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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:見世物研究
著者:朝倉無声
出版社: 思文閣出版 (1999/10)
ISBN-10: 4784206841

内容:(文庫版「BOOK」データベースより)
幻術、手品、軽業、南京あやつり、珍禽獣、蛇遣い、細工物…奔放な好奇心とエネルギーに満ち、猥雑でグロテスク、ケレンたっぷりでときに残虐でさえある見世物の数々に、江戸の人々は夢中になった。大都市の消費的・享楽的な文化風俗であったがために、のちに近代化とアカデミズムの確立のなかで研究の場から排除された見世物文化について、本書はその全体像を歴史的にとらえた総合研究書の嚆矢であり、ながく孤高の名著とされてきた。近年盛んになりつつある見世物・大衆芸能史研究の基礎資料としても注目される幻の書。

著者略歴: (文庫版「BOOK著者紹介情報」より)
朝倉 無声
明治10(1877)‐昭和2(1927)年。本名、朝倉亀三。早稲田大学で国文学を修めた後、帝国図書館司書となり、近世の文芸・風俗研究を専攻、職を辞したのち著述に専念した。宮武外骨のあとをうけて雑誌『此花』にかかわり、つづいて『風俗図説』を主宰、江戸の風俗、とくに見世物についての研究を発表した。没後に出版された『見世物研究』は研究の集大成であり、現在にいたるまで見世物に関する貴重な総合研究書として高い評価を得ている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



表紙は文庫版のもの。
「放下」についての項目がある。
奈良時代に支那から伝来した散楽雑技が元で、平安時代に猿楽から分離、
田楽の付属となったが、北條高時や足利尊氏の弄ぶところとなって、
全盛をきわめた。しかし室町時代の中期に能楽勃興のために衰微した。
田楽付属の雑技中、輪鼓と品玉を演じた法師が独立して、曲手鞠と
筑子、幻戯を加えて寺社境内などで勧進興行した。これが放下僧、
俗人になってからは放下師と呼ばれるようになった。
放下の名義については「心眼録」に禅家の語録に放下という言葉が
あり、諸録を放擲して無我に入るの意。
この芸をおこなうためには一切の妄念を放擲して、無障無礙になす故に
放下と名づけたという。
当時民間で盛んに行われたことは謡曲の「放下僧」でも見られる。
放下は室町時代の民間芸術であったが、「看聞日記」嘉吉元年(1441年)に
「放下参る、手鞠、龍子、品玉等芸を施す。甚だ興あり、細美布一つ
給ふ、リウゴ甚だ上手なり」
と後崇光院の上覧となった。
リウゴは輪鼓でデアボロに酷似していると書かれている。
ここに載っている輪鼓の例は2人によるディアボロ1個のパッシングであった。
放下師がディアボロの模様を着物に用いていたところから、雑技の中で
もっとも重きを置いていたことが知れるとのこと。

また「看聞日記」永享8年(1437年)に
「石阿手鞠をつく、三を以って之をつく、茶碗器々手鞠取り合わせつく。。」
「建内記」文安4年(1447年)に
「石阿彌芸能を施す、其儀各拳の如き石二つと手鞠を突く、また茶碗と石と
之を突く、又豆と石と、茶碗と豆と、又天目と石と程々之を突く。。」
これが豆蔵、相生茶碗の曲の原型なのだろう。

「手品」の項にも鎌、豆、鈴、1尺の棒、小鞠、茶碗のトスジャグリングが記述
されている。竿の頭に上ってやったってほんとう?
「曲鞠」の項もあるが、これはいまでいうフリースタイルフットボール。
奈良時代に支那からわたり、今昔物語にも記録があるという。
天保12年には空前の大当たりの興行もあったという。
「曲独楽」に関しては9ページもの記述がある。

「枕返し」の項には箱枕を8個重ねて持っている絵が載っている。
10個の箱枕を重ねて好きなところを一つ抜き取る、という技。
正保12年(1655年)「ひそめ草」に
「若き人達寄り合ひ遊ぶ中に、一人木枕多く集めて重ねあげ、手に据え
 左右へ渡す、人の好むところにより切り取る、又二つ手に据え、
 いかほどにも自由になす、拳ひとつ動かし、肱肩くだりきりきり
 まわしなどして、いろいろの戯れをする」
いまのシガーボックスとはだいぶ違うような気がするが、どちらかという
とコンタクト箱枕とでもいうような技か?
「芸の未熟な若衆すなわち売春郎に枕返しの曲を練習させて、遊客に
招かれた酒宴席上の一興として演ぜしめたのが大いに流行を極めたのである」
曲芸の使われ方としては正しいのだろうなあ。


