではない。基本的
には律令体制下の国家行事を荘厳するために、国家自体の手によって招来され、
伝習されたものとかんがえられる。
***
律令制社会およびその後に続く荘園公領体制下の社会において、支配者階級に
よって経済的裏づけを与えられた中央・地方の大社寺にあっては、その法会や
祭礼を荘厳すべき専業の芸能者が、その経済的庇護の下に存在したと思われる。
彼らは「道々遊者」とか」「道々の者」などと呼ばれて、生産活動に携わる
平民とは区別されたかもしれないが、職能を持った専業の民として蔑視される
ようなことはなかったと考える。
この「道々遊者」が演じた芸能が、多く外来系の芸能であったことはもちろんで、
伎楽・舞楽はもとより、散楽(猿楽)、田楽、傀儡、呪師、獅子舞などがあげられる。
--
宗教とは切り離された形で芸能がはじまったとする考えはかなり新鮮。
それにもともとは差別されていなかったらしい>芸能者。
もっとも千秋萬歳のように当初から被差別民によって行われていたらしい芸能もある。
1319年ごろには千秋萬歳が猿楽を演じるという公演の記録が出てくる。千秋萬歳に
限ったことではなく、田楽者が猿楽を演じたり、獅子舞が猿楽を演じるなどのことが
目立ち始め、本来の芸能者同士のテリトリーの原則が崩れだすようになるとのこと。
ディアボロのプロも10世紀からいたらしい。
「年中行事絵巻」巻12の祇園会の馬長童(めちょうわらわ)行列の場面に描かれる
街頭で輪鼓をまわしている烏帽子姿の雑芸者がそれである。
また14世紀にはジャグラーが。。
--
奈良の法隆寺に貞和5年(1349)に現れた手鞠突きの少年もそういう芸能者のひとり
であった。
己丑閏六月七日、御舎利殿ニ手マリ突児来、手マリヲ突 年十六七許也、(中略)
後日可参ト云給、次日八日礼堂ニテ突、上下諸人市成、曲舞一、次手マリ、
次にホネナシ、小刀ヲ口ニ一クワエ、左右一ツツ、三以ッテカエル、用途五百文
被下行、御舎利供養ヲ足スル預沙汰也
--
ダンスにジャグラーに軟体のショーだったらしい。口に刀をくわえるのは軟体か?
現在の中国雑技でも両手と口に灯りを持つ芸があるので、それと似た芸かも。
放下僧がささらを持つのはなぜか?また大神楽では?
--
私は、すでにこのころ、竹という植物によって作られた「ささら」というものが、
社会組織の外に置かれた、人にあらざる者の身分を象徴するものと見受けられて
いたのではないかと考える。
***
世俗の身分を放下し、あるいは世間を捨てて遁世した宗教者たちが、自らの身を
社会の組織外に置いた証として非人身分を名乗り、その象徴としてささらを手に
したのではないかと思うのである。
***
しかし方便としての非人身分も次の代からは本当の非人身分となる。
***
今日、大神楽系の獅子舞は全国規模で分布しているが、それは中世最末期から
近世にかけて、伊勢神宮の信仰(後には熱田神宮なども)を持った下級宗教者
が、獅子頭を神座として諸国をまわり、その獅子の舞や、余興としての放下師
系の曲芸を見せて回ったからにほかならない。この獅子舞には獅子あやしとして
の道化がついたが、その役は採り物としたささらに象徴されるような身分の者が
受け持たされたようである。もちろん、大神楽という芸能が誕生した伊勢という
地が、ささらという楽器にとって縁の深いところであることは記すまでもなかろう
--
「ささら」というものが非人に関するシンボルになっていたとは知らなかった。
しかも当初の利用者の意図からどんどんはずれて差別の道具になっていくのね。
書名:日本中世の民衆像―平民と職人
著者:網野善彦
出版社: 岩波書店 (1980/01)
ISBN-10: 4004201365
内容:(「BOOK」データベースより)
弥生時代いらい稲作を中心に生きてきた単一の民族という日本人像は、近世以降の通念にしばられた虚像ではないだろうか。本書は、中世民衆が負っていた年貢・公事の実態とその意味を問い直し、さらに遍歴する職人集団の活動に光を当てることにより、その虚像をくつがえす。日本中世の多様な姿とゆたかな可能性が描き出される。
目次:
第1部 中世の平民像
(平民身分の特徴
さまざまな年貢
年貢の性格
水田中心史観の克服
公事の意味するもの
「自由民」としての平民)
第2部 中世の職人像
(職人という言葉
職人身分の特徴
遍歴する職人集団
櫛を売る傀儡
