初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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題名:いろどる : 色物の世界(芸双書1)
著者:南博、永井啓夫、小沢昭一編
出版社:白水社
出版年:1981.1
明治、大正、昭和時代の色物の変遷と1980年当時の漫才の現状についての
短編集。冒頭の永井氏著「マリとバチ ”いろもの”の空間」で太神楽
に関する記述がある。ちょっとずつ引用。
まずは色物の定義。
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「いろもの」とは大雑把に言えば、「寄席で演じられる各種演芸の総称」
であり、東京では「落語以外の演芸の総称」、大阪では「漫才以外の演芸の
総称」。江戸期の演芸場は「講釈場」「浄瑠璃席」「寄席」に分かれており、
その寄席が落語以外の演芸を加えるようになってからは「色物席」と呼んで
区別していたが、落語の単独公演の方が例外となったため、寄席といえば
色物席を指すようになった。色物の分類は大雑把にいえば、曲芸、奇術、
音曲、踊り、物まね、寸劇、漫談、珍芸その他。
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放下の意味。
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太神楽としては、大神宮のシンボルとして獅子を舞わせて祝祷し、余興
として放下を見せるという二面を持っていた。放下とは禅語の「放下」
より出たもので本来は「一切の煩悩を離れた自由な状態」の意だったが、
転じて散楽系曲芸の「自由奔放な芸態」を指すこととなった。
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やっぱり放下って人生投げるって意味だったのね。
「人生投げて玉投げて」というtossLifeのキャッチコピーは放下の
本質を示しているのかも?
口上について。
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太神楽の口上は曲芸と同じように大切な比重を占めている。わが国の
口上の歴史は中世に大社寺で行われていた延年の<風流>にまで
さかのぼることができる。芸能の場に運び込まれてくる風流の飾り物を
呼び出したり、情景描写する役者を<開口>と呼んでいた。世阿弥は
能のワキのことを開口人と呼んでいた。現代でも歌謡曲の実演に先立って
司会者が美文調でテーマを歌い上げるのは口上の威力なのである。
口上はあくまで曲芸の添え物であるが、もし口上がなくて演者がひとり
で曲芸を黙って演じていたら退屈するであろう。
太神楽の口上は本来のひとり立ちから二人の<掛合>に推移していく。
一人で演目を美文調に読み上げる口上に対して、これを繰り返しながら
ナンセンスにしてしまう道化役の登場である。マジメとナンセンスの
対立によって口上の内容がより深く理解される。さらにひとつの見所
と次の見所の間に時間的なリアクションをおくことによって、両者の
技芸をより際立たせることの効用である。
万歳のコンビがあまりにも様式化しているのに対して、太神楽の掛合は
はるかにリズミカルな人間臭に満ちている。
祝祷を主旨とする太神楽の一社を主宰する太夫には、神職まがいの厳粛な態度を
とらねばならぬ一面がある。これに対して口上や諸雑芸を担当し、娯楽の
起爆剤となる道化役も時代が下るに従って太夫に劣らぬ重要な役割を
受け持つことになる。関東の太神楽の符牒で道化役をメグロと呼んでいる。
先代鏡味小仙が東京演芸界の大御所としての人気を保ち続けたのは、相方の
メグロ初代鏡味小金との名コンビによるものといえる。
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口上やはり大切なんですよね。私はジャグリングにも口上ある方が受ける
と思うのだけれど、技の名前を述べる以上のトークに出会ったことがない。
江戸時代から昭和にいたる太神楽社中の変遷も記述がある。
昭和まで厚木太神楽ってあったのね。
現代の太神楽について。
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現代の太神楽は、本来の使命だった祝祷という一面を放棄してしまった。
戦後の世相の中で大衆の予祝信仰に期待することができなくなったからで
ある。しかし現代でも若者を含めて大衆は新年になると晴れ着をまとって
鎌倉や代々木の神社に参詣する。信仰というよりも新年というレジャーを
楽しむためである。こうした大衆のいつの時代も変わらないレジャー希求を
上手に把握していたのも太神楽だった。大衆は太神楽の<芸>を通じて
信仰心を満たし、太神楽は信仰めかして<芸>を販売していたのである。
