初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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題名:旅する舞人・伊勢大神楽 -現代に生きる「奇跡」の遊行宗教者たち-
著者:北川央
書名:「宗教と現代」(1994/3 PP50-53, 1994/4 PP.44-49)
目次:
一.はじめに
二.太夫村
三.回壇
四.神館神社・大福田寺
五.獅子舞の伝承と舞曲
六.おわりに
伊勢大神楽の全般的な紹介、
江戸時代の太夫村は全戸神職の家からなっていて、津島神社の御師で「師職家」
(ししきけ)というグループと、「神楽家」という獅子舞を業として伊勢神宮
の神札を配るグループに二分されていた。
師職家はもっぱら関東方面(下行、しもゆき)、神楽家は京・大阪方面(上行、
かみゆき)に赴いていた。
明治の御師制度廃止に伴い、師職家は転職を余儀なくされたが、神楽家の方は
遊芸ということで存続を許された。
地元桑名で芸を披露する機会は3回、12月24日の総舞、神館神社祭礼の10月13日、
大福田寺聖天祭の4月2日。増田神社における12月23日の祭礼と25日の獅子頭への
御根性入れは太夫たちによって招かれた神館神社の神主によって執り行われる。
大福田寺はもともと神館神社の別当寺であった。
寛文元年(1661)3月付きで記された「伊勢大神楽由来ノ抜キ書」には、
大海人皇子が吉野をおちて桑名に入ったときに増田庄霞ヶ岡で伊勢神宮の
天照大神を遥拝して祈願、その晩霊夢を見、これを機会に勢力を
盛り返して国家を平定した。そこで霞ヶ岡に増田神社を作った。
代々朝廷に神楽を奉納するのもこの天武天皇の時の佳例によるものだという。
もちろん史実に仮託した縁起伝承に他ならないが、獅子舞の中には、これを
反映して「吉野舞」という朝敵を討ち平らげるものがある。
太夫村の伊勢大神楽は三重県指定無形文化財を経て昭和56年1月に国の無形
重要文化財の指定を受けた。文化庁保護部監修の「月刊文化財」209号によれば
「特に放下の芸を遺す演目は、芸能史的に貴重であり獅子による曲芸という
芸態にも特色があると認められている」とその指定理由が述べられている。
著者:北川央
書名:「宗教と現代」(1994/3 PP50-53, 1994/4 PP.44-49)
目次:
一.はじめに
二.太夫村
三.回壇
四.神館神社・大福田寺
五.獅子舞の伝承と舞曲
六.おわりに
伊勢大神楽の全般的な紹介、
江戸時代の太夫村は全戸神職の家からなっていて、津島神社の御師で「師職家」
(ししきけ)というグループと、「神楽家」という獅子舞を業として伊勢神宮
の神札を配るグループに二分されていた。
師職家はもっぱら関東方面(下行、しもゆき)、神楽家は京・大阪方面(上行、
かみゆき)に赴いていた。
明治の御師制度廃止に伴い、師職家は転職を余儀なくされたが、神楽家の方は
遊芸ということで存続を許された。
地元桑名で芸を披露する機会は3回、12月24日の総舞、神館神社祭礼の10月13日、
大福田寺聖天祭の4月2日。増田神社における12月23日の祭礼と25日の獅子頭への
御根性入れは太夫たちによって招かれた神館神社の神主によって執り行われる。
大福田寺はもともと神館神社の別当寺であった。
寛文元年(1661)3月付きで記された「伊勢大神楽由来ノ抜キ書」には、
大海人皇子が吉野をおちて桑名に入ったときに増田庄霞ヶ岡で伊勢神宮の
天照大神を遥拝して祈願、その晩霊夢を見、これを機会に勢力を
盛り返して国家を平定した。そこで霞ヶ岡に増田神社を作った。
代々朝廷に神楽を奉納するのもこの天武天皇の時の佳例によるものだという。
もちろん史実に仮託した縁起伝承に他ならないが、獅子舞の中には、これを
反映して「吉野舞」という朝敵を討ち平らげるものがある。
太夫村の伊勢大神楽は三重県指定無形文化財を経て昭和56年1月に国の無形
重要文化財の指定を受けた。文化庁保護部監修の「月刊文化財」209号によれば
「特に放下の芸を遺す演目は、芸能史的に貴重であり獅子による曲芸という
芸態にも特色があると認められている」とその指定理由が述べられている。
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題名:雑録太神楽
著者:暁鶏成
雑誌:文藝倶楽部定期増刊号九巻二号(明治36年)316-318ページ
国立国会図書館にマイクロフィッシュの形で保管されている。
この本は大日本太神楽曲芸協会が昭和17年に出した「太神楽由来記」の
種本だと言われている。(「太神楽考」、山路興造著による)
概要は次の通り。
・「太神楽」はそのはじめ「太々神楽」と称したのを省略したもの。
