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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:サーカス―起源・発展・展望
著者:エヴゲニィ クズネツォフ
出版社:ありな書房 (2006/12)
ISBN-10: 4756606946



P9
サーカスの円形アリーナをマネージュと言い、直径13mである
馬のアクロバットを行うために円形の空間となった。

P12
マネージュにおける鞭は合図として使われる。馬が一定のテンポを
保って正確なリズムで走るために鞭で馬のテンポを制御している

P20
16-17世紀において曲馬が少なかったのはまず経済的事情による。
維持費はかかるし、興行の中断などで耐えられねばならない。
調教師や馬上のアクロバット芸人は少なくとも「資本家」でなくてはならない

P21
18世紀なかばで曲馬が受けた理由の仮説。
産業革命は、下層芸術の需要者だった定期市や市場を衰退させ
そのため広場の見世物が息絶えてしまった。必然的に皆都市に向かって

P139
合戦パントマイムドラマから、本来の意味の演劇にまで変化していった
「悪魔の薬」はレパートリーごたまぜの舞台だった。

P164
若いドイツのサーカスが勝利した理由は、狙いを変えたてんにある。レンツの
サーカスは社会の特権層ではなく、プチブルと都市の市民層に照準を合わせた。
パリで主導権を握っていた観客に比べて社会構成が等質で庶民的な層を念頭においた。

P176
60年代初頭のアメリカの移動サーカスは、当時は田舎しか回っていなかったヨーロッパ
の移動サーカスとは相当に趣を異にしていた。アメリカのサーカスは一大企業であり
規模においては常設サーカスそのものであって地方を巡っていく移動大テントサーカス
という新しい形態をとっていた。

P191
ロシアで普及していた組み立て式のテントサーカスは同業者の間では、アメリカ人を
まねてシャピトーサーカスとよばれていた。米国の場合規格化し、組み立て部品を
建築技術的に正確に作り上げていた。ロシアにシャピトーが発達したのは、貧困と
組織力の弱さが理由になっており、家内工業的な手作りのものであった。

P193
ニキーチン兄弟一座の核をなしていたのはロシアの芸人たちであり、中でもピョートル
ニキーチンが群を抜いていた。彼は曲乗り、馬上のパントマイム、早代わり劇、新形式
の馬上アクロバット、さまざまな道具を使った軽業、床でのジャンプなんでもできた。
ジャグリングと馬上のアクロバットをこなす、ロシア最初のジャグラーのひとり
ミハイル・パシチェンコは当時ニキーチン兄弟のところで芸人としての一歩を踏み出していた。

P202
ジョッキー芸はイギリスで生まれたとされている。中部ヨーロッパで曲馬師のシャルルスレザク
によってはじめて披露されたのは60年代末である。
アクロバットをくみあわせたもので常にジョッキーの服装をしていた。ジョッキー跳びという
独特な曲芸あり。

P207
生活の中で馬がきわめて重要な役割を果たしていた20年代には生活がそのまま寸劇の材料
にもなっていた。馬車駅や馬術学校、駅逓馬車や馬市が生活の身近にあり若いサーカスの
源になっていた。しかし80年代近くにあると、だめになる。馬の調教で再現できるような
現実生活はもはや見出しがたかった。

P218
19世紀末には馬のサーカスは主要レパートリーの地位からサーカスを構成する多くの要素
の中のひとつという地位に落ち、そのさい、高等馬術や馬上のアクロバット、調馬などの
分野における表現は技術面で複雑さを増し、動きをダイナミックにして支配階級の
スポーツ的関心にますます近づけた。

P220
オーギュストは70年代にどこからともなく自然に生まれた。誕生した当初のオーギュスト
は滑稽でのろまなユニフォーム着用者として登場しており、着飾って登場しかっこよく
きびきびとした芸を披露していた芸人たちとは好対照をなしていた。

P227
シャリヴァリー---道化芸の第一段階でもっとも簡単な形式。シャリヴァリは集団でおこなう
演目であり、跳躍の訓練を受けた芸人たちがクラウンやオーギュストの衣装をまとい、本物
のクラウンなどの後に我先にと飛び板から跳躍していくもの。