戦後の太神楽がその仕組みを簡単に放棄したのは大きな損失だったと
いわなければならない。
太神楽から<口上>や<茶番>が見られなくなった理由は道化役の不在である。
太神楽の若い世代はすべて紋付袴姿の太夫役を志望し、道化役に関心がないらしい。
以上太神楽について日ごろの鬱憤を漏らしてみたが、そういう条件が
満たされたとしても太神楽が昔日の姿を取り戻すのは実は不可能なのである。
その理由は太神楽の技芸がすでに<完成>されてしまったためだからである。
茶番にはもともとかかれた台本などはほとんどなく既成のパターンの組み合わせ
で探りあいながら対話を進めていくのである。しかしいつのまにか文字に
かかれぬままに台本が完成し、テキスト化されてしまった。台本の改訂が
なされぬまま、言語感覚や成育環境が異なる若い世代が演じることは
不可能である。
。。。
音曲噺をネガとして人情噺が生まれていくこのふたつの例にも知られるように
原作・原典の中の芽を育て、自分の語り口、自分の解釈によって新しい作品
を作っていく、これが大衆芸能<いろもの>の方法だったのである
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道化が生き残っている伊勢太神楽を早くみてみたい。口上もくすぐりを今日
的なものに変えていくなど補修的な改善が必要だと思うのだけれど、伊勢
太神楽はどうなのかなあ。
江戸時代において客が太神楽に求めるものと、現代において客が太神楽に
期待するものは当然異なるだろう。昔は祈りであり、現代は「和」なのかも
しれない。「和」がいったい何をさすのかは私にはよくわかっていないの
だけれども。。
現代に対応するために、どこまで変えればよいのか、どこまで変えても太
神楽の本質を見失わないのか、それこそ「はめをはずさずにはめをはずす」
度量が求められている気がする。
また小島貞二氏著「いろもの戦国時代 明治・大正・昭和の演芸」には
次の記述がある。
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おおざっぱにわけて、明治も20年ごろまでは、江戸時代に活躍したいわゆる
本格的な芸の持ち主が支持された。芸界もそうであったが、客である江戸っ子
特に下町っ子たちは、芸のうまさを評価したわけだ。
20年以降になると、東京の人口も急速に増え、それも地方からの移入が
目立った。寄席の客層も大きくかわったのも当然だ。存分に味わって感心する
という本格の芸よりも、ストレートで面白いものが歓迎されるようになった。
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これってBroadway Musical の客層の変化が作品内容にもたらしたものとそっくり。
"On Broadway Art and Commerce on the Great White Way"(Steven Adler 著、
Southern Illinois University Press) によると、NYが安全になり
地方や外国からの旅行者、そしてファミリーが観客の主流になるにつれて、
作品としてよりわかりやすくストレートに面白いものが求められるように
なったそうだ。だから今はディズニー全盛なのよね>ブロードウェイ。
もっとも新作ターザンはこけちゃったけれど。
この本の最後には関山和夫氏の「色物・文献解題」に過去の文献が示されて
いる。江戸時代にはほとんどないのね。次のふたつが著名なもの。
・「猿猴庵日記」高力種信著
安永6年(1777)から文政9年(1828)まで50年書き続けたもので芝居や
見世物、寄席興行に触れた部分がかなり多い。この書の原本は今は見られない
が市史本が名古屋市・鶴舞図書館にあり、それを基にしたものが「名古屋叢書」
第17巻に尾崎久弥氏翻刻で収められている。
・「見世物雑志」小寺玉晁著、5巻5冊、早稲田大学図書館蔵
文政元年(1818)から天保13年(1842)にいたる25年間の名古屋における
あらゆる種類の寄席、見世物の興行が記録されている。この原本は早大にあるが、
名古屋叢書第17巻等で収められている。
それから時代はとんで次におさえておくべきものがこれ。
・「見世物研究」朝倉 無声著
昭和3年出版。(現在筑摩書房 (2002/02) より復刻版が出ている)
http://www.amazon.co.jp/%E8%A6%8B%E4%B8%96%E7%89%A9%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E6%9C%9D%E5%80%89-%E7%84%A1%E5%A3%B0/dp/4480086811
昭和40年代からはいろいろ文献が出ている。永六輔氏、小沢昭一氏たちの働きが
大きいようだ。これからいろいろ読んでみたい。
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