初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:中世賤民と雑芸能の研究
著者:盛田 嘉徳
出版社: 雄山閣; 新装版版 (2004/07)
ISBN-10: 4639018495
内容:(「MARC」データベースより)
日本の芸能は、「社会外の社会」に押しやられた人々の、生き抜くための手段として生まれ、貧窮の中で育まれた。中世以来、庶民生活と密接な結びつきを保ちながら生き続けた雑芸能などに焦点をあてる。74年初版刊の新装版。
目次:
第1部 虐げられた人々
(河原の住民、賎称語源考、散所に関する研究の変遷 ほか)
第2部 雑芸能とそれを育てた人々
(千秋万歳の研究、松ばやし考、アヤツリ物のこと、放下について ほか)
第3部 諸興行物の支配権をめぐる問題
(「勝扇子」に関連して、小林新助芝居公事扣、豊竹和泉太夫所持の証文)
千秋萬歳の研究の項に次のような記述がある。
--
千秋萬歳法師原が、内裏や貴顕の門に推参するようになってから、
芸能化が急速に進んだものと推量されるが、本来が咒禁的な除災
招福のわざであり、そこを離れられぬ制約があって、芸能化にも
おのずから限界があった。それを援けるためには、別に興を添える
ものを工夫せねばならぬのでさまざまな試みが行われた。
「実任卿記」正安三年(1301)正月に、、(略)
猿楽三番了、突手鞠、次振釼、以退出、
と猿楽や、鞠つき、刀玉などを演じたことが記録されている。
--
なんだかいつの世でも放下芸は「いろもの」なんだなあとちょっと
しんみりしてしまった。
202ページから223ページまでは「放下について」
--
貞和5年(1350年)御舎利殿に手マリ突児来、、(略)
次手マリ、次ニ?ネナシ小刀ヲ口ニ一クワエ、左右手一ツゝ
三以ッテカエル
--
刀の綾織で口に咥えるといったところか?
放下の分類も少し書かれていた。
「弄丸」「弄剣」「手鞠」「弄鈴」:いずれもトスジャグリング
手鞠を突く、といったとのこと。ここに次の一文がある
--
つまるところは、同じような手技に過ぎないのである。
--
同じかどうか是非とも挑戦してくだされ>著者
「輪皷」こきりこについても言及が有る。
放下の起原、来由については不明、従来田楽法師のなかから
わかれたものであろうと説明されてきたが、実は根拠に乏しい仮説
にすぎないと著者は主張している。
「三壺聞書」金沢城火事之事に、金沢城下の才川口、鬼川のにぎわい
が述べられていて放下の座がいたことが記されている。
「玉露叢」巻37、延宝8年(1680)に四代家綱将軍の前で
演じたとある。
--
都右近放下を上覧、
三本松、毬の曲、枕返し、生鴨籠より二つ出る、山の薯鰻に
なる、緒よけの放下、玉子の曲、籠より小鳥出る曲、絵雀に成る放下
--
曲芸と奇術がまざったパフォーマンスのようだ。
枕返しを将軍の前でやりますか?
太神楽に関してはこの章の最後の段落でのみ次のようにふれられている。
--
放下の芸は、幕末には、一部を代神楽が受けつぐことになり、
寛政9年(1797)刊の「伊勢参宮名所図会」巻三には、
代神楽は桑名の近村太夫村より出る、これを代神楽と云ふは、
庚申の代待又は代后離などの同物なるべし、放下をなす事
その故を知らず、
とあるが、この以前から、代神楽が放下の芸の一部を演ずる
ようになっていたことを証するものであろう。
--
いったい江戸時代のいつごろに放下を吸収したか知りたいところ
なのだが、、、、
著者:盛田 嘉徳
出版社: 雄山閣; 新装版版 (2004/07)
ISBN-10: 4639018495
内容:(「MARC」データベースより)
日本の芸能は、「社会外の社会」に押しやられた人々の、生き抜くための手段として生まれ、貧窮の中で育まれた。中世以来、庶民生活と密接な結びつきを保ちながら生き続けた雑芸能などに焦点をあてる。74年初版刊の新装版。
目次:
第1部 虐げられた人々
(河原の住民、賎称語源考、散所に関する研究の変遷 ほか)
第2部 雑芸能とそれを育てた人々
(千秋万歳の研究、松ばやし考、アヤツリ物のこと、放下について ほか)
第3部 諸興行物の支配権をめぐる問題
(「勝扇子」に関連して、小林新助芝居公事扣、豊竹和泉太夫所持の証文)
千秋萬歳の研究の項に次のような記述がある。
--
千秋萬歳法師原が、内裏や貴顕の門に推参するようになってから、
芸能化が急速に進んだものと推量されるが、本来が咒禁的な除災
招福のわざであり、そこを離れられぬ制約があって、芸能化にも
おのずから限界があった。それを援けるためには、別に興を添える
ものを工夫せねばならぬのでさまざまな試みが行われた。
「実任卿記」正安三年(1301)正月に、、(略)
猿楽三番了、突手鞠、次振釼、以退出、
と猿楽や、鞠つき、刀玉などを演じたことが記録されている。
--
なんだかいつの世でも放下芸は「いろもの」なんだなあとちょっと
しんみりしてしまった。
202ページから223ページまでは「放下について」
--
貞和5年(1350年)御舎利殿に手マリ突児来、、(略)
次手マリ、次ニ?ネナシ小刀ヲ口ニ一クワエ、左右手一ツゝ
三以ッテカエル
--
刀の綾織で口に咥えるといったところか?
放下の分類も少し書かれていた。
「弄丸」「弄剣」「手鞠」「弄鈴」:いずれもトスジャグリング
手鞠を突く、といったとのこと。ここに次の一文がある
--
つまるところは、同じような手技に過ぎないのである。
--
同じかどうか是非とも挑戦してくだされ>著者
「輪皷」こきりこについても言及が有る。
放下の起原、来由については不明、従来田楽法師のなかから
わかれたものであろうと説明されてきたが、実は根拠に乏しい仮説
にすぎないと著者は主張している。
「三壺聞書」金沢城火事之事に、金沢城下の才川口、鬼川のにぎわい
が述べられていて放下の座がいたことが記されている。
「玉露叢」巻37、延宝8年(1680)に四代家綱将軍の前で
演じたとある。
--
都右近放下を上覧、
三本松、毬の曲、枕返し、生鴨籠より二つ出る、山の薯鰻に
なる、緒よけの放下、玉子の曲、籠より小鳥出る曲、絵雀に成る放下
--
曲芸と奇術がまざったパフォーマンスのようだ。
枕返しを将軍の前でやりますか?
太神楽に関してはこの章の最後の段落でのみ次のようにふれられている。
--
放下の芸は、幕末には、一部を代神楽が受けつぐことになり、
寛政9年(1797)刊の「伊勢参宮名所図会」巻三には、
代神楽は桑名の近村太夫村より出る、これを代神楽と云ふは、
庚申の代待又は代后離などの同物なるべし、放下をなす事
その故を知らず、
とあるが、この以前から、代神楽が放下の芸の一部を演ずる
ようになっていたことを証するものであろう。
--
いったい江戸時代のいつごろに放下を吸収したか知りたいところ
なのだが、、、、
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