P228
次の段階はルプリーズであり会話は小芝居。「蝶々取り」というシャンバリエールの先に
蝶の紙を結びつけてそれを捕まえに行くという演技、いつまでたっても蝶はつかまらない。
マイムとアクロバットを活用した」演技では愚図で近眼であることになっていた。


P274
日本人アクロバット芸人
日本人アクロバット芸人とは独立したひとつのジャンルであった。
彼らはいぶし銀の龍を刺繍した紺青色の裃を着てマネージュに登場するのを常としており、
細かな花模様がついた紺青色の布を絨毯の上に敷いて演技をする。
うやうやしくお辞儀をすると、裃をぱっと脱ぎ捨て、絹の胴着と膝までの袴といったいでたち
になる。民族色豊かな離れ業の最初は、垂直に張った綱をよじ登るものである。日本人は
ヨーロッパ人のように手で登るのではなく、手と足の両方を使って登る。よく発達した
足の指と足袋を利用して、手足双方で綱につかまり、垂直の綱をかなりの高さにまで
猿のように登っていく。
離れ業の第二は、45度という急勾配で張った針金を登り、上端でバランスをとったあと
後ろ向きで猛然と滑り降り、観客の度肝を抜く
第三は下役が支えたしなやかな竹ざおの上でのバランス芸と吊り下げられた短い竹の上で
3,4人が演じるバランス芸である。
第四は足芸である。力強さやダイナミズムを売りものとしたこのジャンルでもヨーロッパ人
とは異なり、日本人アクロバットはもっぱらバランス芸の繊細さやきわどいバランス、手の込んだ
衒いを狙っていた。

P284
ジャグラー
ジャグリングもいまや転換期を迎えていた。厩舎との結びつきから離れ、隣接するアクロバット
的ジャンルからも分かれ「かけもち」を拒もうとしていた。そしてもっぱら自らの分野にのみ
狭く専門化し、形式面をすっかり刷新し、技術面の著しいレベルアップを図っていた。
小道具や、小道具に規定された特徴しだいで、ジャグラーは、バランス系ジャグラー、
強力ジャグラー、クラフトジャグラー、サロンジャグラーへと分化していく。

P288
サーカスから若き軽演劇がとりこんだものの第一はスポーツアクロバットである。
この場合は日本人アクロバット芸人からジョングルールにいたるまで全てのだしものを
マネージュから舞台へ容易に移すことができた

P291
サロンジャグラーは頭の先から踵まで、サロンやレストラン風の小道具から容姿にいたるまで、
全ての点で典型的であり、徹底していた、彼は上流社会のダンディな道楽者を表しており、
燕尾服姿でエレガントに登場する。彼をアシストするのはナイトガウンを着て、この演技に
巧みに加わることになる粋な女性化、ひどく軽薄だが魅惑的に肌を露出した女性である。
脇の下にナプキンをはさんだ召使や馬丁あるいは女性帽子店やレストランのボーイも手伝う。
彼はレストランか酒場らしき舞台装置で演技し、ブルジョアの観客にとってはおなじみの
日用品ーシルクハット、ステッキ、傘、葉巻タバコ、時計、昼食の献立表、シャンパンの瓶、
フルーツとナイフ、サラダボール、皿、ビリヤードのキューと玉、を使い、時にマーチや
タンゴ、フォックストロットなどにあわせて曲芸をする。
アンリ・アグスト、カラ、ウィリー・パンツァーとその仲間たち、そしてペレツ・アンサンブル
は1880年代から1900年代にかけての代表的なサロンジャグラーである。
アンリ・アグストはレストランーサロン風の軽業の発案者であり、自作の「定食」や「パリの
レストランの一場面」を売り物にしていた。軽演劇舞台を考えて構成されたこれらのだしもの
ではアグストが、レストランらしき舞台装置に、一杯機嫌の初老の道楽者姿で、娼婦の手を
とって登場する。客をみつけてよろこんだ給仕と給仕長は食事の用意を始めるが、食卓の
品物を使ってジャグリングを行う。皿や果物、コップやナイフはテーブルに出される代わりに
投げ上げられ、放物線を描いてテーブル上に落ちる。年老いた道楽者とその陽気な連れは
次第に給仕と給仕長のしていることに誘い込まれていく。レストランの小部屋全体に物が
飛び交う中で、年老いたいたずらものは疲れも見せず、隙を狙って糊のついた白いテーブルクロス
を食卓からすばやくはぎとろうとする。給仕たち全員がそうはさせじとテーブルめがけて
突進するが、客はみごとにテーブルクロスをはぎとり、食卓の品はかすかに動いただけで
そのままテーブル上に残る。
ウィリー・パンツァーとパートナーたちは、アグストのだしものを「レストランの調理場
の一場面」へとつくりなおした。また第一次大戦前の時期には他にぬきんでていたペレツ
一座はこれと同じ性格の出し物「レストラン<マクシム>での晩餐」によって名を馳せた。