補遺に「辻放下と豆蔵」という章がある。軽業、手品が主なのだが興味深い
記述があった。

--
皿回しは今も手品師の演ずるものと大同小異であるが、其秘曲に夕立の曲
といふのがあった。それは大皿へ水を入れたのを、竹の先に載せて回す
のであるが、皿の回るにしたがって勢いが強くなると、水が四方へ飛散
するので、多く早天の時に演じて、降雨を待つ市民の喝采を博したのである
--

これってほとんど水の曲ですよねえ。

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書名:近世風俗志―守貞謾稿 (1)
著者:喜田川 守貞 (著), 宇佐美 英機(校訂)
出版社: 岩波書店 (1996/05)
ISBN-10: 4003026713



天保8年(1837年)から慶応3年(1867年)頃まで書き綴られた
江戸時代風俗の百科事典ともいうべき作品。
この巻之七「雑業」に門付芸等が記載されている。
神道者、わいわい天王、鹿島の事触、虚無僧、太神楽、願人坊主、
おぼくれ坊主、考へ物、御日和云々、半田行人、まかしよ、
昔の住吉踊り、庚申の代侍、乞胸、綾取り、猿若、江戸万歳、
辻放下、からくり、浄瑠璃、説経、物真似、仕形能、物語、
講釈、辻勧進、獅子舞、首掛け芝居、葛西踊り、西国順礼、
六十六部、四国遍路、非人、エタ、犬拾ひ、猿曳、節季候、
大黒舞、鳥追、砂画、掃除、一人相撲、河童に扮す、乞食芝居、
神楽みこの扮、すたすた坊主、親孝行の扮、樽負いに扮す、
髪結いに扮す、和尚日和、古札納め 等の説明が一部イラスト
とともに記述されている。

太神楽の項は前半が「八十翁昔話」からの転載。
ただし版が違うのか、以前読んだ内容とは微妙に異なる。

--むかしむかし物語版--
次第に拍子急に詰る、誠にしんしんと
して感にたへる計也、其内の興にどうけ人の笑ため、大太鼓打
烏帽子左右へ筋違にかぶり、道化にして見物輿に入、
--
--守貞謾稿版--
序破急の拍子次第して、誠に森々として感に堪ゆるばかりなり。
その内の興に人を笑はするため、大太鼓うち、烏帽子を左右へ
すじかひにかぶり、時々撥をもち投げなんどする。これを大な
る童戯にして、見物興に入ることにぞありける。
--

今回の版では曲撥を行っているように読める。
後半部分は当時の太神楽の構成と由来の説明。土御門殿配下の
熱田方、武府寺社奉行支配にて伊勢方、各12組が存在する。
太神楽は代神楽の訛りである。

--
近世、特に大執行の意をもって太々神楽といい、太々講と云う。
今世、伊勢太夫より毎年一万度大麻(たいま)とて幣串(ぬさぐし)を配る。
--

大麻って御札のことだったのね。ところで「大執行」とはなんだろう?

書名:サーカスと革命―道化師ラザレンコの生涯
著者:大島幹雄
出版社: 平凡社 (1990/04)
ISBN-10: 4582373062
内容(「BOOK」データベースより)
20世紀初頭、ロシアは革命という大きな激動の中にあった。この時期に
「赤い道化師」と呼ばれ、煽動者として革命の先頭に立ち、民衆の絶大
な支持を受けたサーカス芸人ヴィターリイ・ラザレンコ。〈行為におけ
る詩人〉として生きた道化師の生涯を丹念に追い、メイエルホリド、マ
ヤコフスキイら同時代芸術家たちとの実験的・挑発的ないとなみと、革
命期の見世物小屋にこだました歓声と呵呵大笑を、臨場感に富む筆致で
描き切る。当時ロシアを巡業した日本人曲芸師「タカシマ」や「カマキ
チ」らの謎につつまれた足跡も追う。

目次:
プロローグ 一九八九年春、マヤコフスキイ広場

第一章 革命と道化師
 一 黄色いジャケットと道化師
  世界ではじめて象三頭を跳び越えた男/ドンバスの坑夫の息子/道化師の最初のレッスン/
  ドゥーロフとの出会い/ニキーチン・サーカスと契約する/未来派とサーカス/カメンスキイとラザレンコ
 二 それぞれの二月
  一九一七年二月、ペトログラード/革命へのジャンプ-ラザレンコの二月/革命と道化師
 三 サーカスの家
  〈サーカスの家〉の誕生/テオ・サーカス課/ルナチャルスキイとラザレンコ/メイエルホリドのモスクワ帰還

