初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:中近世放浪芸の系譜
著者:渡辺昭五
出版社: 岩田書院 (2000/2)
ISBN-10: 4872941616
内容:(「MARC」データベースより)
中世の文化の源泉となり、その環境を醸し出したり、文化の傍流として取り残され、
記録に残ることの少なかった放浪芸。社会の最底辺層にあって多くの民衆の眼を慰め
娯しませた娯楽文化としての放浪芸について述べる。
目次:
第1章 平安期の散楽と解頤劇
(天鈿女命の狂態/散楽の渡来と沿革/三代実録以降の相撲節会と散楽/
11世紀以降の相撲節会と散楽/烏滸と滑稽解頤劇)
第1章補 中世放浪芸の母胎
第2章 永長大田楽から田楽法師原へ
(初期田楽の性格/猿楽法師登場/他)
第3章 七道者の性格
(白拍子・歩き巫女・鉦叩き/乞食/猿飼/中世の都市流浪民)
第4章 絵解き大道芸と売春・鉦叩き・人形遣い
(絵解き法師/熊野比丘尼/他)
第5章 語り物芸人の系譜
(安居院唱導僧/当道座の流れ/物語僧と琵琶法師/太平記と時衆の聖たち)
第6章 太平記語り手と中世禅律衆
(怪力僧本性房/禅律僧と敗残兵/律僧文観/他)
第7章 歩き巫女の拡散と芸能化
(梁塵秘抄の巫女/中世の梓巫女/他)
第8章 中近世期の門付芸
(鹿島の事触れ:西鶴・近松の用例、弥勒踊、他/風神払と感冒/放下僧の大道芸)
第9章 弘法大師を騙った偽僧たち-高野聖
第10章 声聞師と万歳
(語源/下級陰陽師への変質/千秋万歳/声聞師と一向一揆/他)
第11章 芸能と芸能者-むすびに代えて
付 章 掛幅絵伝史-宗僧掛幅絵伝絵解き史の緒論
興味を持って読んだのは、一章の平安時代の散楽と八章の中近世期の角付芸。
--
散楽の発生は人類が文明を持った時、、敦煌莫高窟の壁画にも軽業・曲芸の図がある。
「周書」には<散楽雑戯>の語が見られる。源流は安息(イラン・ペルシャ)とか
ビルマとかいわれる。
日本渡来は明確にできないが「続日本記」巻12の天平7年(735年)
5月庚申に、聖武<天皇、北松林ニ御シテ、騎射を覧ジ給フ、入唐の廻使及唐人唐国新羅ノ楽
ヲ奏シ、槍を挊ブ>とある条から推察して、8世紀前半だったと推される。挊槍は弄槍で2-3人
で槍をぶんぶん振り回したり、投げ上げたり、額や鼻の上に立てるような曲芸であったと思われる。
--
日本に最初にはいってきたのはスタッフ技だったのかも。
散楽戸の廃止は次の一文、延暦元年(782)秋7月壬辰(11日)に「続日本紀」巻37に、
壬辰。勅解却雑色長上五十四人。廃餅戸。散楽戸。
なんかついでに廃止します!といってる感じ?
散楽の次の猿楽が最初に文書に登場するのが、康保2年(965年)の村上天皇の時、
<召猿楽御覧之>
この章には昔の曲芸の絵からの技の解き明かしが書かれている。その中でちょっと気になった
記述がひとつ。
--
図が誇張されているのは「弄剣」の長刀の数の多さでも同様である。短刀ならともかく
1本を額の上に立てての5本の回転は人力では無理であろう
--
絵では2本を頭の上に載せて5本のシャワーになっているのだけれど、2本はともかく
1本を額にたてて5本のカスケードは可能なんじゃないの?
