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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:課題としての民俗芸能研究
著者:民俗芸能研究の会 第一民俗芸能学会
出版社: ひつじ書房 (1994/01)
ISBN-10: 493866920X

従来の「『民俗芸能』研究」が、「始原」「古風」「伝統」「素朴」
というイデオロギーに囚われているのに対して、反旗を翻した学会の
論文集。「第一民俗芸能学会」は活動期間をあらかじめ、1991年から
2年間に限定していた。

★早川孝太郎「花祭」の方法 -民俗芸能誌の記述をめぐって-
上野誠

早川が求めたものは花祭の構造。地域の花祭全体を一旦総合化した上で
記述しようとしているため、共通点を見出した花祭像を描かれている。
構造を抽出する段階で恣意性がはいっている?
民俗芸能の上演の場において演者と観客の関係も追及しようとしている。

★本田安次の方法と思想
松尾恒一

「民俗芸能」という言葉ができたのは昭和25年。本田は研究ばかりでなく
保存育成にも尽くした。民俗芸能の重要文化財への指定、「全国郷土芸能大会」
の企画などにも携わった。
「期待される延年像」:延年とは中世寺院において僧侶等によって行われた芸能の会
であるが、一般的に法会の後宴としての芸能、余興としての認識が多い。
しかしこのような牧歌的な認識は本田によって観念的に創られてしまったもので
神祭ー直会ー宴会(芸能)という民俗学上の定式から類推したものと見られる。
歴史上の延年発生は示威行動などもっと政治的な動機をたぶんに含んだものであった。
「芸能」という言葉も昭和35年あたりでまだ定義が揺れていた。
また「民俗芸能」というものは数百年前のものであっても改変がほとんどなされて
いないという仮定が前提としてある。その信念の元に<民俗学的比較>の方法、
すなわち重出立証法により芸能の古い姿ー祖形ーを復元できるとした。
つまり共通性を抽出することに力点がおかれ、他のさまざまな問題、たとえば
伝承者、差別、身体障害、性、観客などの問題が取り上げられなかった。
本田にとって民俗芸能は、伝承地域の文化として以上に、<日本>の文化として
意味をなすものであった。「日本の情操」の育成基盤として民俗芸能を評価していた。
古くは平安の王朝より江戸幕府まで風俗擾乱の名目で芸能に対する取締りを行わなかった
体制はなく、明治政府もこの例外ではなかった。特に取締りの対象とされたのは盆踊り。
芸能への<外国への目>に対する意識が問題であった。これが明治終りから大正に
かけて一転する。「全国郷土舞踊と民謡大会」など祭の場から切り離されて独立した
芸術として鑑賞の対象となった。
昭和12年、文部省の「国体の本義」の発布で、以後のファシズム体制下の教育政策の
基本理念となったものであるが、教導の手段として民俗芸能や伝承行事を積極的に
活用しようとした。「国体の本義」の政策は、明治維新の歳には無視し排斥した風俗・習慣
を準戦時体制下に全面的に導入し、体制を頂点とする秩序の中に編成し皇国精神に則った
国民性としたものといえる。
本田の民俗芸能観は、このように国家が作り上げた民俗芸能像と重なるものである。

★芸術と芸能と呪術と
新井恒易

「民俗芸術」は柳田国男、「民俗芸能」は折口信夫、「民芸(民衆芸術)」は柳宗悦が使い始めた。
民俗研究者と民芸研究者は共に民衆芸術の研究を課題にするが、価値観と認識観に違いがあった。
「芸能」の意味は時代によって異なっている。奈良時代は学問・学術の技能の意味に使われた。
呪術の芸術への転移の反面、芸術の呪術への応用の道もあった。

★儀礼とその釈義ー形式的行動と解釈の生成
福島真人

非言語的行為である儀礼を言語学的に解釈するというのがいったいどういう問題を含んでいるのか
ということに関する概括的な探求。儀礼は E. Durkheim によると、「儀礼はその個人と彼が所属
する社会の関係を強化する」このような機能論的発想の問題点は観察者による儀礼の機能の決定が
アトランダムになる点。A.R. Radcliff-Brown は、事例調査、儀礼と結びついている神話の調査と
意味の理解、宇宙哲学の提示と儀礼の意味の解明、という手順で行くと言っているが、こっそりと
儀礼→神話の置き換えを行っている。C.Levi-Strauss が神話の構造分析手法で儀礼をも分析した。
しかしそれは研究者によって整ってしまったいわば神話化した儀礼しか分析しなかったと言える。
民族誌学者が現地の人々に現象の説明を求めても「我々の先祖はことの訳を知っていたが、我々は
それを忘れてしまった」等という答えが返ってくる。先祖の時代にはわかっていたのか?実は
儀礼の存立基盤はその意味論的な背景ではなく、創始者がすでにその形式に従っていたという事実
にしか存在しない、ということをW.Burkert は言っている。Levi-Strauss は儀礼は、災害などの
危険を排除し、連続性=秩序性を維持しようとする思考の働きである、という。こうなるとどんな
意味づけでも可能になる。D.Sperberは計算主義的認知科学の発想を導入して、象徴現象は記号で
なく、象徴現象は解釈とあわせてコードの構造をなさない、象徴現象の解釈は意味作用ではなく、
象徴的知識を呼び起こす認知的装置の働きとみなすことができるという。これにより儀礼の行為
と儀礼の釈義が完全に分離されたことになる。
E. Ahen によると儀礼が持つ規則を統制的規則(regulative rule), 構成的規則(constitutive rule)
に分割する。統制的規則は「もしxxならYYせよ」という命令形。構成的規則は「XXはYYと
みなされる」という形態。儀礼的行為はこの両面を持っている。
儀礼において用いられる諸要素は象徴的知識を喚起する高いポテンシャル(喚起ポテンシャル)を
持っている。実際の儀礼は喚起ポテンシャルを持つ装置が時間軸にそって配列されたものである。
儀礼はその構成要素が持つポテンシャルとしての性格、ゼロ=形式的な無意味行為、無限大=象徴の
森・メッセージ、の両極の間の中間的な性質を持つことになる。儀礼は形式上の安定性と解釈上の
不安定性という性質を持つ。儀礼研究のパラドックスは儀礼がその構成要素として民俗知識を喚起
するポテンシャルを持った諸事物を配列しているのに、その執行自体の公準が、慣習的行為として
の細則の遵守というレベルにしか存在しないことにある。儀礼の解釈学が問題になるのは、儀礼的
行為が無反省的な場から引き出されて意味論的闘争の舞台に引き上げられた場合に限る。
観客の存在、政治化、観光化、重要文化財化によって儀礼は様々な釈義をばらまくことになる。