是に対するものを「小神楽」と名づけている。
・もともとは一つだったものが王朝の中世から二派に分かれて、
「熱田派」「伊勢派」になっている。
・熱田派は、白丸一(鏡味権之進)、大丸(菊田靱負)が主なもの。
以前は山神楽ともいって尾州熱田神社の大宮司千秋伊勢守の下に属していた。
その配下の神主の次男三男などが習うとなく慣れるとなく、自然に是が
巧みになって、太々神楽といわず、一口に太神楽と唱えだした挙句、
国許にばかりいたところで仕方がないからと一同相談の上、寛政4年に
大宮司の許しを得て江戸に出た。その時は悪魔祓いと名づけて、大小名の
屋敷を軒別に歩き、この年の3月に帰国した。江戸に出るために苗字帯刀御免に
なった。これから年々上京するのが例となった。
徳川四代将軍家綱の寛文9年正月に時の寺社奉行加賀爪甲斐守、小笠原山城守
勤役中に吹き上げのお庭で上覧に供したことがある。これとともに江戸に移り
住んで年々に上覧の栄を賜わったのみならず、山王権現、神田明神の祭礼には
先祓いの役目を務めることになった。移住するもの引きも切らず後年組合を設けた。
12人(名前の記述がある)を順々に割り当てて年番というものを決めた。
・伊勢派は、伊勢内宮の支配に属して、鈴川高の宮明神の社から成り立ったもので、。
あるが江戸に出たのは熱田派と比べるとおよそ2-30年後である。
延宝2年に寺社奉行の許しを得て、江戸にすみ、延享年中には伊勢派の組合が作られた。
・当初は優美高尚を主としたもので、年を経るにしたがって現在のような面白いもの
になった。宝暦4年の7月に寺社奉行から太神楽職渡辺文太夫へ、太神楽の古実を質問
した。その書上げ書は次のとおり。
一、私共太神楽相勤務候節、獅子頭を用い申し候義は神代の地神第四代火酸芹尊(ほすせりのみこと)、禁裏を守護なされ候間、諸社の神前にも非常を禁じ候ために、獅子を据え候、是によりて、辻町において太神楽相勤め、其所の邪気を相掃い候ために相用い申し候事
一、笛を吹き申し候事天照大神の御時、天鈿女命神楽を奏し、天恩兼神天香久山の竹をとり、節中を通じ気息を通わし、笛と名付け吹申候事、イザナキの尊の御時、鼓、笛、旗を以って謡ひ舞ふて祭ると申義、神代の巻に相見え申候事
一、太鼓はゑつづみ、小鼓はをとつづみと申候て、神代以来の相伝は仔細に御座候
一、神代天盤戸神楽の節、弓六張相並べ、弦を鳴らし申し候由、是を和琴の始めと仕候て、全て神事に和琴用い申候、末代に罷り成、和琴は下々に用ゐ難く御座候故、三味線を仮に用ゐ申候事
一、面を用ゐ申候義は、翁の相伝と申事に御座候由、四座の能太夫も吉田家より、翁の面を用ゐ候由に御座候、諸社祭礼の節、猿田彦の面を用ゐ申候事
一、踊申候義は、神代うたひ舞ふて祭ると申せし、遺風に御座候、又いろいろ拍子を取り申候義は、天盤戸神楽の節、木拍子を取り申候、伊勢十部の秘書の内、御鎮座本紀、寶基本紀等に相見え申候事
一、又謡物仕候義も、催馬楽の略に御座候矛を用ゐ申候義は太平楽舞の節、太刀鉾を用ゐ申候義に有之、十二座神楽の節相用ゐ申候事
一、鞠を用ゐ候義は、天照太神の手玉、足玉などと申す略に御座候て、相用ゐ申候事、総べて五調子と申事鼓、笛等鳴物の義は、神事本紀に相見え申候事
・文化14年12月10日に熱田派と伊勢派双方協議の上、毎年正59月には、時の年番の宅
にて天下泰平、五穀豊穣の御祈祷を執行すること。
神行の節には、浄衣、風折烏帽子着用の上、御祈祷には最も丹精を抽で勤めること
節分、大晦日、6日、14日、冬至、有卦、御遷宮は夜分まで神行すること
著者:暁鶏成
雑誌:文藝倶楽部定期増刊号九巻二号(明治36年)316-318ページ
国立国会図書館にマイクロフィッシュの形で保管されている。
この本は大日本太神楽曲芸協会が昭和17年に出した「太神楽由来記」の
種本だと言われている。(「太神楽考」、山路興造著による)
概要は次の通り。
・「太神楽」はそのはじめ「太々神楽」と称したのを省略したもの。
是に対するものを「小神楽」と名づけている。
・もともとは一つだったものが王朝の中世から二派に分かれて、
「熱田派」「伊勢派」になっている。
・熱田派は、白丸一(鏡味権之進)、大丸(菊田靱負)が主なもの。
以前は山神楽ともいって尾州熱田神社の大宮司千秋伊勢守の下に属していた。
その配下の神主の次男三男などが習うとなく慣れるとなく、自然に是が
巧みになって、太々神楽といわず、一口に太神楽と唱えだした挙句、
国許にばかりいたところで仕方がないからと一同相談の上、寛政4年に
大宮司の許しを得て江戸に出た。その時は悪魔祓いと名づけて、大小名の
屋敷を軒別に歩き、この年の3月に帰国した。江戸に出るために苗字帯刀御免に
なった。これから年々上京するのが例となった。