第二章 メイエルホリド、マヤコフスキイとともに
 一 『ミステリア・ブッフ』の上演
  メイエルホリドからの誘い/革命祝祭劇『ミステリア・ブッフ』/サーカスの壁のなかのミニアチュール/
  『ミステリア・ブッフ』の大成功
 二 詩人と道化師
  パイナップルと赤かぶ/〈ロスタの窓〉と『ソビエトのアルファベット』/『階級闘争世界レスリング選手権』
 三 前線へ
  アジ・サーカス結成/一九一八年-南方戦線へ/道化師軍団のなかで

第三章 サーカスは陽気なサナトリウム
 一 ラザレンコの孤立
  モスクワを遠く離れて/ルカヴィーシニコヴァとの闘い/詩集『メーキャップの染み』
 二 道化のモンタージュ
  『賢人』を観る/『賢人』のなかのサーカス/エイゼンシュテインとサーカス
 三 セルジュと〈四匹の悪魔〉
  生粋のサーカス芸人セルジュ/〈四匹の悪魔〉誕生/革命とセルジュ
 四 一九一九年、ペトログラード
  酷寒と餓えのなかで/新世代の登場
 五 演劇のサーカス化
  演劇とサーカスの融合/『最初の酒つくり』
 六 民衆喜劇座のサーカス喜劇
  民衆喜劇座の誕生/ラドロフと民衆演劇/『死の花嫁』と『猿は密告者』/
  『スルタンと悪魔』と日本人曲芸師タカシマ/タカシマ伝説/海を渡った日本の芸人/民衆喜劇座の解散
 七 フェクスの冒険
  エクスツェントリズム演劇/『結婚』で演じるセルジュ/サーカスとアヴァンギャルド

第四章 最後の闘い
 一 劇団〈青シャツ〉
  辺境の旅人/〈生きた新聞〉から〈青シャツ〉へ/〈青シャツ〉とラザレンコ/若きユーモア作家とともに
 二 『マフノ党』
  蘇ったラザレンコ/『マフノ党』の成功
 三 ロシア・アヴァンギャルドの最後の闘い
  内なる敵を撃つ/『南京虫』とサーカス/ラップの猛威のなかで/
  『モスクワは燃えている』とマヤコフスキイ最後の闘い/アリーナへの憧憬

第五章 ラスト・ステージ
 一 道化師最後の仕事
  一九三〇年のラザレンコ/民衆の道化師/未完の道化師論/
 二 ラスト・ステージ
  最後のパレード/道化師の死とメイエルホリドの逮捕

あとがき
文献一覧
索引






ラザレンコの半生を通して、社会主義リアリズムに圧殺されたロシア
アバンギャルド活動を描いている。革命当時のロシアサーカスとアバン
ギャルドとの関わり合いが興味深い。革命前は風刺によって政治活動
を行っていたサーカスが、革命当初は革命政府によって支持も
されていたのね。でも政府担当者が変わることで弾圧されるようになる。
そのまま発展していれば、今頃私は毎年モスクワ詣でをすることになって
いたかもしれない。
日本人の芸人については138ページから148ページについて記述がある。
--要約--
民衆喜劇座で上演された「スルタンと悪魔」において王子役のタカシマ
の演技は絶賛されていた。演劇評論家のソロヴィヨーフによると
「銀の花柄のついた青いガウンを着たタカシマの演技は、われわれに
深い感動を与える、すばらしいものだった。彼は悲しげに舞台に立って
いる。日本語で話しながら、目にもとまらぬ早さで、小刀をあやつって
みせた。彼はまだわれわれが知らない、東洋のまぎれもない、みごとな
演劇芸術を披露してくれた。」
「タカシマ」は「タツノスケ」「マツノスケ」のふたりがいたらしい。
「タツノスケ」は松井源水とともに独楽回しの演技をしていた。
民衆喜劇座に出演したのは「マツノスケ」らしい。タカシマの名が
知れ渡ったのはエンリコラステリによるところが大きい。
「ジャグリングの四千年」によれば「ラステリの芸の発展を決定
づけたのは、ストレーペトフサーカスでのタカシマとの出会いであった。
この出会いは、彼が名声を得て、現代のボールジャグリングの手法を
確立する上でのキーポイントとなった」
1912-1914に「ヤマダサーカス」がロシアを巡業し、その中にタカシマ
も参加していた。1928年にレニングラードのサーカス博物館で開催
された「ジャグラー展」のカタログにも「タカシマ」の名前がある。
このときのポスターは一つ鞠を行っており、咥え撥の上に鞠を載せて
いる。
カマキチは民衆喜劇座の中心人物デリヴァリにバランス芸と足芸を
教えた。またナイフ投げで評判を得ていた。ロシア人妻を標的と
していた。
--
タカシマの資料の提供は日系サーカス芸人のゲオルギイ・イシヤマ氏。

