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初老初級ジャグラーの日記です。 ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。 技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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書名:芸能・文化の世界 (シリーズ近世の身分的周縁2)
著者:横田 冬彦 (編集)
出版社: 吉川弘文館 (2000/06)
ISBN-10: 4642065520
内容:(「BOOK」データベースより)
豊かな民衆文化の花ひらいた江戸時代。それを支えたのは、どのような人々だろうか。
芸能・文化の世界に生きた、いまだ語られざる多くの芸能者。その変遷をたどり、近
世民衆のさまざまな文化ネットワークを解き明かす。
目次:
芸能・文化の世界…横田冬彦
楽人…小川朝子
能役者―身分と社会―…母利美和
書物師…藤實久美子
伊勢大神楽―その成立をめぐって―…北川 央
鉢叩…森田竜雄
寺中―筑前の芸能集団―…永井彰子
絵師―渡辺崋山、「画工」と「武士」のあいだ―…杉本史子
国学者…小野 将



江戸時代の芸能・文化を担った人々のありかたに焦点をあてた本。

*芸能文化の世界(横田 冬彦)
一章は「人倫訓蒙図彙」を元に芸能の分類を示している。
分類最後の「勧進餬部」に宗教者と芸能者が渾然一体となってあわられている。
針供養、門経読、鉢敲、代神楽、獅子舞、猿舞、夷舞、放火、猿若、万歳楽、
鳥追、祭文などが含まれる。この部にだけ全体の説明がついている。
これらの芸能は、中世においては一定の宗教的役割があって、それに対する布施を
受ける勧進であったが、近世においてはそのような宗教的な意味を失い、単なる
物貰いになってしまったとのこと。

*楽人(小川朝子)
雅楽は能などその他芸能と違い、興行をしない芸能であった。楽所が近世を通じて
朝廷儀礼と幕府儀礼を担い、両者を由縁をひきつけて家職を展開していった

*能役者(母利美和)
幕府お抱え役者、藩お抱え役者、町人役者などがいた。近世後期では能に家元制度
が確立していったため、能の技能習得は藩内再生産から家元相伝と移っていった。

*書物師(藤實久美子)
出版社と書籍問屋を兼ねていた。幕府お抱えでもっとも長い期間書物師を務めた
のは出雲寺家で1700年ごろから15代170年。大名、幕府の役人の名前と
幕府のご用達町人・職人の名前が掲載されている「武鑑」を出版していた。
初代の時元は京都と江戸のいわゆる知識層のあいだを行き来しながら由緒正しい
写本を使って板本を作成し世に送り出した。
幕府の御用達町人に認められる身分証憑には次の7つがあり、出雲寺に許された
のは5,6,7.
1.扶持の給付
2.町屋敷の下賜
3.帯刀の許可
4.熨斗目・白帷子の着用許可
5.家名の通用許可
6.将軍御目見得許可
7.「御用」箱・高張提灯の使用許可
書物師である間は書物方の支配を受け、書物問屋としては町方支配に属した。
元文期になるとその身分は購買の対象となった。

*伊勢大神楽(北川央)
ここにおける考察は次の通り
1.伊勢大神楽の二大根拠地のうちの一つ、伊勢国桑名郡太夫村は、慶長年間(1596-1615)
ごろに山本十右衛門・山本市太夫両人によって開発された。
2.この両名のもとには、昔の誼で諸国の浪人たちが訪問し、太夫村に定着した。
3.その中で目立ったのが近江の佐々木六角氏配下の者たちで、陰陽師であった。
4.太夫村に定着した彼らは、伊奈冨神社・椿大神社などでの獅子神楽に従事することと
  なったが、この獅子舞と彼らが陰陽師として体得していた万歳・放下芸が合体し、
  遊興性に満ちた芸能・大神楽が成立した。
5.彼らは各地に出かけたが、寛永年間(1624-1644)ごろにはまだ近江時代以来の息吹大明神を
  奉斎していた。
6.遅くとも正徳5(1715)年には伊勢内宮と結びつき、内宮御師の「門弟」となって伊勢神宮
  の配札をつかさどるようになった。「伊勢大神楽」の成立である。

*鉢叩(森田竜雄)
鉢叩は南北朝期に乞食的な念仏芸能者として姿を見せ、室町時代後期にはほぼ近世にみえる姿
を整えたが、諸宗派の寺院の支配を受けつつ複数の場所に集住し、その営為も寺社での勧進
が中心であった。
近世京都の鉢叩の形態は、空也を祖師と仰いで山号さえある「寺」=空也堂を構えながら、一人
を除いて有髪妻帯の俗体であり、念仏修行に勤める一方で茶筅業者であった。
近世では鉢叩の芸能としての側面が薄れるとともに空也堂を設立して宗教者として生き残ろうと
した。これは踊り念仏が芸能商品としての競争力がなくなったためであろう。
しかし、幕府から公認されず、本寺もなく寺領もなければ檀家もいないという欠陥を抱き続ける
こととなった。
元禄時代には茶の品種改良、風俗の変化などによって茶筅の売れ行きが減少、経済状況の悪化の
もとで空也堂が選択したのは寺院の整備による観光化であった。17世紀末から18世紀にかけて
全国的な庶民経済の急成長は庶民の観光ブームを呼んだがそれに対応して今日とも観光地化さ
れたとされる。これと機を一にして寺院も名所化した。空也堂は空也の遠忌を通じて自己の存在
をアピールするとともに収入に結び付けていった。またここで薄れていた念仏踊りを「寺の名物」
という形で復活させた。天明の大火で復興費用が必要となった際に他地域の「末派」を組織化
するようになる。「末派」は身分不明の下層民化し、えたとの争いを抱えていた。
朝廷の権威を利用して末派組織化や六斎念仏支配の形成を行った。明治政府には宗派として公認
されず本山たる位置を失った。また身分開放令によって末派も本末関係を維持する必要がなくなり
鉢叩の支配は事実上終わった。

*寺中―筑前の芸能集団―(永井彰子)
福岡藩では芸能を専業とする集団が存在した。近代にいたるまで、踊り、操り、歌舞伎など
芸能の一翼を担っていたのが寺中と呼ばれる集団である。このような集団は各地にあり、
一種の賎民とみなされていたものの、あいまいな地域もあり身分内体系の位置づけも様々。
筑前の場合はそれが寺中身分として把握され、政治的に近世の被差別身分として固定された。
神々への奉仕という神聖な職能を持った念仏集団は世俗化の道を辿り、近世的な歌舞伎役者
集団へと変容する一方舞台の上以外では蔑視の対象ともなっていく。
芸能者が持つとみられる呪的能力への漠然とした恐れ、農本主義社会での異質なものへの
不安と排除、芸能を受容する民衆側のこうした視線に照応するように藩は寺中の統制に
意を用いた。

以下略。。



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