★芸能の解釈学をめざしてー「遠山伝説」と葛藤する解釈ー
小林康正

多義的な芸能の中から都合のよい解釈のみを抽出して構造化してしまう可能性がある。
物語は発話者の立場によってそれを補強するように変えられるという面もある。
芸能がなにものか?とうことよりも人々がいかなる解釈を施しているかを問うべきだ。

★人はどうして「踊りおどり」になるのか -早池峰神楽を題材として
西郷由布子

芸能伝承のプロセスに注目すること、それを支える文化的仕掛けに注目することが大切。
Albert B Lord, the Singer of Tales, Harvard University Press, 1960 pp vii-viii
によると、叙事詩の語り手は伝統の保持者であると共に作者である。詩人は歌いながら
即興で詩を作っている。即興を可能にするのは記憶力ではなく、決まり文句とテーマである。
日本の説教師について、山本吉左右は同様の見解を示している。また舞においても
「手ごと」という決まり文句に対応するものがあり、非常に多くのバリエーションを個々に
記憶しておく必要がない。

★眼にはさやかに見えねどもーあるいはどうして民俗学から「芸」がなくなったのか、についてー
大月隆寛

民俗学者はとにかく「見る」ことさえすればよいと思っているらしい。その見る側の資質なり
内実はどうでもいい。日本の民俗学が大正からやってきたことは生活の中に神を見出そう、
ということではないか。神が降りるはずの場においては、芸や技術を担う「個」はどうでも
良いということになる。そして「神」なり「民俗」なり見えないものを予定調和的に発見し続ける。

★語りの場と生成するテクスト -九州の座頭琵琶を中心にー
兵頭裕己

語り物の場合、語りからフシをつけずに文句だけを聞きだすのはまず不可能。
同業者同士の外題の習得は基本的に交換の原則で行われ、金品を積むこともある。
門付けのみの場合は固定したテキスト、座敷で語ったり夜を徹して語る場合は定型句
をベースに粗筋は一定(ただし枝葉末節は語るたびに異なる)というパターンをとる。

★近代浅草の芸能空間
松田直行

浅草六区の特徴はそれが「興行」であったということ。浅草オペラは、帝劇オペラの
キャストが激安料金で見れた、のと西洋音楽を使った大衆的な音楽劇を上演しようという
期を同じくするいくつかの動きに支えられて成立した。一般大衆を顧客としてとらえて
量産品を提供するという形。浅草の観客は学生と労働者、いまのアイドル歌手に群がる
ファンと似ている。浅草オペラは土着資本であった根岸興行部が独占したため、競争が
おきなくなり滅亡。浅草オペラをはやらせたきっかけを作った伊庭孝と高木徳子の
歌舞劇協会について、なぜ新劇の演出家だった伊庭が突然「アメリカ式のミュージカル
コメディ」を作ろうなどと思い立ったかというと、「徳子が九州でなくなるまで、男女
として一番近い関係になったのが伊庭だから」という身もフタもない事実であったりする。

★民俗芸能大会というもの -演じる人々・観る人々ー
笹原亮二

大会に出る前に入念な練習と受けるための趣向が入る場合が多く、観客に拍手を受ける
ことが非常に大きな喜びとなる。それが本来の芸能の場へもフィードバックされる。
また新しく自分たちで創作した芸能の民俗芸能大会への出演が増加しているという。
自ら演じる場となっている。また子供たちを出演させる場合、観客は我が子の晴れ姿を
みようという親ばかりで「民俗芸能」が演じられているという意識はすくない。
冠大会の場合、出演者が燃えることが、冠の目的に利用されてしまう恐れがある。

★芸能をもてあます村々
三隅治雄

過疎化の中で伝承者を探すのは困難。若者たちが燃える芸能でないと伝承されない。
比較的若者を多く見かけるのは獅子舞。獅子舞が流行したのは実は明治後期から大正。
その前の人形芝居はほとんどほろんでしまった。獅子舞の後の流行がないので生き残って
いる。芸能の火付け人がひとりいるかどうかで、事情は大きくかわっていく。

★ストリップについてお話させていただきます
橋本裕之

ストリップがもつ芸能としての豊かさを捉えようとしてきた。踊り子によって
異なるが、きれいに見せたいという意識をもっている子もいる。そこには
あきらかに芸人としての意識が宿っている。
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