また他にも興味深い話がある。エイゼンシュタインが「レフ」誌3号に
「アトラクションのモンタージュ」と題するエッセイを発表した。
彼は芝居の生命が「アトラクション」にあることを宣言した。
「アトラクションというのは演劇のあらゆる攻撃的契機のことだ。
つまり知覚する側に一定の情緒的ショックを与えるよう綿密に計算され
経験的にえりすぐられた、感覚的ないし心理的作用を及ぼす要素のことである」
「恣意的に選ばれたものでありながら、最終的には一定のテーマ上の
効果をもたらす独立した作用を自由にモンタージュすること、つまり
アトラクションのモンタージュの登場である。」
「モンタージュの学校は映画、そしておもにミュージックホール、
サーカスである。ほんとうのところ、すぐれた芝居をつくるとは、
戯曲の中心をなす状況から出発してミュージックホール的、サーカス的
一大プログラムを組むことにほかならないのだ」

サーカスに学ぶ映画作りはたいへん興味深い。

ラザレンコは道化師にたいして断片的なエッセイを発表し、現代の道化師
にとって作家や演出家との共同作業が不可欠であるという持論を展開
している。221P
「クラウンが少ない。なぜか。なによりもまずテキストが必要なのだ。
 テキストは現代に応じたものでなくてはならない。しかしここで
忘れてはならないことがある。芝居のために書かれた戯曲やモノローグ
を使うのは不可能であること、サーカスのために書かれたものでなく
てはならないということだ。。。略。。クラウンの仕事のアキレス腱。
それは演出家の不在である。。。略」

クラウンのテキストがあるのならば是非読んでみたいものだ。
書名:芸能の人類学
著者:姫野 翠
出版社: 春秋社 (1989/10)
言語 日本語
ISBN-10: 4393424514
目次:
第1章 呪術から芸能へ(呪術と芸能、芸能をになった人々)
第2章 芸能に見る東と西(舞踊の展開、東の音楽・西の音楽)
第3章 これからの芸能

42-43P
呪術は本来<他目的的>な行為である。「雨乞い」は「雨を降らせる」
ために行われる。しかしこの<他目的的>という性格は脱落しやすい。
科学の進歩で自然の神秘が解明されると呪術の出番が少なくなる。
それで呪術がなくなるかというとそうではなく、本来的な目的だけ
が脱落してしまい、プロセスとしての行為のみが残る場合が多い。
他目的的機能が失われて、行為自体が目的となってしまう。
「歌う」「踊る」「演技」することが目的になれば、それはもう
芸能である。
皮肉なことに「目的のはがれやすさ」は呪術それ自体の中に存在する。
「呪術で良い結果を得る」ために同じプロセスで行為をなさねばならず、
同じプロセスというところに焦点が移ると、そのこと自身が目的と化して
しまう。

50P
では芸能は呪術と全く違ったものになるかというとそうではない。芸能
においても演者と観客はともに現実から離脱した時間空間に入り、
目に見えない形での相互の交流によって、非日常的な一種の興奮状態を
共有していく。これは呪術において観られる構造と同じ。

82P
漢代(206BC-220AD)に百戯(または雑戯)が生まれ、それが奈良時代に
散楽として日本に導入され、宮廷戯として伝承される一方、民間にも
伝えられて今日の大神楽で行われる数々の曲芸の基になった。

83P
中国南西部広西壮族自治区の十万大山の南側に住む壮族の間で用いら
れている天琴という撥奏リュートはもともと天吧(テンパ)という
プロ芸人の楽器だったらしい。
天吧、伊勢大神楽、韓国の男寺党は皆、村へはいると各家ごとに御祓
いをして、その後広場で本格的な芸を披露していた。