徳川四代将軍家綱の寛文9年正月に時の寺社奉行加賀爪甲斐守、小笠原山城守
勤役中に吹き上げのお庭で上覧に供したことがある。これとともに江戸に移り
住んで年々に上覧の栄を賜わったのみならず、山王権現、神田明神の祭礼には
先祓いの役目を務めることになった。移住するもの引きも切らず後年組合を設けた。
12人(名前の記述がある)を順々に割り当てて年番というものを決めた。
・伊勢派は、伊勢内宮の支配に属して、鈴川高の宮明神の社から成り立ったもので、。
あるが江戸に出たのは熱田派と比べるとおよそ2-30年後である。
延宝2年に寺社奉行の許しを得て、江戸にすみ、延享年中には伊勢派の組合が作られた。
・当初は優美高尚を主としたもので、年を経るにしたがって現在のような面白いもの
になった。宝暦4年の7月に寺社奉行から太神楽職渡辺文太夫へ、太神楽の古実を質問
した。その書上げ書は次のとおり。
一、私共太神楽相勤務候節、獅子頭を用い申し候義は神代の地神第四代火酸芹尊(ほすせりのみこと)、禁裏を守護なされ候間、諸社の神前にも非常を禁じ候ために、獅子を据え候、是によりて、辻町において太神楽相勤め、其所の邪気を相掃い候ために相用い申し候事
一、笛を吹き申し候事天照大神の御時、天鈿女命神楽を奏し、天恩兼神天香久山の竹をとり、節中を通じ気息を通わし、笛と名付け吹申候事、イザナキの尊の御時、鼓、笛、旗を以って謡ひ舞ふて祭ると申義、神代の巻に相見え申候事
一、太鼓はゑつづみ、小鼓はをとつづみと申候て、神代以来の相伝は仔細に御座候
一、神代天盤戸神楽の節、弓六張相並べ、弦を鳴らし申し候由、是を和琴の始めと仕候て、全て神事に和琴用い申候、末代に罷り成、和琴は下々に用ゐ難く御座候故、三味線を仮に用ゐ申候事
一、面を用ゐ申候義は、翁の相伝と申事に御座候由、四座の能太夫も吉田家より、翁の面を用ゐ候由に御座候、諸社祭礼の節、猿田彦の面を用ゐ申候事
一、踊申候義は、神代うたひ舞ふて祭ると申せし、遺風に御座候、又いろいろ拍子を取り申候義は、天盤戸神楽の節、木拍子を取り申候、伊勢十部の秘書の内、御鎮座本紀、寶基本紀等に相見え申候事
一、又謡物仕候義も、催馬楽の略に御座候矛を用ゐ申候義は太平楽舞の節、太刀鉾を用ゐ申候義に有之、十二座神楽の節相用ゐ申候事
一、鞠を用ゐ候義は、天照太神の手玉、足玉などと申す略に御座候て、相用ゐ申候事、総べて五調子と申事鼓、笛等鳴物の義は、神事本紀に相見え申候事
・文化14年12月10日に熱田派と伊勢派双方協議の上、毎年正59月には、時の年番の宅
にて天下泰平、五穀豊穣の御祈祷を執行すること。
神行の節には、浄衣、風折烏帽子着用の上、御祈祷には最も丹精を抽で勤めること
節分、大晦日、6日、14日、冬至、有卦、御遷宮は夜分まで神行すること
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http://www.nypl.org/research/
Japanese juggler を select all で探す
それらしきものが2件ヒット
. The Fine Arts of Japan.
Journal: Nation
Pub.: 1868-09-10
Volume: 7
Issue: 167
Pages: 215(2)
ISSN: 00278378
Subject: ART; BOOKS; JUGGLERS; PICTURES; EUROPE; JAPAN
Description: Language : English AN : 14171591 This article presents information related to fine arts of Japan. The Japanese jugglers in Europe and have shown no wizardry beyond a very few simple sleight-of-hand tricks; nine-tenths of their practice was tumbling and posturing and feats of manual dexterity, and whatever real jugglery there was, that made people laugh. But, in one of the Oksai books, and alternating with pictures which are of unmistakably mythological subjects, people have the Japanese thaumaturgist, in picture after picture, performing unexampled feats.