職人としての唐人)
第一部は中世の平民の姿をあらわにしている。
重い年貢にあえいでいる感がある平民であるが、それと引き換えに
自由があったとみられる。年貢は実は米に限らなかった。かなりの
種類、地域の名産品による年貢が存在していた。「米」は日本民族
を通して共通文化ではなく、為政者が広く支配するための手段で
あったとみなしたほうがよいのではないか。文献が支配者により
記されたものしか残っていないため庶民の生活を知ることがかなり
難しい。ところが制度を研究しようとすると「制度史的」、庶民の
日常生活を知るために民俗学や社会学の成果を取り入れようとすると
「超歴史的」「社会学的」という批判を受けてしまう。歴史学者って
だめなんじゃないのーー、というのがもうちょっとゆるい言葉で
書いてある。
後半は中世の職人について。職人とは、身分としての「職人」で、
平民が負担しなければならない年貢や公事の負担義務を一部ないし
全部免除されることを保証されたひとたちである。特権のかわりに
自らが持つ専門技能を生かして、天皇、将軍、寺院、神社などに
奉仕している場合が普通で、12-3世紀になると、漁民、狩猟民、
手工業者、商人、芸能民、呪術師などになる。このように職人と
いう言葉は昔は非常に幅広く、現在と同じ意味である「手工業者」
をさすようになるのはもっとも早い時期で1367年、南北朝あたり。
この職人をまとめた形になっている「職人歌合」という職人づくしが
あり、医師、陰陽師、番匠、鍛冶、巫、博打、海人、経師などが
はいっている。後の歌合では、山伏、僧侶、桂女、小原女、辻君(街娼)
まではいっている。しかし職人歌合じたいに「職人」という言葉が
出てこない。このタイトルは後世つけられたものという可能性がある。
このような多様な職能を持つ人々をまとめて表現するには、平安時代
後期から室町時代に至るまで「道々の輩」あるいは「道々の細工」
という言葉が使われている。職種にはそれぞれに「道」があったためで、
木工道、螺鈿道、博打道などがあった。ただこの言葉も意味の変化が
あり、「当道」というのは本来すべての「道々の者」について使われた
と思われるが、江戸時代は盲目の者にのみ使われていた。「諸道」という
言葉自体、江戸時代には卑賎視された人々をさすように使われた。
「芸能」という言葉は、武士をはじめとして、手工業者、芸能民、
僧侶、勝負師など「職人」の技術・技能をさすものとして広い意味で
用いられていた。弓矢や騎馬の技術も芸能なので、武士も芸能人だと
思われていた。
職人に対する給免田畑・給分(免除や給与)は、国家や公権を分与
されている荘園支配者によって保証されていたとみられる。
この身分的な違いが差別につながったのではないか。
下人・所従は私人に私的に所有されて売買贈与されるし、移動の自由も
ないのであるが、職人の神社や寺院への奉仕従属はそれとは異なり、
移動の自由もあるし、自らの意思で複数の権門に兼ね仕えることが
できた。神人の場合は、「神奴」、寺院の寄人は「寺奴」と呼ばれる
ことがあるが、これは神や仏への従属を言っているのであって、主が
ないも同然である。
著者:網野善彦
出版社: 岩波書店 (1980/01)
ISBN-10: 4004201365
内容:(「BOOK」データベースより)
弥生時代いらい稲作を中心に生きてきた単一の民族という日本人像は、近世以降の通念にしばられた虚像ではないだろうか。本書は、中世民衆が負っていた年貢・公事の実態とその意味を問い直し、さらに遍歴する職人集団の活動に光を当てることにより、その虚像をくつがえす。日本中世の多様な姿とゆたかな可能性が描き出される。
目次:
第1部 中世の平民像
(平民身分の特徴
さまざまな年貢
年貢の性格
水田中心史観の克服
公事の意味するもの
「自由民」としての平民)
第2部 中世の職人像
(職人という言葉
職人身分の特徴
遍歴する職人集団
櫛を売る傀儡
職人としての唐人)
第一部は中世の平民の姿をあらわにしている。
重い年貢にあえいでいる感がある平民であるが、それと引き換えに
自由があったとみられる。年貢は実は米に限らなかった。かなりの
種類、地域の名産品による年貢が存在していた。「米」は日本民族
を通して共通文化ではなく、為政者が広く支配するための手段で
あったとみなしたほうがよいのではないか。文献が支配者により