題名:むかしむかし物語
著者:新見正朝
作成時期:享保年間(1716が享保元年)

飛鳥川、己往物語、翁物語、中古風俗集、八十翁昔物語などの
題名でも知られている。写本なので本文にも多少の異同がある。
この物語は80歳になる著者が70年以上も昔のことを思い出して
書き記したもの。慶長より寛文、延宝に至るまでの江戸の風俗
の記載がある。この物語は次の本に掲載されている。

書名:近世風俗見聞集第一
著者:国書刊行会編
出版社:国書刊行会
出版年:大正元年(1912年)8月(1970年に復刻)

この本の緒言によると新見正朝は享保2年(1717)3月31日没と
あるのだが、Web上の情報では享保7年(1722)にこの本が書かれた
という記述が見受けられる。
また大学図書館の典拠詳細でも新見正朝は1651-1742 となっている。
http://opac.lib.meiji.ac.jp/cgi-bin/exec_cgi/iatydet.cgi?CGILANG=japanese&U_CHARSET=utf-8&MENUHTML=imenu.html&ID=AU00170523
さて実際に書かれた年度は??

太神楽について記述のある部分を引用する。

--ここから
七十年以前の昔は、太神宮御祓大神楽とて、毎日江戸中徘徊し
歩行し有様、先儀式正しくして、先へ鼻高き面を被りたる者、
直垂を着白袴着し御幣を持て立、その次に十四五歳計なる男子を
美しく作り、瓔珞をかぶり、長絹を着せ、白袴着し中啓の扇子、
右に鈴を持歩む、三番に麻上下を着たる男箱を持、四番に布衣
装束たる者、其次に四つ足付たる長持蓋をゐをのけて、其上に
獅子の頭を直し、中に大太鼓をおき、一萬度の御祓真中に立て
御幣を立、此長持舁四人か六人にて、舁かづくものも烏帽子着
て白丁を着し、白きくくり袴を着て、はやし方左右に附、笛小
鼓大鼓小つづみ打、どひやうし打合替たる時、右のやうらくか
ぶりたる舞子神楽を舞、次第に拍子急に詰る、誠にしんしんと
して感にたへる計也、其内の興にどうけ人の笑ため、大太鼓打
烏帽子左右へ筋違にかぶり、道化にして見物輿に入、扨近年江
戸中徘徊の太神楽と云は、人柄至極浮気に見へたる、歌舞伎者
の装束のことは思いも寄らず、大白衣大廣袖など、木綿布幅広
の帯して、尻の皺なく著て、大自堕落のうわき者共大脇ざし差、
尤大太鼓小だいこ笛は吹け共、せうが小うた節に合せて吹、獅
子頭は持共、是をかぶりて色々好色の興に、小歌狂言のみにて、
獅子を馬にして悪所通ひの狂言抔に移し、若き男女の気をそそ
り立様に道化下女下男に面白がらするのみを仕組、たは事不道
の言葉を尽す、是にて神楽の専ん有るべきや、神も御悦あるべ
きや、
--ここまで

前半部分が70年前、後半部分が現在についての描写となっている。
老人による70年前の話を信用するとすれば、太神楽の一行は、、

・先頭:御幣を持った鼻高面の男
・2番目:14~15歳の男に瓔珞・長絹・
白袴着せて(女装?)扇子と鈴を持たせる(巫女?)
・3番目:麻裃で男箱を持つ(男箱ってなにもの?)
・4番目:布衣装束
・5番目:足がついた長持を4-6人で持つ
   長持上に獅子頭・大太鼓・御幣・一万度御祓・御幣がある
・左右:楽団(笛・小鼓・大鼓・小つづみ・どひやうし)
   道化が太鼓をたたく

当時の太神楽は、、

・歌舞伎役者以上の浮気者?
・大白衣大廣袖木綿布幅広帯で大脇ざし差
・大太鼓小だいこ笛で演奏
・獅子頭を被って好色な狂言をする
・獅子を馬に見立てて悪所(遊郭)通いの狂言で若者や下男下女に受ける

老人の昔はよかった調の文章であることは間違いないが、時代が経つに
つれて宗教的色彩が減り、より一般大衆に受けるような芸態に変わった
のだと思われる。当時に御幣が見えないのは、神事であることがあまり
重要視されなくなったのか?悪所通いは今の伊勢大神楽でいうところの
魁曲なのか?
少年の女装巫女と大脇ざしの浮気者ってカブキかたとしては良い勝負
だと思うのだけれどどうなんだろう?


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