初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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題名:『歴史/表現/地域 から見るサーカス文化』「サーカス・大道芸の再誕生-作品・背景・制度」
日時:2011年10月6日19:30-21:00
会場:世田谷文化生活情報センター セミナールーム(三軒茶屋駅前キャロットタワー5階)
料金:1000円
座席:後方左より
講師:藤井 慎太郎(早稲田大学文学学術院教授)
解説:
サーカスや大道芸は、1970~80年代のフランスにおいて再誕生ともいえるほどの大きな変化を
経験しました。サーカスや大道芸がそれまでにたどった歴史的な経緯を最初に振り返った後、
実際の作品の映像を見ながら、こうした新しい表現がいかに伝統を継承しつつ過去と断絶した
のか、考えたいと思います。さらに、そうした開花を支えたのは、国や自治体の文化政策の変
化でもありました。フランスではサーカス・大道芸が持続可能なかたちで発展できる環境がこ
の25年ほどの間に整備されたといえますが、その変化を知ることは日本の舞台芸術が直面する
問題を考える上でも役立つはずです。
ーーーー
藤井先生のお話をお聞きするのは二度目。
まずはサーカスの歴史。
古代ローマ(BC364)において15万人ー25万人収容するキルクスマクシムスでローマ祭が
開催される。演劇はその一部として上演された。このキルクスがサーカスの語源。
キリスト教が国教になるとローマ祭禁止
1550頃職業集団によるコンメディアデッラルテが生まれる。軽業芸を多用し道化芸に発展。
中世では路上空間での演劇の催しは入市式、貴族や君主の結婚式等で大がかりな見世物が
行われていた。また、キリスト教の祭日に関連してパレードや演劇の上演が行われるよう
になった。野外空間に仮設で舞台を組んで演劇の上演がなされていた。
サンジェルマン定期市での演劇上演(1763)、フィリップアストリーがロンドンで曲馬芸
の公演(1768)、ロンドンに常設劇場開設(1779)、パリで常設劇場開設(1783)、
アストリー一座は曲馬芸で、当初は空き地で公演、その後常設劇場の中で曲馬芸をみせる
ようになった。
アストリーから出てきたチャールズヒューズがカンパニーを立ち上げて(1782)「サーカス」
という用語を使った。演劇用の劇場をサーカスに流用した。本来の客席をステージに使っていた。
19世紀の前半にはテントを使っていた。19世紀鉄道網が発展してくると、鉄道を使ってテントを
もって移動した。サーカス専用の劇場も作られた。
ジュールレオタールがシルクディヴェールで初めて空中ブランコを編み出した(1859)。
彼の衣装がレオタードの起源。名前を英語読みするとレオタード。
パリをはじめとする大都市では常設の劇場が作られた。シルクディヴェール(1852設立)は
パリに現存している劇場で、サーカスの作品の上演も行われている。
とくにソ連では、「革命後の社会にサーカスがふさわしい。」ということで推進された。
円形劇場はどこに座ってもだれにもよく見えるということで、人民の平等を実現したもので
あるとされ、また内容が誰にでもわかる間口の広さから人民向けである、などから国立の
サーカス学校を作ったり、サーカス場を作ったりしていた(ただし「ボリショイサーカス」
は日本向けにしか存在しない)
ジンガロ常設劇場(1989)は日本にも2回ほど来た。日本だとチケットが高い、しかも
エルメス協賛で贅沢品の感じがするが、欧州だと高くても40EURくらい。
フランスではアートというとエリート層の物だったが、ジンガロはアートと大衆性と
結びつけた。
日本にもものすごいレベルの芸人たちが揃っていた。トーマスエジソンがJapanese Acrobats
という足芸を見せる映像があり、You Tube に載っている(1904)。映画が発明されて
