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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:東アジhttp://ec3.images-amazon.com/images/I/41NeqrNgJyL._SS500_.jpgアの民衆文化と祝祭空間
著者:鈴木 正崇 (編集)
出版社: 慶應義塾大学東アジア研究所 (2009/12)
ISBN-10: 4766417119



なかなか興味深い。
公開講座開催は知っていたのだが、参加しなかったのが少々悔やまれる。

世界のチャイナタウンからみた人々と文化の移動
陳天璽

横浜チャイナタウンに広東料理が多いのは、横浜に移住した古い華僑に広東人が多かったから。
「春節祭」は和製中国語で、1980年代にチャイナタウンの街おこしとしてはじまった。
インチョンのチャイナタウンでもジャジャンミョン祭りや中国人節が大々的に行われている。仕掛けたのはインチョン市。

日本における中国芸能と音楽の空間
王維
60p
「こきゅう」は日本固有の楽器、中国のは「にこ」
64p
にこは中国の楽器ではあるが、主体は日本人にかわった。中国大衆に好まれている楽器とはいえなかったが、日本のブームにより中国でも見直された。

都市祝祭の変貌 よさこい系イベントの展開
74
地域色というのが実はありそうでない、これからこれから地域色を出せるというのがよさこいの基本となります。
78p
参加型の祭りであることは重要です。参加型の祭りで、しかも約束事が非常に少ないことも大切です。人前で自分自身の練習の成果を、もちろんお客さんがきちんと見ているかどうかわからないのですけども、自己満足的に見せることができる。そういうタイプのお祭りです。
79p
みんなで創りあげていくという連帯感があると同時に、あるときになると、仲間がぱっといなくなってしまっても、それは自然なのです。
ですから現代社会の人間関係、たとえば、連帯はしたい、みんなと一緒に何かを創り上げたい、けれどもプライベートをどんどん拘束されることは嫌だというような時代の雰囲気に非常にあっています。

韓国における祝祭
伊藤亜人

100
祝祭的な祭り形式が韓国ではどのくらい見られるかというとい、実はそう多くはないのです。
103
韓国では祝祭といえばむしろ個人の祝宴が中心となっていると言ってもよいかもしれません。
108
祝祭
1。「クッ」
在来のシャーマニズム的な儀礼形式、あるいは神霊との交渉を中心としたもの。そこに「マダン」と名付けて新しい形態の祝祭空間を作り出す動きが70年代からあちこしのとしにおいて見られた。
「マダン」とは「庭」という意味。
クッという形式をとりながら観客も一体となって巻き込むような演出、趣向を凝らした演劇形式。

2。「大学路」
祝祭的な空間を求めている若者のために政府がつくったもので、道路をふさいで歩行者天国のようにして民衆に下賜したもの。
実は官製。


3。「チュクチェ」
韓国は中央集権の伝統の強い社会ですから、地方行政の首長、たとえば郡なら郡守と言われるような人が中心となって行う祝祭。
80年代に全国に広がって「市民祭」とか「郡民の日」とか「文化祭」とかさまざまな名前をとるがパターンは一緒。たいていまず郡主が長々とつまらない挨拶をしてみんなが痺れをきらす。
官の権威を郡守の権威を演出する官尊民卑の儀礼といってもよいかと思うのです。
政府が管轄して行うものが実は韓国で現在「祝祭」(チュクチェ)といわれている。

韓国サーカスにみられる曲芸の越境
林史樹

韓国サーカスは1900年前後に日本を経由してはいったのが始まり。
1930年頃から徐々に韓国人経営者によるサーカスが誕生。
1980年代になるとTV、スポーツなどに押される。追い打ちをかけたのが、TV司会者への転身やナイトクラブへの引き抜き。
90年代後半には徐々に興業が成り立たないサーカスがでてきた。
2000年頃から中国の雑技団曲芸師が韓国のサーカスに組み込まれるようになった。この動きは東春サーカスが主導していくものの他のサーカス団は追随せず。
現在は太白サーカスと東春サーカスが中国曲芸師を取り込んでサーカスの脈をつないでいる。