2. English and Romanized Japanese.
Journal: Nation
Pub.: 1867-05-30
Volume: 4
Issue: 100
Pages: 433(1)
ISSN: 00278378
Subject: AMBASSADORS; CAPITAL; JUGGLERS; JAPAN; ONE Thousand Familiar Phrases in English & Romanized Japanese (Book); LIGGINS, John
Description: Language : English AN : 14254412 The article focuses on the book "One Thousand Familiar Phrases in English and Romanized Japanese," by John Liggins. Japanese jugglers who are imported and Japanese embassies that come of their own the newly established communication between Japan and California is bringing into unexpected contact with the ingenious islanders. The author says that it is difficult to carry on a large business with a small capital or, turning the conversation upon Soviet Union; have remarked impressively.
juggler & history で探す。不思議なものを発見。
On Keeping Things Up in the Air.
Author: Truzzi, Marcello
Journal: Natural History
Pub.: 1979-12
Volume: 88
Issue: 10
Pages: 44(12)
ISSN: 00280712
Subject: ART; JUGGLERS; JUGGLING
Description: Language : English AN : 5228285 Focuses on the art of juggling. History of Tongan tradition of juggling; Ethnographic evidence of the art of juggling in ancient civilizations of Egypt; Integration of juggling with other skills among Greeks and Romans; Different specialized jugglers.
Google で awata katsnoshin を探す
The Journal of Popular Culture
Volume 25 Issue 3 Page 105 - Winter 1991
To cite this article: Arthur Chandler (1991)
On the Symbolism of Juggling: The Moral and Aesthetic Implications of the Mastery of Falling Objects
The Journal of Popular Culture 25 (3), 105–124.
doi:10.1111/j.0022-3840.1991.105744.x
Arthur Chandler Professor of Humanities (and a juggler) at San Francisco State University.
www.amazon.com の内容検索で japanese juggler を探す
91件ヒット。図書館で現物をチェックする必要あり。
同じく awata katsnoshin を探す
American Musical Theater: A Chronicle by Gerald Bordman (Hardcover - Jan 31, 2001)
Buy new: $80.00 25 Used & new from $35.99 .
Other Editions: Hardcover, Paperback, Unknown Binding
Excerpt - page 65: "... Cappalini, and by Arnold Kirafly One interesting addition was Prince Awata Katsnoshin, a magician. From 7 March to 9 April the production ..."
NYPLのreference E-mail service を使う
takashima, awata katsnoshine についての情報を求めた。
1日で回答が戻ってきた.
やはりむずかしいのね。。。
---
Dear Mr. Kurose:
We have searched our non-computer based card catalogue for information
regarding jugglers in general as well as Takashima and Katsnoshin Awata.
We have found only a few entries under the term jugglers in the formats of
clippings and photographs. We have found no entries for the two
individuals mentioned in your e-mail. If you require additional research
on this topic you may wish to contact our fee-for-service arm NYPL EXPRESS.
Contact information for them appears below. They provide both research and
reprographic services.
NYPL EXPRESS
express@nypl.org
188 Madison Avenue
New York, New York 10016-4314
212-592-7201
Billy Rose Theatre Division
---
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. The Fine Arts of Japan.
Journal: Nation
Pub.: 1868-09-10
Volume: 7
Issue: 167
Pages: 215(2)
ISSN: 00278378
Subject: ART; BOOKS; JUGGLERS; PICTURES; EUROPE; JAPAN
Description: Language : English AN : 14171591 This article presents information related to fine arts of Japan. The Japanese jugglers in Europe and have shown no wizardry beyond a very few simple sleight-of-hand tricks; nine-tenths of their practice was tumbling and posturing and feats of manual dexterity, and whatever real jugglery there was, that made people laugh. But, in one of the Oksai books, and alternating with pictures which are of unmistakably mythological subjects, people have the Japanese thaumaturgist, in picture after picture, performing unexampled feats.
2. English and Romanized Japanese.
Journal: Nation
Pub.: 1867-05-30
Volume: 4
Issue: 100
Pages: 433(1)
ISSN: 00278378
Subject: AMBASSADORS; CAPITAL; JUGGLERS; JAPAN; ONE Thousand Familiar Phrases in English & Romanized Japanese (Book); LIGGINS, John
Description: Language : English AN : 14254412 The article focuses on the book "One Thousand Familiar Phrases in English and Romanized Japanese," by John Liggins. Japanese jugglers who are imported and Japanese embassies that come of their own the newly established communication between Japan and California is bringing into unexpected contact with the ingenious islanders. The author says that it is difficult to carry on a large business with a small capital or, turning the conversation upon Soviet Union; have remarked impressively.