相撲節では宴会で演奏とか曲芸も同時に行われていたらしく、「兵範記」に保元3年(1158)
6月29日の相撲節では、輪古、荒輪鼓、弄環、高足、二足が曲芸らしきものとして
載っている。環古は輪鼓のこと、高足・二足は竹馬状の棒に乗って演じる曲芸、
弄環はリングジャグリングなのかチャイニーズリングなのか、その以外なのかは不明。
また品玉の解説中に9ボールの記述がある。十巻本「和名抄」に
「世間云多末斗利也。八在空中一在手中、」
品玉解説には刀のパッシングも載っている。「発心集」巻8には、
---
刀玉と云ひて、危きわざする者あり。それを見れば各々、刀六つを三人してとる。
宗と上手なる者をば中に立てて、前に向かへたる者一人、後ろのかたに一人、
各々刀三つを持ちて前後我をとらじと早く投げかくるを、中にて前より投ぐるを
後ろへ投げやり、後ろより投ぐるを前ざまにあげやる。
---
これは二人で6本のパッシングの間にひとりが挟まって受け渡しするパターンではないだろうか
さすがに刀でやるとかなり怖い気がする。
品玉で用いるアイテムの種類としては、綾巻絹、豆、鈴、小鞠、鎌、磁器、菅笠、脇差、
などが載っている。
江戸期の見世物としては弄枕が載っている。木枕を投げたり重ねたりする曲芸をさすが、
お椀のお手玉をさすこともあったそうだ。
大神楽への言及は8章の481-482ページ。
--
<伊勢神楽の勧進禰宣>は伊勢のお祓いと称して、伊勢・尾張から出た獅子舞が、中世
中期以降に、放下僧などの小切子などの曲芸・歌舞や手品などの芸能を交えた見世物芸・
大道芸になったものでそれらの門付けで生計の手段とした。本条では獅子舞だけの門付け
かもしれぬ。これらのお祓いを大神楽と呼んだが、大神楽は伊勢参りの代参の意味の
代神楽からきているとする語源説もある。いずれも烏帽子・素襖の神官の扮装で帰国した
のであるが、散所陰陽師などの賤民が多かったらしい。
--
永世15年(1518)の「閑吟集」の311首の歌謡の中に「放下歌」と肩書きに記したものが
3首ある。テンポがよくこれを囃して演じていたかもしれない。
著者:渡辺昭五
出版社: 岩田書院 (2000/2)
ISBN-10: 4872941616
内容:(「MARC」データベースより)
中世の文化の源泉となり、その環境を醸し出したり、文化の傍流として取り残され、
記録に残ることの少なかった放浪芸。社会の最底辺層にあって多くの民衆の眼を慰め
娯しませた娯楽文化としての放浪芸について述べる。
目次:
第1章 平安期の散楽と解頤劇
(天鈿女命の狂態/散楽の渡来と沿革/三代実録以降の相撲節会と散楽/
11世紀以降の相撲節会と散楽/烏滸と滑稽解頤劇)
第1章補 中世放浪芸の母胎
第2章 永長大田楽から田楽法師原へ
(初期田楽の性格/猿楽法師登場/他)
第3章 七道者の性格
(白拍子・歩き巫女・鉦叩き/乞食/猿飼/中世の都市流浪民)
第4章 絵解き大道芸と売春・鉦叩き・人形遣い
(絵解き法師/熊野比丘尼/他)
第5章 語り物芸人の系譜
(安居院唱導僧/当道座の流れ/物語僧と琵琶法師/太平記と時衆の聖たち)
第6章 太平記語り手と中世禅律衆
(怪力僧本性房/禅律僧と敗残兵/律僧文観/他)
第7章 歩き巫女の拡散と芸能化
(梁塵秘抄の巫女/中世の梓巫女/他)
第8章 中近世期の門付芸
(鹿島の事触れ:西鶴・近松の用例、弥勒踊、他/風神払と感冒/放下僧の大道芸)
第9章 弘法大師を騙った偽僧たち-高野聖
第10章 声聞師と万歳
(語源/下級陰陽師への変質/千秋万歳/声聞師と一向一揆/他)
第11章 芸能と芸能者-むすびに代えて
付 章 掛幅絵伝史-宗僧掛幅絵伝絵解き史の緒論
興味を持って読んだのは、一章の平安時代の散楽と八章の中近世期の角付芸。
--
散楽の発生は人類が文明を持った時、、敦煌莫高窟の壁画にも軽業・曲芸の図がある。
「周書」には<散楽雑戯>の語が見られる。源流は安息(イラン・ペルシャ)とか
ビルマとかいわれる。
日本渡来は明確にできないが「続日本記」巻12の天平7年(735年)
5月庚申に、聖武<天皇、北松林ニ御シテ、騎射を覧ジ給フ、入唐の廻使及唐人唐国新羅ノ楽
ヲ奏シ、槍を挊ブ>とある条から推察して、8世紀前半だったと推される。挊槍は弄槍で2-3人
で槍をぶんぶん振り回したり、投げ上げたり、額や鼻の上に立てるような曲芸であったと思われる。
--
日本に最初にはいってきたのはスタッフ技だったのかも。
散楽戸の廃止は次の一文、延暦元年(782)秋7月壬辰(11日)に「続日本紀」巻37に、
壬辰。勅解却雑色長上五十四人。廃餅戸。散楽戸。
なんかついでに廃止します!といってる感じ?
