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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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題名:図説 庶民芸能・江戸の見世物
著者:古河 三樹
出版社: 雄山閣出版; 〔新装版〕版 (1993/04)
ISBN-10: 4639001312
内容:(「BOOK」データベースより)
江戸は両国広場や浅草奥山、上野山下の広小路。大阪は梅田、千日前、道頓堀、難波。京都は四条河原、名古屋は大須観音など、人びとはそこに集まって、見世物の世界に浸りその活力を発散…。最高に親しまれた大衆娯楽。

庶民芸能 江戸の見世物

35P
曲鞠
曲鞠は散楽とともに伝来したもので、室町時代に蜘舞の法師などが縄を高く一筋はって、その上を
片足鞠をしてわたったという記録がある
江戸時代、京都の住人外良右近、寛永・正保のころ曲鞠興行をした

ところが蹴鞠の師範である飛鳥井家から訴えがあって、伊豆の大島へ遠島になったと「玉滴隠見」に
見えている。このことが足鞠から足手鞠への転換点となった
「足で往来を招く曲鞠」と評判だったのが手を使うようになった。
元禄ころから江戸芝神明社地で、膏薬と歯磨きを売り、愛嬌に曲鞠を演じて名高かった三条小六が
あり、安永年間にはその流れを汲む小かんという女太夫が人気を呼び「なにぶん女ならでは夜の明
けぬ国、小かんが曲まり評判いちじるしく、見る人いずれも涎を流す」と「当風見聞草」に記されている

天保12年(1841)3月28日から浅草寺観世音開帳に京下りの菊川国丸というものが曲手鞠を公演、
曲名は「菊川曲手鞠報条」に
乱杭渡り、中づり、文字書き、梯子登り、八ツ橋、冠付け、摘み鞠、襷がけ、指廻し、下り藤、八重桜、
足袋脱ぎ、扇子どめ、負ひ鞠、平た蜘、煙草呑み、滝流し、花生、高鞠

見物人は日に数千人もあり、給金も1日5両。夜毎に吉原で豪遊の結果、大盗の嫌疑で寺社奉行に
召し捕らわれ興業中止となったのは飛鳥井家からの幕府へ内請があったためといわれている。
その後見世物としての曲鞠は廃絶。

P37
枕返し

「一種弄枕あり、木枕10個を以て堅に相重ねて之を捧ぐ。恰も一柱の如し。中に好む所の枕を抜き
取る。数次皆然り。数品の弄枕あり」
(正徳版「和漢三才図会」弄丸の條。
寛文から延宝へかけて行われていたのは、寛文4年作の「出来斎京土産」四条河原見世物の条、
「後撰夷曲集」(寛文12年版)
「季吟二十会集」(寛文12年版)
「山の端千句」(延宝8年版)などにみえ
延宝8年版本「江戸向の岡」に「ほととぎす枕返しを玉之助」とある。
宝永2年(1705)興業「傾城反魂香」には大津絵の画材となった。
文化2年(1805)春、江戸春東両国で興業の大阪下り女軽業太夫玉本小金の絵番付に
枕返しの曲芸を載せているだけである。

P44
蜘蛛舞の記述がある

P111
カンカンノウの記述がある

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