初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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題名:寄席芸能の現状
著者:日本芸術文化振興会発行/国立劇場事業部宣伝課編集
雑誌:国立劇場演芸場(149,171,179,189,197, 212号)
これは国立劇場演芸場の番組内容を書いたパンフレットである。
この中に「寄席芸能の現状」という連載がありそこで1年に一度
太神楽の記事が書かれていた。現時点において連載はない。
パンフそのものが折りたたんだ紙になってしまい連載を書く余地が
なくなったためだと思われる。続いていてくれたらどんなによかったか。。
第149号(1992) 「活気づく水戸大神楽」
菊蔵・小菊父娘コンビと水戸大神楽の紹介が載っている。
徳川御三家の水戸藩の御用を勤めていた誇りとお祓いを中心に
行動しているため、「格調高く重々しさを大切に」と
申し伝えられている。
第159号(1993) 「十三代小仙を襲名する仙寿郎」
鏡味小仙が襲名されるという話題。翌年が12代目小仙の
十三回忌にあたることから、義母の十二代目未亡人をはじめ
寄席関係者から薦められて踏み切ったもの。
当時は昭和24年生まれの仙之助氏が最年少ということで、
江戸太神楽の存続が危惧されていたらしい。
今後の課題として、「民俗芸能祭り・演芸祭りを充実させる」、
「5人位を単位とした一座を幾つか編成、水戸さんのように少人数で
各地を巡演できるような活動基盤を作りたい」。
数年前から「わざおぎ塾」「ちろりん」で太神楽の指導にあたって
いる。
第171号(1994)「太神楽・花の三人娘」
翁家喜楽の娘である翁家喜乃、水戸大神楽の柳貴家小菊、柳貴家響子、
が注目を集めている。小菊と響子は従姉妹同士であり、小菊は正楽の娘、
響子は勝蔵の娘。一頭地抜けた小菊というサブタイトルがあり、「3人娘
の中では技芸的にリードした存在だ」、と書かれている。
第179号(1995)「太神楽曲芸の後継者養成」
太神楽曲芸の後継者難解消のため、日本芸術文化振興会では、この年の
9月から二年半がかりで太神楽曲芸の技芸者研修に乗り出した。
研修場所は国立劇場。
平成5年7月、日本演芸家連合と太神楽曲芸協会の連名で、日本芸術文化
振興会へ新人育成の要望書が提出された。
この時点で協会所属の技芸者は25人、昭和54年には43人だったので激減
していることになる。しかも70歳以上の高齢者が5人、最年少は奇術から
曲芸の勉強をしたくて鏡味小仙に師事するマサヒロ水野の昭和35年だが、
太神楽の技芸者としては昭和30年生まれの柳貴家勝蔵が若手筆頭であった。
研修の内容は、投げもの、立てもの、独楽、囃子、獅子舞、長唄など。
投げ物が翁家系、立て物が鏡味系の講師となっているのは、基本は同じだが
流派で教え方の手順が異なるので初心者の混乱を避けるため。
喜楽の体験も書かれており、最初は投げ物、次に立て物、一つ鞠、獅子舞
の順で学び、傘回しはいつの間にかできるようになっていたとのこと。
第189号(1996) 「後継者育成に励む紋也」
三増紋也の弟子が次々と頭角をあらわしているという記事。
娘で後継者に目されている小紋を筆頭に、紋之助、巳也、
奇術の花島世津子、マサヒロ水野も曲独楽をマジックに生かそうと
している。漫才の新鋭笑組の伊藤豊も稽古にうちこんでいる。
紋之助はサラリーマン生活からコントに展示、クロマニヨン・チェンの
名で国立劇場演芸場に出演したことがある。
紋也の弟子たちへの稽古は毎週水曜日に牛込区民センターを借りて稽古
会を開いており、稽古中は先輩後輩の区別をつけずに相互に教えあうよう
にしている。紋也の役割は器用と不器用なものをチェックし、一つの演目を
マスターするのにこれは何ヶ月かかりそうだと見抜くことにあるとのこと。
もっともこの集団練習に参加するためには基本技を身につけねばならない。
紋也指導の手順によると、次の通り。
1.両手廻し:まっすぐ回るようになるまで半年かかる
2.片手廻し:これも半年かかる、最初の1年間は廻すだけで手が豆だらけ
3.刀の刃渡り:刃物が怖いものだということを覚える、これは1年
4.投げ独楽:独楽をいかに美しく見せるかの心得を習得
この間に体の動き、しゃべりを身につけるため、日本舞踊、落語などの稽古が必要。
紋也は従来の独楽の動かし方にも工夫を加え、独楽が下から上がっていく
「花万燈」、キセルを2本使っての「燕返し」など新機軸を拓いた。
扇子の要返しとか、衣紋流し、など年齢が高くなるとやりにくくなる芸があるので