散楽の次の猿楽が最初に文書に登場するのが、康保2年(965年)の村上天皇の時、
<召猿楽御覧之>
この章には昔の曲芸の絵からの技の解き明かしが書かれている。その中でちょっと気になった
記述がひとつ。
--
図が誇張されているのは「弄剣」の長刀の数の多さでも同様である。短刀ならともかく
1本を額の上に立てての5本の回転は人力では無理であろう
--
絵では2本を頭の上に載せて5本のシャワーになっているのだけれど、2本はともかく
1本を額にたてて5本のカスケードは可能なんじゃないの?
相撲節では宴会で演奏とか曲芸も同時に行われていたらしく、「兵範記」に保元3年(1158)
6月29日の相撲節では、輪古、荒輪鼓、弄環、高足、二足が曲芸らしきものとして
載っている。環古は輪鼓のこと、高足・二足は竹馬状の棒に乗って演じる曲芸、
弄環はリングジャグリングなのかチャイニーズリングなのか、その以外なのかは不明。
また品玉の解説中に9ボールの記述がある。十巻本「和名抄」に
「世間云多末斗利也。八在空中一在手中、」
品玉解説には刀のパッシングも載っている。「発心集」巻8には、
---
刀玉と云ひて、危きわざする者あり。それを見れば各々、刀六つを三人してとる。
宗と上手なる者をば中に立てて、前に向かへたる者一人、後ろのかたに一人、
各々刀三つを持ちて前後我をとらじと早く投げかくるを、中にて前より投ぐるを
後ろへ投げやり、後ろより投ぐるを前ざまにあげやる。
---
これは二人で6本のパッシングの間にひとりが挟まって受け渡しするパターンではないだろうか
さすがに刀でやるとかなり怖い気がする。
品玉で用いるアイテムの種類としては、綾巻絹、豆、鈴、小鞠、鎌、磁器、菅笠、脇差、
などが載っている。
江戸期の見世物としては弄枕が載っている。木枕を投げたり重ねたりする曲芸をさすが、
お椀のお手玉をさすこともあったそうだ。
大神楽への言及は8章の481-482ページ。
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<伊勢神楽の勧進禰宣>は伊勢のお祓いと称して、伊勢・尾張から出た獅子舞が、中世
中期以降に、放下僧などの小切子などの曲芸・歌舞や手品などの芸能を交えた見世物芸・
大道芸になったものでそれらの門付けで生計の手段とした。本条では獅子舞だけの門付け
かもしれぬ。これらのお祓いを大神楽と呼んだが、大神楽は伊勢参りの代参の意味の
代神楽からきているとする語源説もある。いずれも烏帽子・素襖の神官の扮装で帰国した
のであるが、散所陰陽師などの賤民が多かったらしい。
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永世15年(1518)の「閑吟集」の311首の歌謡の中に「放下歌」と肩書きに記したものが
3首ある。テンポがよくこれを囃して演じていたかもしれない。
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