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On Keeping Things Up in the Air.
Author: Truzzi, Marcello
Journal: Natural History
Pub.: 1979-12
Volume: 88
Issue: 10
Pages: 44(12)
ISSN: 00280712
Subject: ART; JUGGLERS; JUGGLING
Description: Language : English AN : 5228285 Focuses on the art of juggling. History of Tongan tradition of juggling; Ethnographic evidence of the art of juggling in ancient civilizations of Egypt; Integration of juggling with other skills among Greeks and Romans; Different specialized jugglers.
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Volume 25 Issue 3 Page 105 - Winter 1991
To cite this article: Arthur Chandler (1991)
On the Symbolism of Juggling: The Moral and Aesthetic Implications of the Mastery of Falling Objects
The Journal of Popular Culture 25 (3), 105–124.
doi:10.1111/j.0022-3840.1991.105744.x
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題名:寄席芸能の現状
著者:日本芸術文化振興会発行/国立劇場事業部宣伝課編集
雑誌:国立劇場演芸場(149,171,179,189,197, 212号)
これは国立劇場演芸場の番組内容を書いたパンフレットである。
この中に「寄席芸能の現状」という連載がありそこで1年に一度
太神楽の記事が書かれていた。現時点において連載はない。
パンフそのものが折りたたんだ紙になってしまい連載を書く余地が
なくなったためだと思われる。続いていてくれたらどんなによかったか。。
第149号(1992) 「活気づく水戸大神楽」
菊蔵・小菊父娘コンビと水戸大神楽の紹介が載っている。
徳川御三家の水戸藩の御用を勤めていた誇りとお祓いを中心に
行動しているため、「格調高く重々しさを大切に」と
申し伝えられている。
第159号(1993) 「十三代小仙を襲名する仙寿郎」
鏡味小仙が襲名されるという話題。翌年が12代目小仙の
十三回忌にあたることから、義母の十二代目未亡人をはじめ
寄席関係者から薦められて踏み切ったもの。
当時は昭和24年生まれの仙之助氏が最年少ということで、
江戸太神楽の存続が危惧されていたらしい。
今後の課題として、「民俗芸能祭り・演芸祭りを充実させる」、
「5人位を単位とした一座を幾つか編成、水戸さんのように少人数で
各地を巡演できるような活動基盤を作りたい」。
数年前から「わざおぎ塾」「ちろりん」で太神楽の指導にあたって
いる。
第171号(1994)「太神楽・花の三人娘」
翁家喜楽の娘である翁家喜乃、水戸大神楽の柳貴家小菊、柳貴家響子、
が注目を集めている。小菊と響子は従姉妹同士であり、小菊は正楽の娘、
響子は勝蔵の娘。一頭地抜けた小菊というサブタイトルがあり、「3人娘
の中では技芸的にリードした存在だ」、と書かれている。
第179号(1995)「太神楽曲芸の後継者養成」
太神楽曲芸の後継者難解消のため、日本芸術文化振興会では、この年の
9月から二年半がかりで太神楽曲芸の技芸者研修に乗り出した。
研修場所は国立劇場。
平成5年7月、日本演芸家連合と太神楽曲芸協会の連名で、日本芸術文化
振興会へ新人育成の要望書が提出された。
この時点で協会所属の技芸者は25人、昭和54年には43人だったので激減
していることになる。しかも70歳以上の高齢者が5人、最年少は奇術から
曲芸の勉強をしたくて鏡味小仙に師事するマサヒロ水野の昭和35年だが、
太神楽の技芸者としては昭和30年生まれの柳貴家勝蔵が若手筆頭であった。