記されたものしか残っていないため庶民の生活を知ることがかなり
難しい。ところが制度を研究しようとすると「制度史的」、庶民の
日常生活を知るために民俗学や社会学の成果を取り入れようとすると
「超歴史的」「社会学的」という批判を受けてしまう。歴史学者って
だめなんじゃないのーー、というのがもうちょっとゆるい言葉で
書いてある。
後半は中世の職人について。職人とは、身分としての「職人」で、
平民が負担しなければならない年貢や公事の負担義務を一部ないし
全部免除されることを保証されたひとたちである。特権のかわりに
自らが持つ専門技能を生かして、天皇、将軍、寺院、神社などに
奉仕している場合が普通で、12-3世紀になると、漁民、狩猟民、
手工業者、商人、芸能民、呪術師などになる。このように職人と
いう言葉は昔は非常に幅広く、現在と同じ意味である「手工業者」
をさすようになるのはもっとも早い時期で1367年、南北朝あたり。
この職人をまとめた形になっている「職人歌合」という職人づくしが
あり、医師、陰陽師、番匠、鍛冶、巫、博打、海人、経師などが
はいっている。後の歌合では、山伏、僧侶、桂女、小原女、辻君(街娼)
まではいっている。しかし職人歌合じたいに「職人」という言葉が
出てこない。このタイトルは後世つけられたものという可能性がある。
このような多様な職能を持つ人々をまとめて表現するには、平安時代
後期から室町時代に至るまで「道々の輩」あるいは「道々の細工」
という言葉が使われている。職種にはそれぞれに「道」があったためで、
木工道、螺鈿道、博打道などがあった。ただこの言葉も意味の変化が
あり、「当道」というのは本来すべての「道々の者」について使われた
と思われるが、江戸時代は盲目の者にのみ使われていた。「諸道」という
言葉自体、江戸時代には卑賎視された人々をさすように使われた。
「芸能」という言葉は、武士をはじめとして、手工業者、芸能民、
僧侶、勝負師など「職人」の技術・技能をさすものとして広い意味で
用いられていた。弓矢や騎馬の技術も芸能なので、武士も芸能人だと
思われていた。
職人に対する給免田畑・給分(免除や給与)は、国家や公権を分与
されている荘園支配者によって保証されていたとみられる。
この身分的な違いが差別につながったのではないか。
下人・所従は私人に私的に所有されて売買贈与されるし、移動の自由も
ないのであるが、職人の神社や寺院への奉仕従属はそれとは異なり、
移動の自由もあるし、自らの意思で複数の権門に兼ね仕えることが
できた。神人の場合は、「神奴」、寺院の寄人は「寺奴」と呼ばれる
ことがあるが、これは神や仏への従属を言っているのであって、主が
ないも同然である。
書名:江戸の生業事典
著者:渡辺信一郎
出版社: 東京堂出版 (1997/05)
ISBN-10: 4490104537
内容:(「MARC」データベースより)
馬糞掻きや玉子売り等の行商、大工や縫箔師等の職人、蛇遣いや曲屁等の大道芸、さらに武士が顧客の質屋や蔵宿など、江戸の生業の実体を、当時の川柳から明らかにし、庶民の生活ぶりを再現。
江戸時代の庶民の有様を川柳でひもといたかなり面白い本。
「川柳江戸行商」「江戸の生業」がベース。
ただし士農、売春業に関しては省いてある。
大道芸関係でも、粟餅曲搗き、易者、傀儡師、角兵衛獅子、
軽業師、曲独楽(居合抜き)、曲馬乗り、曲屁、芥子之助(手品師)、
猿回し、太神楽、茶筅売り、辻八卦(人相見・手相見)、手妻使い(品玉師)
鳥追、百眼、蛇遣い(それ吹けやれ吹け)、卜者、豆蔵、三河萬歳、
厄払い、読売り、などが掲載されている。
太神楽は扱いが大きく、約3ページわたって説明や川柳が掲載されている。
川柳を読んでいるとその当時の風景が浮かんでくるようだ。
たくさんの川柳があるのだが、曲芸に関する一部を見てみると。。
・太神楽壱合ほどの雨を乞い(宝十一義3、1761)
・ちょっとした雨を降らせる太神楽(二六12, 1796)
・時ならぬ曲水をする太神楽(三七24,1807)
・村雨を丸く降らせる太神楽(五四16,1811)
18世紀のなかごろからすでに水芸が太神楽に取り入れられて
いたのがわかる。丸く降らせるところをみると水雲井の曲
ないしは類似の芸だろう。
・満足に玉子を仕舞う太神楽(二六9,1796)
これって大昔から玉子落としをやっていたということ?