中国人曲芸師をつれてきて雑技を演目にいれてしまったために韓国で行われてきた曲芸みられなくなった
仮面マジック、帽子ジャグリング、ピンポンや十字型のブーメランを用いた雑技団でよくみられる演目にかわった。
韓国・朝鮮に由来する曲芸といえば、2メートルほどの高さに張った荒縄をわたる「広大(クァンデ)」ていどしかない。これに関しては韓国の民謡を背景に流し、曲芸師も伝統衣装を着てでてくることで「韓国らしさ」を演出する。

華南における正月の祭祀空間
189
中国では廟が栄えるか栄えないかもその廟が村人に霊験を与えるかどうかにつながっています。村人が一生懸命祈ったけれど何の効き目もなかったというと、村人はその神様をさっさと見限ってほかの神様に乗り換えてしまいます。

206
文化政策による祭祀空間の舞台化、観光化という現象が起きていることを論じたいと思います。

ところで最近になって元々は農民がやっていたこの劇を安徴?の専門劇団がとりあげてこれを「世界遺産」として世界や国内の各地を上演して歩くようになりました。
2007年9月に香港での上演をみましたが、全く原型をとどめない不自然なものでした。

村でやっていれば素人芸なりに素朴な価値があるのですが、それがプロが取り上げていくということになりますと、ほとんど見るに耐えない変形を受ける、そういう例です。


112
”官製化した地域祝祭”ともいうべきものが「霊登祝祭」ヨンドンジェで、これは日本でも結構知られています。いわゆる珍島の海割れの祝祭です。天童よしみの歌で、海に道がヨンドンサリ云々と歌われたものです。

この辺の経緯について私は論文を2、3編書いていますので、それをお読みになっていただければいいのですが、元はといえば、漁村の人たちの間に旧暦三月頃の大潮の日(ヨンドンサリ)に、ヨンドン・ハルマニというおばあさんがやってくるという信仰が韓国の南の海岸地帯に広く見られます。村の女性たちがその日はヨンドンコサといて簡単な供え物を海に向かって供えて大潮の海で潮干狩りのように貝や蛸や何かをとって1日を過ごします。そういう簡単なものだったのです。
それが1975年に海割れとして突如有名になりました。

その経緯をあとで聞いてみると、74年にフランスの駐韓大使がどういうわけか偶然珍島にきたといってそのときの話がフォークロアのようにつくられていまとなっては何が本当かわからなくなっています。


114
文化観光課にいた許ヨンムという人と、当時光州の新聞記者であった、金井[日天]という私もよく知っている人ですが、この二人が知恵を寄せ集めていろいろな伝説をつくりあげたのです。
それはどういうことかというと、海が引けて道があらわれるのはヘドンという村なのですが、へどんをほどんに読み替えて、「ホ」に「虎」という字を当てて、ここは昔虎がたくさんでて、虎の害を避けるために住民が向こうの島に渡って避難した。そのとき一人のお婆さんだけを取り残していった。そのお婆さんは毎日のように海に向かって龍神さまにお祈りしていると、あるとき海の中に道ができて村の人たちと再会できた。再会すると同時にそのお婆さんは息を引き取って霊が天に登っていったという話をつくりあげました。
霊が登るから霊登祭(ヨンドンジェ)というようになづけました。
これは全部つくった話なのです。やがてそのおばあさんの銅像が作られ、おばあさんを祀る祠が建てられ、そこで儀礼として祭祀が行われるようになり、その前に舞台がつくられ、文化財に指定されている珍島の民俗芸能を公演するというようになって、観光客に魅力のある祝祭につくりあげられたという経緯があります。


先日その金井「日天」さんが、許ヨンムさんと一緒にいて、僕もそこにいたのですが、やあ、
この前、文化観光部のなんとかが来て、この珍島のお祭りのことをほめ讃えるから、あれは僕ら二人でつくったんですよと言ったら、おまえたち何を言うか、伝説とはそういうものではないといって全然取り合わなかったといって笑っていました。
こんなことは本当におきるんです。
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