研修の内容は、投げもの、立てもの、独楽、囃子、獅子舞、長唄など。
投げ物が翁家系、立て物が鏡味系の講師となっているのは、基本は同じだが
流派で教え方の手順が異なるので初心者の混乱を避けるため。
喜楽の体験も書かれており、最初は投げ物、次に立て物、一つ鞠、獅子舞
の順で学び、傘回しはいつの間にかできるようになっていたとのこと。
第189号(1996) 「後継者育成に励む紋也」
三増紋也の弟子が次々と頭角をあらわしているという記事。
娘で後継者に目されている小紋を筆頭に、紋之助、巳也、
奇術の花島世津子、マサヒロ水野も曲独楽をマジックに生かそうと
している。漫才の新鋭笑組の伊藤豊も稽古にうちこんでいる。
紋之助はサラリーマン生活からコントに展示、クロマニヨン・チェンの
名で国立劇場演芸場に出演したことがある。
紋也の弟子たちへの稽古は毎週水曜日に牛込区民センターを借りて稽古
会を開いており、稽古中は先輩後輩の区別をつけずに相互に教えあうよう
にしている。紋也の役割は器用と不器用なものをチェックし、一つの演目を
マスターするのにこれは何ヶ月かかりそうだと見抜くことにあるとのこと。
もっともこの集団練習に参加するためには基本技を身につけねばならない。
紋也指導の手順によると、次の通り。
1.両手廻し:まっすぐ回るようになるまで半年かかる
2.片手廻し:これも半年かかる、最初の1年間は廻すだけで手が豆だらけ
3.刀の刃渡り:刃物が怖いものだということを覚える、これは1年
4.投げ独楽:独楽をいかに美しく見せるかの心得を習得
この間に体の動き、しゃべりを身につけるため、日本舞踊、落語などの稽古が必要。
紋也は従来の独楽の動かし方にも工夫を加え、独楽が下から上がっていく
「花万燈」、キセルを2本使っての「燕返し」など新機軸を拓いた。
扇子の要返しとか、衣紋流し、など年齢が高くなるとやりにくくなる芸があるので
巳也などに教えているところだそうだ。
3年で基礎ができるのならばやってみたいかも思ったのは内緒だ。
曲独楽は物自体が高いので大人の道楽だよねえ。
第197号(1997) 「活気づいてきた太神楽」
昨年11月に第一期太神楽曲芸研修生発表会が行われた。
太神楽曲芸協会が発足したのは昭和12年、大衆芸能の芸人も登録制にして掌握
しようとした警視庁の要請で協会設立の運びとなったもので、「東京遊芸稼人」
の鑑札が交付された。
協会発足当時は、太神楽だけではなく、中国皿回し、玉乗り、自転車曲乗り、
紙霧など多彩な芸人300人が集まった。いまのように太神楽中心になったのは
戦後になってから、商店街がビルに変わり門付けが減り、占領軍の慰安では
獅子舞茶番などより少人数の曲芸が好まれ、形態の変化も余儀なくされた。
また下積みからきびしい修練を必要とする割りに報酬にめぐまれない太神楽の
世界が若者に敬遠された。
国立劇場での太神楽曲芸の研修は適正検査を経て3人が残り、聴講生の仙一、勝丸と
あわせて5人で授業を受けている。
全国各地に継承されている神楽集団を随時招き、競演を通して現在の江戸太神楽
が再び神楽芸の原点(獅子神楽)を探りつつ、活力を取り戻そうとしている。
第212号(1998)「羽ばたく太神楽の若者たち」
研修生一期生4人が無事終了。聴講生として参加していた仙一を除いて、他の3人は
いずれも素人、しかも研修生になるまで太神楽曲芸を一度も見たことがなく、どん
なものか挑戦してみたくなってのこの道入りであった。
応募者は10名、試験には6人が合格、適性検査を経て3人が残った。
2年半にわたった研修科目は、立てもの、投げもの、独楽、獅子舞のほか、囃子、
長唄、日本舞踊、発声、作法、体操、芸能史の講義など多岐にわたった。
立てものは笛の立て方から入り、五階茶碗。投げ物は撥の取り方からさばいかたまで。
独楽は廻し方、糸わたり、風車の順にすすめられた。獅子舞は最後の三ヶ月で
手ほどきをうけた。
当初は、投げ物、獅子舞を翁家系、たてものを鏡味系で担当しようという話が
持ち上がったが、教わる人は白紙だから皆であたろうと協会全体の責任で両派合同の
カリキュラムがつくられた。
一期生の指導にあたった喜楽は「生徒たちが素直で一生懸命にぶつかってくれたの
がよかった。。(略)たてもの、なげものそれぞれにきっちりんと主任講師をおく
必要を感じました」とふり返った。
著者:日本芸術文化振興会発行/国立劇場事業部宣伝課編集
雑誌:国立劇場演芸場(149,171,179,189,197, 212号)
これは国立劇場演芸場の番組内容を書いたパンフレットである。
この中に「寄席芸能の現状」という連載がありそこで1年に一度
太神楽の記事が書かれていた。現時点において連載はない。