巳也などに教えているところだそうだ。
3年で基礎ができるのならばやってみたいかも思ったのは内緒だ。
曲独楽は物自体が高いので大人の道楽だよねえ。
第197号(1997) 「活気づいてきた太神楽」
昨年11月に第一期太神楽曲芸研修生発表会が行われた。
太神楽曲芸協会が発足したのは昭和12年、大衆芸能の芸人も登録制にして掌握
しようとした警視庁の要請で協会設立の運びとなったもので、「東京遊芸稼人」
の鑑札が交付された。
協会発足当時は、太神楽だけではなく、中国皿回し、玉乗り、自転車曲乗り、
紙霧など多彩な芸人300人が集まった。いまのように太神楽中心になったのは
戦後になってから、商店街がビルに変わり門付けが減り、占領軍の慰安では
獅子舞茶番などより少人数の曲芸が好まれ、形態の変化も余儀なくされた。
また下積みからきびしい修練を必要とする割りに報酬にめぐまれない太神楽の
世界が若者に敬遠された。
国立劇場での太神楽曲芸の研修は適正検査を経て3人が残り、聴講生の仙一、勝丸と
あわせて5人で授業を受けている。
全国各地に継承されている神楽集団を随時招き、競演を通して現在の江戸太神楽
が再び神楽芸の原点(獅子神楽)を探りつつ、活力を取り戻そうとしている。
第212号(1998)「羽ばたく太神楽の若者たち」
研修生一期生4人が無事終了。聴講生として参加していた仙一を除いて、他の3人は
いずれも素人、しかも研修生になるまで太神楽曲芸を一度も見たことがなく、どん
なものか挑戦してみたくなってのこの道入りであった。
応募者は10名、試験には6人が合格、適性検査を経て3人が残った。
2年半にわたった研修科目は、立てもの、投げもの、独楽、獅子舞のほか、囃子、
長唄、日本舞踊、発声、作法、体操、芸能史の講義など多岐にわたった。
立てものは笛の立て方から入り、五階茶碗。投げ物は撥の取り方からさばいかたまで。
独楽は廻し方、糸わたり、風車の順にすすめられた。獅子舞は最後の三ヶ月で
手ほどきをうけた。
当初は、投げ物、獅子舞を翁家系、たてものを鏡味系で担当しようという話が
持ち上がったが、教わる人は白紙だから皆であたろうと協会全体の責任で両派合同の
カリキュラムがつくられた。
一期生の指導にあたった喜楽は「生徒たちが素直で一生懸命にぶつかってくれたの
がよかった。。(略)たてもの、なげものそれぞれにきっちりんと主任講師をおく
必要を感じました」とふり返った。
著者:日本芸術文化振興会発行/国立劇場事業部宣伝課編集
雑誌:国立劇場演芸場(149,171,179,189,197, 212号)
これは国立劇場演芸場の番組内容を書いたパンフレットである。
この中に「寄席芸能の現状」という連載がありそこで1年に一度
太神楽の記事が書かれていた。現時点において連載はない。
パンフそのものが折りたたんだ紙になってしまい連載を書く余地が
なくなったためだと思われる。続いていてくれたらどんなによかったか。。
第149号(1992) 「活気づく水戸大神楽」
菊蔵・小菊父娘コンビと水戸大神楽の紹介が載っている。
徳川御三家の水戸藩の御用を勤めていた誇りとお祓いを中心に
行動しているため、「格調高く重々しさを大切に」と
申し伝えられている。
第159号(1993) 「十三代小仙を襲名する仙寿郎」
鏡味小仙が襲名されるという話題。翌年が12代目小仙の
十三回忌にあたることから、義母の十二代目未亡人をはじめ
寄席関係者から薦められて踏み切ったもの。
当時は昭和24年生まれの仙之助氏が最年少ということで、
江戸太神楽の存続が危惧されていたらしい。
今後の課題として、「民俗芸能祭り・演芸祭りを充実させる」、
「5人位を単位とした一座を幾つか編成、水戸さんのように少人数で
各地を巡演できるような活動基盤を作りたい」。
数年前から「わざおぎ塾」「ちろりん」で太神楽の指導にあたって
いる。
第171号(1994)「太神楽・花の三人娘」
翁家喜楽の娘である翁家喜乃、水戸大神楽の柳貴家小菊、柳貴家響子、
が注目を集めている。小菊と響子は従姉妹同士であり、小菊は正楽の娘、
響子は勝蔵の娘。一頭地抜けた小菊というサブタイトルがあり、「3人娘
の中では技芸的にリードした存在だ」、と書かれている。
第179号(1995)「太神楽曲芸の後継者養成」
太神楽曲芸の後継者難解消のため、日本芸術文化振興会では、この年の
9月から二年半がかりで太神楽曲芸の技芸者研修に乗り出した。
研修場所は国立劇場。
平成5年7月、日本演芸家連合と太神楽曲芸協会の連名で、日本芸術文化
振興会へ新人育成の要望書が提出された。
この時点で協会所属の技芸者は25人、昭和54年には43人だったので激減
