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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:民俗芸能研究という神話
著者:橋本 裕之
出版社: 森話社 (2006/05)
ISBN-10: 4916087658
内容(「MARC」データベースより):
始源・古風・伝統・素朴などのイデオロギーがたたみこまれている「民俗芸能」の
現在をいかに調査し、記述すべきなのか。変貌する対象を前に、民俗芸能研究の
方法を問い直し、脱・神話化する試み。

観点が面白い。民俗芸能を調べる際には一つの観点としておさえておく
必要があるだろう。「民俗」と「芸能」のかかわりあいを俯瞰している。

そもそも「民俗芸能」とは何か?から問い直している。
「民俗芸能」とは「始原」「古風」「伝統」「素朴」といったイデオロギーを
内包したものであったらしい。だが現在の「民俗芸能」は近代化の過程を
含む社会的構造変動にさらされてこれらのイデオロギーから乖離してしまっている。
お祭り法(注1)によってますます変貌を遂げている。
「民俗芸能」の定義の試みはいくつも行われているが、どれも明快さを欠いている。
「民俗芸能」という言葉は戦後に使われはじめ、それ以前は「郷土芸能」
「郷土舞踊」などと呼ばれていた。
定義が曖昧な「民俗芸能」ではあるが、ストリップ、サーカス、見世物、大衆演劇、
浪曲、河内音頭、女相撲などは「民俗芸能」に含まれたことがないようだ。
各種資料でも性にまつわるものは採取されていない。
明治30年代から始まった農村から都市への人口流出により東京に生活する人々が、
郷土を懐かしむために「民俗芸能」に関するニーズを作り出した。
また鉄道網の発達により、旅が容易に行えるようになり、また郵便網の発達に
より雑誌が日本中に送られるようになった。
「ここではないどこかは、旅人の視線に補足されたとき、はじめて「見られるもの」
 として対象化されて、「郷土」と呼ばれることになる。それとともに「郷土」に
 伝承されていた「民俗芸能」(のようなもの)が、はじめて「民俗芸能」として
 分節/産出される。「郷土」と不可分に結び合って伝承されている、と幻想される
 「民俗芸能」の誕生」
郷土を美化してしまっているのではないか。現実が変化しているにも関わらず、
従来芸能の固定した維持を住民に強要している場合がある。また、
「日本人固有の」「日本人らしい」身体のありかた/音楽感覚というのが本当に
あるのか?稲作農耕民としてのアイデンティティを失ってしまった今日の我々が、
稲作農耕民的リズム感を保持しているとみなすことはどう考えても難しいと
筆者は考えている。
民俗芸能の現地で解体の過程を通じて新しい芸能を作り上げていくというのはあり?
過去200年を考察の対象として、「伝統」と称されてきた事象の多くが、実は古い歴史
を持たず、新たに発明/創出されたものだという議論の紹介もある(注2)。
筆者は「ストリップ」も民俗芸能ではないかと提起している。
芸能とは「身体技術に媒介されるコミュニケーションのある特殊なスタイル」である
という見方もあるが、「カラオケ」など「自分でする芸能」というべきものの出現で
それも定義になりにくい。

「一方で村おこしのための効果的なメディアとして積極的に動員される現実があり、
 他方ではそのような実践につんのめってゆくことで安心立命を図る民俗芸能研究者
 があとをたたない。。(略)はなはだしきは調査じたいが村おこしの一環として位
置づけられてしまうばあいもあると聞く。調査という行為じたいが役に立つ情報と
して過不足なく消費されることでしか成立しない状況は、もはや絵空事でも何でも
なく、われわれが直面する現実なのである。」(174ページ)
「民俗信仰は、信仰を第一の拠り所に伝承されるというが、しかしそれはあくまで芸
能が生活の中に食い入る一過程であって、究極には芸能を芸能として享受する美の
情熱が芸能の生気ある展開を可能にする。」(195ページ)
「一般に民俗芸能はもともと地方に育った芸能が今日に伝承されているかの如き錯覚
がある点である。確かにその伝承地独自の味付けがなされ、工夫がこらされる場合
が多いのだが、その本来の基本となる芸能がその土地で育つことはめったにない。」
(206ページ)

いろいろ痛そうなことが書かれている。「地域」よりも「情熱に燃える者」の方が、
より重要なのかもしれない。
「芸能」すなわち「民俗」とはならない、という立場を持つ者も多いらしい。家元が
いたり、伝承者がきっちりきまっているものは「民俗」ではないとのこと。演芸や見
せ物はこの中にはいる可能性がある。筆者はこの立場に批判的だが、これって「歴史
的記録がなければ、「民俗」」などという野暮な定義に陥りませんかね?

「芸能の発端は”燃える”ことであった。日常平坦な生活を繰り返している間は、いっ
 こうに表情を示さない無味な人間が、ある時、ある一瞬の強烈な刺激に燃えてその
 魂をわななかせ、目を、頬を、口を、手を、足をかつてない見ないような輝かしい
 ものにする。」(289ページ)

まさに芸能とはそういうものだと思う。これこそ信仰と芸能が交差するところでは
ないか。
この本を読んで思ったことなどは次の通り。

・「民俗芸能」に関して人と話す場合、まずその定義を互いにはっきりさせる必要がある
・「伝統」は作り出すことが可能だ。
・都会で受けるためにはどこかの地を郷土として売り込む方が良い。
・民俗芸能研究者に調べてもらうためには信仰絡みが望ましい。
・世間にあわせて変化し、改善を行うところに芸能の生き残る道はある
・芸として簡単でも、観客参加型にすれば簡単な点が逆に武器となる
・「日本人固有の」なんてのは言ったもん勝ち?
・お祭り法に定められるような「祭」に集客能力がある(と役人は思った)のはなぜ? 本当に村おこしになるの??


(注1)http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H04/H04HO088.html
(注2)創られた伝統,E・ホブズボウム T・レンジャー編、紀伊国屋書店
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