パンフそのものが折りたたんだ紙になってしまい連載を書く余地が
なくなったためだと思われる。続いていてくれたらどんなによかったか。。
第149号(1992) 「活気づく水戸大神楽」
菊蔵・小菊父娘コンビと水戸大神楽の紹介が載っている。
徳川御三家の水戸藩の御用を勤めていた誇りとお祓いを中心に
行動しているため、「格調高く重々しさを大切に」と
申し伝えられている。
第159号(1993) 「十三代小仙を襲名する仙寿郎」
鏡味小仙が襲名されるという話題。翌年が12代目小仙の
十三回忌にあたることから、義母の十二代目未亡人をはじめ
寄席関係者から薦められて踏み切ったもの。
当時は昭和24年生まれの仙之助氏が最年少ということで、
江戸太神楽の存続が危惧されていたらしい。
今後の課題として、「民俗芸能祭り・演芸祭りを充実させる」、
「5人位を単位とした一座を幾つか編成、水戸さんのように少人数で
各地を巡演できるような活動基盤を作りたい」。
数年前から「わざおぎ塾」「ちろりん」で太神楽の指導にあたって
いる。
第171号(1994)「太神楽・花の三人娘」
翁家喜楽の娘である翁家喜乃、水戸大神楽の柳貴家小菊、柳貴家響子、
が注目を集めている。小菊と響子は従姉妹同士であり、小菊は正楽の娘、
響子は勝蔵の娘。一頭地抜けた小菊というサブタイトルがあり、「3人娘
の中では技芸的にリードした存在だ」、と書かれている。
第179号(1995)「太神楽曲芸の後継者養成」
太神楽曲芸の後継者難解消のため、日本芸術文化振興会では、この年の
9月から二年半がかりで太神楽曲芸の技芸者研修に乗り出した。
研修場所は国立劇場。
平成5年7月、日本演芸家連合と太神楽曲芸協会の連名で、日本芸術文化
振興会へ新人育成の要望書が提出された。
この時点で協会所属の技芸者は25人、昭和54年には43人だったので激減
していることになる。しかも70歳以上の高齢者が5人、最年少は奇術から
曲芸の勉強をしたくて鏡味小仙に師事するマサヒロ水野の昭和35年だが、
太神楽の技芸者としては昭和30年生まれの柳貴家勝蔵が若手筆頭であった。
研修の内容は、投げもの、立てもの、独楽、囃子、獅子舞、長唄など。
投げ物が翁家系、立て物が鏡味系の講師となっているのは、基本は同じだが
流派で教え方の手順が異なるので初心者の混乱を避けるため。
喜楽の体験も書かれており、最初は投げ物、次に立て物、一つ鞠、獅子舞
の順で学び、傘回しはいつの間にかできるようになっていたとのこと。
第189号(1996) 「後継者育成に励む紋也」
三増紋也の弟子が次々と頭角をあらわしているという記事。
娘で後継者に目されている小紋を筆頭に、紋之助、巳也、
奇術の花島世津子、マサヒロ水野も曲独楽をマジックに生かそうと
している。漫才の新鋭笑組の伊藤豊も稽古にうちこんでいる。
紋之助はサラリーマン生活からコントに展示、クロマニヨン・チェンの
名で国立劇場演芸場に出演したことがある。
紋也の弟子たちへの稽古は毎週水曜日に牛込区民センターを借りて稽古
会を開いており、稽古中は先輩後輩の区別をつけずに相互に教えあうよう
にしている。紋也の役割は器用と不器用なものをチェックし、一つの演目を
マスターするのにこれは何ヶ月かかりそうだと見抜くことにあるとのこと。
もっともこの集団練習に参加するためには基本技を身につけねばならない。
紋也指導の手順によると、次の通り。
1.両手廻し:まっすぐ回るようになるまで半年かかる
2.片手廻し:これも半年かかる、最初の1年間は廻すだけで手が豆だらけ
3.刀の刃渡り:刃物が怖いものだということを覚える、これは1年
4.投げ独楽:独楽をいかに美しく見せるかの心得を習得
この間に体の動き、しゃべりを身につけるため、日本舞踊、落語などの稽古が必要。
紋也は従来の独楽の動かし方にも工夫を加え、独楽が下から上がっていく
「花万燈」、キセルを2本使っての「燕返し」など新機軸を拓いた。
扇子の要返しとか、衣紋流し、など年齢が高くなるとやりにくくなる芸があるので
巳也などに教えているところだそうだ。
3年で基礎ができるのならばやってみたいかも思ったのは内緒だ。
曲独楽は物自体が高いので大人の道楽だよねえ。
第197号(1997) 「活気づいてきた太神楽」
昨年11月に第一期太神楽曲芸研修生発表会が行われた。
太神楽曲芸協会が発足したのは昭和12年、大衆芸能の芸人も登録制にして掌握
しようとした警視庁の要請で協会設立の運びとなったもので、「東京遊芸稼人」
の鑑札が交付された。
協会発足当時は、太神楽だけではなく、中国皿回し、玉乗り、自転車曲乗り、
紙霧など多彩な芸人300人が集まった。いまのように太神楽中心になったのは
