初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:寺社と芸能の中世
著者:安田 次郎
出版社: 山川出版社 (2009/05)
ISBN-10: 4634546922
出版社/ 著者からの内容紹介:
中世後期の興福寺と春日社を中心に、そこで行われた田楽・延年・猿楽について概観し、芸能が寺社の法会や神事、僧集団や寺院経済のあり方、権力者や社会の動向との関わりを見る。
内容:(「BOOK」データベースより)
寺院や神社の境内には、清澄で落ち着いた空気が流れている。仏堂や社殿など、多くの建築が歳月をへてしぶい色をみせていることも、あの特有の雰囲気をつくりだしているだろう。しかし、かつて寺社の境内は、もっとにぎやかで楽しい場所だったかもしれないのである。法会や祭礼の日はもちろん、そうでないときにも僧侶や神官たちはしばしば田楽・延年・猿楽などの芸能を楽しんだ。多くの芸能者たちが寺社に出入りし、僧や神官、美しく装った稚児たちが芸能を鑑賞し、みずから演じてもいた。中世の寺社は、劇場でもあった。
16
足利尊氏もまた田楽に熱中した。
略
弟の直義は「天下の武将として雑戯を好み、政務を妨ぐ、前代高時の鑑、遠からず」(続本朝通鑑巻136)と兄を諫めたが、かえって尊氏は、高師直とともに政務をみるように申しつけたではないか、自分はもう余命を田楽で慰めてすごしたいといいだす始末であったという。
尊氏と田楽といえば、必ず言及されるのが桟敷崩れの田楽である。1349(貞和5)年6月11日京都鴨川の四条河原でこの地に橋を渡す費用を集めるための勧進興行として田楽が行われた。
太平記(巻27)には「このとき円形の桟敷を「三重四重に組上」た、つまり三階建て、四階建てにつくったとある。「師守記」など当時の貴族の日記にはそんなことは書いていないので本当に三階建て、四階だてだったのか不安が残るが、前評判が高くて多くの人が詰めかけたのは確かなようである。
中門口、ささら(編木)、乱拍子、刀玉、立ち会い舞が終わり、8・9歳の少年が猿の面をつけ、「御幣を差し上げて、赤地の金欄の打懸(うちかけ)に虎皮の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛び上り、左へ回(まわり)右へ曲(めぐ)り、はねかえりては上」る芸を披露したとき、「あら面白や、耐え難や」と熱狂した観衆の動きと重みにたえかねた桟敷がどっと倒壊したのである。
略
さっそく河原には「田楽の将棋倒しの桟敷には王ばかりこそ登らざりけれ」と天皇(将棋の王の連想)だけが来場していなかったという狂歌がたてられた。
36
延年は大寺院の法会の後に慰労会・打ち上げとして、また将軍や賓客の接待・歓迎行事として僧や稚児が中心となって行った芸能の総称、またその会のことである。
南都や大和では興福寺、東大寺、法隆寺、薬師寺、長谷寺、多武峯などで行われた記録がある
43ページ
論議に負けた外道は、くやしまぎれに神通力で戒賢が猫を出す。つぎにウサギをだすが、戒賢の鷹にやられてしまう。外道は最後にムカデを出すが、戒賢が鶏をだして勝負が決する。ここに登場するネズミ以下も僧が扮したもので、頭にネズミ以下の作り物をかぶったので、「被り物」といわれる。「走」あるいは「走物」ともいわれる。
56
どうも延年には面子の問題がかかわっていたように思われる
略
将軍義教も延年の有無にこだわったことがあった。
夫人が南都に下向したときに興福寺に延年を要求したが、興福寺は女性相手に延年を実施したことはないと断った。怒った将軍義教は京都でやれと命令、あわてた興福寺は夫人の宿泊先で延年を行ったが、義教は京都の室町殿もう一度延年をやれと命令した。
著者:安田 次郎
出版社: 山川出版社 (2009/05)
ISBN-10: 4634546922
出版社/ 著者からの内容紹介:
中世後期の興福寺と春日社を中心に、そこで行われた田楽・延年・猿楽について概観し、芸能が寺社の法会や神事、僧集団や寺院経済のあり方、権力者や社会の動向との関わりを見る。
内容:(「BOOK」データベースより)
寺院や神社の境内には、清澄で落ち着いた空気が流れている。仏堂や社殿など、多くの建築が歳月をへてしぶい色をみせていることも、あの特有の雰囲気をつくりだしているだろう。しかし、かつて寺社の境内は、もっとにぎやかで楽しい場所だったかもしれないのである。法会や祭礼の日はもちろん、そうでないときにも僧侶や神官たちはしばしば田楽・延年・猿楽などの芸能を楽しんだ。多くの芸能者たちが寺社に出入りし、僧や神官、美しく装った稚児たちが芸能を鑑賞し、みずから演じてもいた。中世の寺社は、劇場でもあった。
16
足利尊氏もまた田楽に熱中した。
略
弟の直義は「天下の武将として雑戯を好み、政務を妨ぐ、前代高時の鑑、遠からず」(続本朝通鑑巻136)と兄を諫めたが、かえって尊氏は、高師直とともに政務をみるように申しつけたではないか、自分はもう余命を田楽で慰めてすごしたいといいだす始末であったという。
尊氏と田楽といえば、必ず言及されるのが桟敷崩れの田楽である。1349(貞和5)年6月11日京都鴨川の四条河原でこの地に橋を渡す費用を集めるための勧進興行として田楽が行われた。
太平記(巻27)には「このとき円形の桟敷を「三重四重に組上」た、つまり三階建て、四階建てにつくったとある。「師守記」など当時の貴族の日記にはそんなことは書いていないので本当に三階建て、四階だてだったのか不安が残るが、前評判が高くて多くの人が詰めかけたのは確かなようである。
中門口、ささら(編木)、乱拍子、刀玉、立ち会い舞が終わり、8・9歳の少年が猿の面をつけ、「御幣を差し上げて、赤地の金欄の打懸(うちかけ)に虎皮の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛び上り、左へ回(まわり)右へ曲(めぐ)り、はねかえりては上」る芸を披露したとき、「あら面白や、耐え難や」と熱狂した観衆の動きと重みにたえかねた桟敷がどっと倒壊したのである。
略
さっそく河原には「田楽の将棋倒しの桟敷には王ばかりこそ登らざりけれ」と天皇(将棋の王の連想)だけが来場していなかったという狂歌がたてられた。
36
延年は大寺院の法会の後に慰労会・打ち上げとして、また将軍や賓客の接待・歓迎行事として僧や稚児が中心となって行った芸能の総称、またその会のことである。
南都や大和では興福寺、東大寺、法隆寺、薬師寺、長谷寺、多武峯などで行われた記録がある
43ページ
論議に負けた外道は、くやしまぎれに神通力で戒賢が猫を出す。つぎにウサギをだすが、戒賢の鷹にやられてしまう。外道は最後にムカデを出すが、戒賢が鶏をだして勝負が決する。ここに登場するネズミ以下も僧が扮したもので、頭にネズミ以下の作り物をかぶったので、「被り物」といわれる。「走」あるいは「走物」ともいわれる。
56
どうも延年には面子の問題がかかわっていたように思われる
略
将軍義教も延年の有無にこだわったことがあった。
夫人が南都に下向したときに興福寺に延年を要求したが、興福寺は女性相手に延年を実施したことはないと断った。怒った将軍義教は京都でやれと命令、あわてた興福寺は夫人の宿泊先で延年を行ったが、義教は京都の室町殿もう一度延年をやれと命令した。
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