それとも玉子の傘回し?
・二番目に粟餅を出す太神楽(一三ニ31,1834)
粟の曲搗きが芸の中にはいっていたのだろう。
・太神楽鼻の下まで働かせ(安四叶2,1775)
・太神楽鼻の額へ丹羽の紋(一三ニ28,1834)
顔の上での立物だろう。丹羽家の紋というと交差した棒なので
お染久松通いの鞠のことかもしれない。
・太神楽どんと打ってはひょいと投げ(天四宮1, 1874)
太鼓の曲打ちそのもの。
・太神楽おまけに腰を一つ振り(明ニ礼6,1765)
・太神楽撥を勃やして笑わせる(明ニ仁5,1765)
庶民には下ネタが受けるというやつだろうか。
この時代はむかしむかし物語よりもだいぶ後なので
より好色になっていてもおかしくない。
曲芸が実際に行われていた年代が特定できたのは、とても
興味深い。こういう庶民の記録をたどればより多くのことが
見えてくるかもしれない。
著者:渡辺信一郎
出版社: 東京堂出版 (1997/05)
ISBN-10: 4490104537
内容:(「MARC」データベースより)
馬糞掻きや玉子売り等の行商、大工や縫箔師等の職人、蛇遣いや曲屁等の大道芸、さらに武士が顧客の質屋や蔵宿など、江戸の生業の実体を、当時の川柳から明らかにし、庶民の生活ぶりを再現。
江戸時代の庶民の有様を川柳でひもといたかなり面白い本。
「川柳江戸行商」「江戸の生業」がベース。
ただし士農、売春業に関しては省いてある。
大道芸関係でも、粟餅曲搗き、易者、傀儡師、角兵衛獅子、
軽業師、曲独楽(居合抜き)、曲馬乗り、曲屁、芥子之助(手品師)、
猿回し、太神楽、茶筅売り、辻八卦(人相見・手相見)、手妻使い(品玉師)
鳥追、百眼、蛇遣い(それ吹けやれ吹け)、卜者、豆蔵、三河萬歳、
厄払い、読売り、などが掲載されている。
太神楽は扱いが大きく、約3ページわたって説明や川柳が掲載されている。
川柳を読んでいるとその当時の風景が浮かんでくるようだ。
たくさんの川柳があるのだが、曲芸に関する一部を見てみると。。
・太神楽壱合ほどの雨を乞い(宝十一義3、1761)
・ちょっとした雨を降らせる太神楽(二六12, 1796)
・時ならぬ曲水をする太神楽(三七24,1807)
・村雨を丸く降らせる太神楽(五四16,1811)
18世紀のなかごろからすでに水芸が太神楽に取り入れられて
いたのがわかる。丸く降らせるところをみると水雲井の曲
ないしは類似の芸だろう。
・満足に玉子を仕舞う太神楽(二六9,1796)
これって大昔から玉子落としをやっていたということ?
それとも玉子の傘回し?
・二番目に粟餅を出す太神楽(一三ニ31,1834)
粟の曲搗きが芸の中にはいっていたのだろう。
・太神楽鼻の下まで働かせ(安四叶2,1775)
・太神楽鼻の額へ丹羽の紋(一三ニ28,1834)
顔の上での立物だろう。丹羽家の紋というと交差した棒なので
お染久松通いの鞠のことかもしれない。
・太神楽どんと打ってはひょいと投げ(天四宮1, 1874)
太鼓の曲打ちそのもの。
・太神楽おまけに腰を一つ振り(明ニ礼6,1765)
・太神楽撥を勃やして笑わせる(明ニ仁5,1765)
庶民には下ネタが受けるというやつだろうか。
この時代はむかしむかし物語よりもだいぶ後なので
より好色になっていてもおかしくない。
曲芸が実際に行われていた年代が特定できたのは、とても
興味深い。こういう庶民の記録をたどればより多くのことが
見えてくるかもしれない。