初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
ブログ内検索
カテゴリー
最新TB
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
書名:河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶
著者:篠田 正浩
出版社: 幻戯書房 (2009/11)
ISBN-10: 4901998501
内容:(「BOOK」データベースより)
芸能がつくりあげた荒唐無稽こそ、宇宙の片隅で漂う人間の叡智の産物かもしれない。
構想50年―日本映画界の旗手が、芸能者たちの“運命”を追跡し、この国の“歴史”が
時系列で記される単純化に抗する、渾身の書き下ろし作品。
非常によくまとまった日本の芸能の歴史。
一冊だけ読むのだとしたらこれを読めばよいかもしれない。
参考文献などもまめに記述されている。
自らが芸能者の立場にたっての書き方がかんじられ、学者が書いている
歴史書よりずっとはいりやすいしおもしろい。
歴史の流れを追うというよりひとつひとつのエピソードの記述が著者の思いを告げている感じ。
ただ江戸時代にはいるとほとんど歌舞伎の話題に終始するのは残念。
P31
河原者に対する差別がいまだにある
桂離宮を飛び込みで見学しようとしたとき俳優というとことわられた。
梟の城を制作中のとき、四条河原の死闘の際の音曲効果として、壬生狂言の
囃子使用をかんがえたが、保存会からは
「我々が伝承している狂言は重要無形文化財で、河原乞食の芸とは違います」と拒絶された
132ぺージ
天平勝宝3年(751)、「続日本紀」は記す。
外来の技芸である散楽が宮廷舞楽の雅楽寮に編入され、「散楽戸」として官人芸能になったと。
137ページ「能楽源流考」能勢朝次
散楽戸廃止以前を「貴族的猿楽」以降を「賤民猿楽」とした。楽戸をもうけなくても自然発生的に芸を志向する人々があらわれ、その集団で芸の伝承はもちろん官人の中にも散楽伎の下いたっ者を選ぶことが可能になったというのである
散楽戸はそようちょうを免ぜられてきたが、その廃止によって賤しい雑戸の身分から納税者としての公民になれる道が開けた一方で、さらに下層のせんみんざつげいしゃとなる。
「中近世放浪芸の系譜」では官人として保護され慢心していた散楽の芸より、路上や社寺の境内で都人の目にさらされた放浪者の芸の方が刺激的で練達していたことが理由ではないかとして能勢の説を訂正する。
早稲田大学演劇博物館長の竹本幹夫は「事実は散楽のような多種目な芸能を官営で維持する財政の余裕がなくなったのではないか」と解説し、さらに大陸や朝鮮半島から渡来する芸能者が絶えることなくこの国に流入し、一ぴう巨大化した寺社は年中行事を支える自前の芸能者の確保を必要としたはずだと述べた
著者:篠田 正浩
出版社: 幻戯書房 (2009/11)
ISBN-10: 4901998501
内容:(「BOOK」データベースより)
芸能がつくりあげた荒唐無稽こそ、宇宙の片隅で漂う人間の叡智の産物かもしれない。
構想50年―日本映画界の旗手が、芸能者たちの“運命”を追跡し、この国の“歴史”が
時系列で記される単純化に抗する、渾身の書き下ろし作品。
非常によくまとまった日本の芸能の歴史。
一冊だけ読むのだとしたらこれを読めばよいかもしれない。
参考文献などもまめに記述されている。
自らが芸能者の立場にたっての書き方がかんじられ、学者が書いている
歴史書よりずっとはいりやすいしおもしろい。
歴史の流れを追うというよりひとつひとつのエピソードの記述が著者の思いを告げている感じ。
ただ江戸時代にはいるとほとんど歌舞伎の話題に終始するのは残念。
P31
河原者に対する差別がいまだにある
桂離宮を飛び込みで見学しようとしたとき俳優というとことわられた。
梟の城を制作中のとき、四条河原の死闘の際の音曲効果として、壬生狂言の
囃子使用をかんがえたが、保存会からは
「我々が伝承している狂言は重要無形文化財で、河原乞食の芸とは違います」と拒絶された
132ぺージ
天平勝宝3年(751)、「続日本紀」は記す。
外来の技芸である散楽が宮廷舞楽の雅楽寮に編入され、「散楽戸」として官人芸能になったと。
137ページ「能楽源流考」能勢朝次
散楽戸廃止以前を「貴族的猿楽」以降を「賤民猿楽」とした。楽戸をもうけなくても自然発生的に芸を志向する人々があらわれ、その集団で芸の伝承はもちろん官人の中にも散楽伎の下いたっ者を選ぶことが可能になったというのである
散楽戸はそようちょうを免ぜられてきたが、その廃止によって賤しい雑戸の身分から納税者としての公民になれる道が開けた一方で、さらに下層のせんみんざつげいしゃとなる。
「中近世放浪芸の系譜」では官人として保護され慢心していた散楽の芸より、路上や社寺の境内で都人の目にさらされた放浪者の芸の方が刺激的で練達していたことが理由ではないかとして能勢の説を訂正する。
早稲田大学演劇博物館長の竹本幹夫は「事実は散楽のような多種目な芸能を官営で維持する財政の余裕がなくなったのではないか」と解説し、さらに大陸や朝鮮半島から渡来する芸能者が絶えることなくこの国に流入し、一ぴう巨大化した寺社は年中行事を支える自前の芸能者の確保を必要としたはずだと述べた
PR
この記事にコメントする