すぐのころに日本人芸人の映像が記録されている。 Les Kiriki, acrobates
japonais(1907) というフランスで作られた映画(特撮こみ)がある。フィリップドゥ
クフレの「Shazam!」( 1998) のフィナーレがKiriki のリメイクになっている。
エヴレイノフ式古宮奪取(1920)はロシア革命の再現で観客10万人。
演出プランも残っている。革命が盛り上がると芸術も革命的な動きが発生する。
それまでにない新しいものを作ろうとする動きが出る
ロワイヤル・ドゥ・リュクスの巨人の神話(1993)、スルタンの象と少女(2005)は
路上空間での展示。人力で人形たちが動く。彼らが作った機械の展覧会が開かれたこと
がある。ピアノを飛ばす機械はアップライトピアノを飛ばして壊すだけ、1日1台壊していた。
水の大砲、大砲で水をどーんと打ち出すが前にいる人がびしょぬれになるだけ。
ワインを注ぐ機械、パンにクリームを塗る機械、等々役にたたないというところを
強調するのが受けていた。
「この「役に立たない」というのはサーカスと大道芸にとって結構重要な特徴ではないか?」
サーカスの芸人とかいうとものすごく体を鍛えていて、ものすごいことができるはず
なのに、すごい体で何もしないとか、ものすごい金を作って機械を作ってなにもでき
ないとか、そういう役に立たないことが重要だと思われる。
最近、路上空間が見直されている。1968にフランスでは5月革命、社会に対する大規模
な異議申し立てがおき、街頭デモが頻発した。フランスが上手だったのは、デモ自体が
ポエティックだったところ。スローガン「敷石の下は砂浜」を掲げて、高速道路を2カ月
通行止めにして砂浜にしてしてバカンスをどうぞ!としてしまった。権力に対してNOと
いうだけではなく、想像力を権力の座に就かせよう!!
5月革命を潜り抜けたひとたちが大道芸に流れ込んできて路上空間をまったく異なる使い
方をするようになった。
フランスが国としてサーカスや大道芸のために出している助成金は、2008年でサーカス
へ1248万ユーロ、大道芸968万ユーロ、あわせて20億円程度。
フランス文化省がサーカスを文化としてとりあげたのは1970年代。それまではサーカス
は農業省の管轄。80年代にサーカスの支援が始まり、国立サーカスセンターが学校と一
緒につくられた。
2001年に文化省がサーカス年として大規模なイベントをあれこれ催して、大道芸の学校
を作ったり、予算を増やした。フランスの国全体でまんべんなくサーカスや大道芸を見
てもらえる環境を作った。サーカス拠点と国立大道芸センターは地方に10か所。
地方拠点でアーティストを拠点に数カ月迎え入れて作品作りをサポートする。共同制作
として必要になる資金の手当てをして、中央だけが潤うのではなく、周りにいる小規模
なカンパニーも支援の恩恵を受けられる仕組みがこの10年くらいで整備されてきた。
メジャーになれば国からの助成金が出る。協定カンパニー(文化省と協定交わして複数
年度助成金もらえる)はサーカス33、大道芸37、持続可能な環境を作りあげている。
サーカスや大道芸はちょっとしたバブル状態。学校を少し多く作りすぎた?
フランスでサーカスは450、大道芸で1000ある。予算を増やしても全てのところ
まで支援の手が届かない。
サーカスや大道芸は演劇・ダンスとケタ違いに補助が少ない。でも日本から見れば羨ま
しい限り。ロワイヤル・ドゥ・リュクスは2007年にナント市助成金が285000ユーロ、
市の文化予算の1/3を占めた。カンパニー予算の18%弱。
ナント市は2011年の新作には80万ユーロ出していた。
最近はサーカスと隣接領域の境界線が曖昧になっている。サーカス出身なのだけれど
サーカスと呼ばないでくれ、などということもある。ジンガロもサーカスからスタート
して馬術演劇を名乗っている。サーカスの外からはいってきたり、逆に外へ出て行ったり
さまざま。
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