P292
テニスジャグラーとインディアンクラブジャグラーは前世紀末のもっとも典型的な
スポーツジャグラーである。前者はテニス用の服装をし、ラケットとボールを手にして
グラウンドにいるかのように芸を披露した。それにたいして後者は色とりどりの金属板
で装飾されたインディアンクラブを使ってジャグリングをおこなった。

P356
公証契約
1870年代に登場した契約書には雇用側にはあらゆる権利を与えるのにたいし、芸人たちには
あらゆる義務を課し、権利は一切あたえないというものであった。


P366
芸人の国際的連帯を実現したのは「国際芸人センター」 Internationale Artisten-Loge
である。略称IAL,1901年にベルリンで組織。ここを拠点として自分たちの権利獲得のために
戦うことができた

P388
サーカスと軽演劇の混成
だしものは「パントマイムイントロダクション」と呼ばれる独特なマイム演技で始まるように
なった。演技者が自然にフットライトの前に飛び出し無理なく曲芸にうつるのを助けるもので
あった。
パントマイムはだしものの曲芸的部分に常に伴うようになり、10-12分マネージュにでる芸人
が5-6分を本芸にあて、同じほどの時間をパントマイム的場面に、つまり長いポーズを駆使
しなあら演劇的に展開される演技にあてることもまれではなかった。技術的にはとりたてて
言うほどのこともない一般的なだしものが評判をとり、そのために時にはうまく舞台化
され演じられることもあったパントマイムが核となり、曲芸は添えものとなっていった。

P403
第一次大戦まえの最先端のスポーツ器具だった空中駒を使ったジャグラー

P439
レスリング
グレコローマンレスリング選手権もだしものとなっていた

P474
ジャグリングの分野では、やや意外なことにジャグラーの術をその純粋な古典的形式に
戻したエンリコラステリの登場と活躍もあってか、ちょうど逆の傾向が優勢である。
ブルジョア的環境の中で活躍し、日常生活品をもとにしたかさばる小道具を使っていた
近代のジャグラーたちに対抗して、エンリコラステリはジャグラーのバランス芸的技能
を重視し、主に短い棒とゴム鞠を使った。小道具もその使い方も日本の芸人から借用
したものであったが、ラステリはそれにかなり手をくわえて大成功をおさめた


P475
もうひとつのながれはテーマ上の動機付けと客席のさくらの助手や多彩な音の組み合わせ
といった豊かな演技形式に頼る、エクサントリックジャグリングの方向に進んだ。
リッチ・ハイエズ、(1924年から25年にソ連の国立サーカスに客演した)キング・レップ、
それに(1925年から26年にソ連の国立サーカスに客演した)マック・タークがこの流派
の代表に数えられる。

P513
第一にサーカスとは、イデオロギー的実践のうちの特殊な一形態である芸術の中の一部門
である。第二にサーカスの演技は決して「下層の庶民的な」芸術ではなく、支配階級の
イデオロギーを独自の手段で具体化してきた芸術である。第三にサーカスとは十分に自立性
をもった芸術の一部門であって、独自の特徴をもっており演劇の派生物ではない。
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