戦後になってから、商店街がビルに変わり門付けが減り、占領軍の慰安では
獅子舞茶番などより少人数の曲芸が好まれ、形態の変化も余儀なくされた。
また下積みからきびしい修練を必要とする割りに報酬にめぐまれない太神楽の
世界が若者に敬遠された。
国立劇場での太神楽曲芸の研修は適正検査を経て3人が残り、聴講生の仙一、勝丸と
あわせて5人で授業を受けている。
全国各地に継承されている神楽集団を随時招き、競演を通して現在の江戸太神楽
が再び神楽芸の原点(獅子神楽)を探りつつ、活力を取り戻そうとしている。
第212号(1998)「羽ばたく太神楽の若者たち」
研修生一期生4人が無事終了。聴講生として参加していた仙一を除いて、他の3人は
いずれも素人、しかも研修生になるまで太神楽曲芸を一度も見たことがなく、どん
なものか挑戦してみたくなってのこの道入りであった。
応募者は10名、試験には6人が合格、適性検査を経て3人が残った。
2年半にわたった研修科目は、立てもの、投げもの、独楽、獅子舞のほか、囃子、
長唄、日本舞踊、発声、作法、体操、芸能史の講義など多岐にわたった。
立てものは笛の立て方から入り、五階茶碗。投げ物は撥の取り方からさばいかたまで。
独楽は廻し方、糸わたり、風車の順にすすめられた。獅子舞は最後の三ヶ月で
手ほどきをうけた。
当初は、投げ物、獅子舞を翁家系、たてものを鏡味系で担当しようという話が
持ち上がったが、教わる人は白紙だから皆であたろうと協会全体の責任で両派合同の
カリキュラムがつくられた。
一期生の指導にあたった喜楽は「生徒たちが素直で一生懸命にぶつかってくれたの
がよかった。。(略)たてもの、なげものそれぞれにきっちりんと主任講師をおく
必要を感じました」とふり返った。
題名:伊勢大神楽と大阪の獅子舞-大神楽研究の課題整理-
著者:澤井浩一
雑誌:大阪市立博物館研究紀要 第28冊(1996/3) P.1-10
伊勢大神楽調査の中間報告と、伊勢大神楽から派生した芸能として大阪市内の
夏祭りの獅子舞の報告。
放下芸がどのように大神楽に結ぶついたのかはいまだ不明。
檀那場は各組により旧村単位で明確に分かれている。廃業した組から
檀那場を引き継いだ場合は、廃業した組を名乗って回檀する場合がある。
回檀の途中で獅子舞を教えたこともあったようで、各地に伊勢大神楽の流れ
をくむ獅子舞がある。
講社に属さずに「伊勢大神楽」を名乗って回檀する集団がいる。講社は
「類似名称の使用差し止め」の訴えを起こしたが、結局和解して互いの
営業を妨害しないことで伊勢大神楽の名での営業を認めている。
大阪の夏祭りでは天神講という講社が獅子舞などの芸能を奉納しているが、
伊勢大神楽と同じ馬鹿囃子が用いられている。獅子舞は明治中期、四ツ竹は
昭和三十年代、小さな傘を持って踊る傘踊りは昭和、梵天は戦後に導入。
「舞のぼり」という肩車で獅子頭をふる芸態も存在した。
伊勢大神楽から芸が伝えられたのは天神講が再興された明治期のことである。
天神講に伊勢大神楽の芸を伝えたのは藤井宗太夫で、現在の講社のおやかたたち
とは別系統になる。藤井宗太夫は名跡が廃絶してしまっているが、伊勢大神楽
との関係は続いている。木村利太夫組が天神講に雇われてやってきている。
著者:澤井浩一
雑誌:大阪市立博物館研究紀要 第28冊(1996/3) P.1-10
伊勢大神楽調査の中間報告と、伊勢大神楽から派生した芸能として大阪市内の
夏祭りの獅子舞の報告。
放下芸がどのように大神楽に結ぶついたのかはいまだ不明。
檀那場は各組により旧村単位で明確に分かれている。廃業した組から
檀那場を引き継いだ場合は、廃業した組を名乗って回檀する場合がある。
回檀の途中で獅子舞を教えたこともあったようで、各地に伊勢大神楽の流れ
をくむ獅子舞がある。
講社に属さずに「伊勢大神楽」を名乗って回檀する集団がいる。講社は
「類似名称の使用差し止め」の訴えを起こしたが、結局和解して互いの
営業を妨害しないことで伊勢大神楽の名での営業を認めている。
大阪の夏祭りでは天神講という講社が獅子舞などの芸能を奉納しているが、
伊勢大神楽と同じ馬鹿囃子が用いられている。獅子舞は明治中期、四ツ竹は
昭和三十年代、小さな傘を持って踊る傘踊りは昭和、梵天は戦後に導入。
「舞のぼり」という肩車で獅子頭をふる芸態も存在した。
伊勢大神楽から芸が伝えられたのは天神講が再興された明治期のことである。
天神講に伊勢大神楽の芸を伝えたのは藤井宗太夫で、現在の講社のおやかたたち
とは別系統になる。藤井宗太夫は名跡が廃絶してしまっているが、伊勢大神楽
との関係は続いている。木村利太夫組が天神講に雇われてやってきている。