していることになる。しかも70歳以上の高齢者が5人、最年少は奇術から
曲芸の勉強をしたくて鏡味小仙に師事するマサヒロ水野の昭和35年だが、
太神楽の技芸者としては昭和30年生まれの柳貴家勝蔵が若手筆頭であった。
研修の内容は、投げもの、立てもの、独楽、囃子、獅子舞、長唄など。
投げ物が翁家系、立て物が鏡味系の講師となっているのは、基本は同じだが
流派で教え方の手順が異なるので初心者の混乱を避けるため。
喜楽の体験も書かれており、最初は投げ物、次に立て物、一つ鞠、獅子舞
の順で学び、傘回しはいつの間にかできるようになっていたとのこと。
第189号(1996) 「後継者育成に励む紋也」
三増紋也の弟子が次々と頭角をあらわしているという記事。
娘で後継者に目されている小紋を筆頭に、紋之助、巳也、
奇術の花島世津子、マサヒロ水野も曲独楽をマジックに生かそうと
している。漫才の新鋭笑組の伊藤豊も稽古にうちこんでいる。
紋之助はサラリーマン生活からコントに展示、クロマニヨン・チェンの
名で国立劇場演芸場に出演したことがある。
紋也の弟子たちへの稽古は毎週水曜日に牛込区民センターを借りて稽古
会を開いており、稽古中は先輩後輩の区別をつけずに相互に教えあうよう
にしている。紋也の役割は器用と不器用なものをチェックし、一つの演目を
マスターするのにこれは何ヶ月かかりそうだと見抜くことにあるとのこと。
もっともこの集団練習に参加するためには基本技を身につけねばならない。
紋也指導の手順によると、次の通り。
1.両手廻し:まっすぐ回るようになるまで半年かかる
2.片手廻し:これも半年かかる、最初の1年間は廻すだけで手が豆だらけ
3.刀の刃渡り:刃物が怖いものだということを覚える、これは1年
4.投げ独楽:独楽をいかに美しく見せるかの心得を習得
この間に体の動き、しゃべりを身につけるため、日本舞踊、落語などの稽古が必要。
紋也は従来の独楽の動かし方にも工夫を加え、独楽が下から上がっていく
「花万燈」、キセルを2本使っての「燕返し」など新機軸を拓いた。
扇子の要返しとか、衣紋流し、など年齢が高くなるとやりにくくなる芸があるので
巳也などに教えているところだそうだ。
3年で基礎ができるのならばやってみたいかも思ったのは内緒だ。
曲独楽は物自体が高いので大人の道楽だよねえ。
第197号(1997) 「活気づいてきた太神楽」
昨年11月に第一期太神楽曲芸研修生発表会が行われた。
太神楽曲芸協会が発足したのは昭和12年、大衆芸能の芸人も登録制にして掌握
しようとした警視庁の要請で協会設立の運びとなったもので、「東京遊芸稼人」
の鑑札が交付された。
協会発足当時は、太神楽だけではなく、中国皿回し、玉乗り、自転車曲乗り、
紙霧など多彩な芸人300人が集まった。いまのように太神楽中心になったのは
戦後になってから、商店街がビルに変わり門付けが減り、占領軍の慰安では
獅子舞茶番などより少人数の曲芸が好まれ、形態の変化も余儀なくされた。
また下積みからきびしい修練を必要とする割りに報酬にめぐまれない太神楽の
世界が若者に敬遠された。
国立劇場での太神楽曲芸の研修は適正検査を経て3人が残り、聴講生の仙一、勝丸と
あわせて5人で授業を受けている。
全国各地に継承されている神楽集団を随時招き、競演を通して現在の江戸太神楽
が再び神楽芸の原点(獅子神楽)を探りつつ、活力を取り戻そうとしている。
第212号(1998)「羽ばたく太神楽の若者たち」
研修生一期生4人が無事終了。聴講生として参加していた仙一を除いて、他の3人は
いずれも素人、しかも研修生になるまで太神楽曲芸を一度も見たことがなく、どん
なものか挑戦してみたくなってのこの道入りであった。
応募者は10名、試験には6人が合格、適性検査を経て3人が残った。
2年半にわたった研修科目は、立てもの、投げもの、独楽、獅子舞のほか、囃子、
長唄、日本舞踊、発声、作法、体操、芸能史の講義など多岐にわたった。
立てものは笛の立て方から入り、五階茶碗。投げ物は撥の取り方からさばいかたまで。
独楽は廻し方、糸わたり、風車の順にすすめられた。獅子舞は最後の三ヶ月で
手ほどきをうけた。
当初は、投げ物、獅子舞を翁家系、たてものを鏡味系で担当しようという話が
持ち上がったが、教わる人は白紙だから皆であたろうと協会全体の責任で両派合同の
カリキュラムがつくられた。
一期生の指導にあたった喜楽は「生徒たちが素直で一生懸命にぶつかってくれたの
がよかった。。(略)たてもの、なげものそれぞれにきっちりんと主任講師をおく
必要を感じました」とふり返った。
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