初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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題名:雑録太神楽
著者:暁鶏成
雑誌:文藝倶楽部定期増刊号九巻二号(明治36年)316-318ページ
国立国会図書館にマイクロフィッシュの形で保管されている。
この本は大日本太神楽曲芸協会が昭和17年に出した「太神楽由来記」の
種本だと言われている。(「太神楽考」、山路興造著による)
概要は次の通り。
・「太神楽」はそのはじめ「太々神楽」と称したのを省略したもの。
是に対するものを「小神楽」と名づけている。
・もともとは一つだったものが王朝の中世から二派に分かれて、
「熱田派」「伊勢派」になっている。
・熱田派は、白丸一(鏡味権之進)、大丸(菊田靱負)が主なもの。
以前は山神楽ともいって尾州熱田神社の大宮司千秋伊勢守の下に属していた。
その配下の神主の次男三男などが習うとなく慣れるとなく、自然に是が
巧みになって、太々神楽といわず、一口に太神楽と唱えだした挙句、
国許にばかりいたところで仕方がないからと一同相談の上、寛政4年に
大宮司の許しを得て江戸に出た。その時は悪魔祓いと名づけて、大小名の
屋敷を軒別に歩き、この年の3月に帰国した。江戸に出るために苗字帯刀御免に
なった。これから年々上京するのが例となった。
徳川四代将軍家綱の寛文9年正月に時の寺社奉行加賀爪甲斐守、小笠原山城守
勤役中に吹き上げのお庭で上覧に供したことがある。これとともに江戸に移り
住んで年々に上覧の栄を賜わったのみならず、山王権現、神田明神の祭礼には
先祓いの役目を務めることになった。移住するもの引きも切らず後年組合を設けた。
12人(名前の記述がある)を順々に割り当てて年番というものを決めた。
・伊勢派は、伊勢内宮の支配に属して、鈴川高の宮明神の社から成り立ったもので、。
あるが江戸に出たのは熱田派と比べるとおよそ2-30年後である。
延宝2年に寺社奉行の許しを得て、江戸にすみ、延享年中には伊勢派の組合が作られた。
・当初は優美高尚を主としたもので、年を経るにしたがって現在のような面白いもの
になった。宝暦4年の7月に寺社奉行から太神楽職渡辺文太夫へ、太神楽の古実を質問
した。その書上げ書は次のとおり。
一、私共太神楽相勤務候節、獅子頭を用い申し候義は神代の地神第四代火酸芹尊(ほすせりのみこと)、禁裏を守護なされ候間、諸社の神前にも非常を禁じ候ために、獅子を据え候、是によりて、辻町において太神楽相勤め、其所の邪気を相掃い候ために相用い申し候事
一、笛を吹き申し候事天照大神の御時、天鈿女命神楽を奏し、天恩兼神天香久山の竹をとり、節中を通じ気息を通わし、笛と名付け吹申候事、イザナキの尊の御時、鼓、笛、旗を以って謡ひ舞ふて祭ると申義、神代の巻に相見え申候事
一、太鼓はゑつづみ、小鼓はをとつづみと申候て、神代以来の相伝は仔細に御座候
一、神代天盤戸神楽の節、弓六張相並べ、弦を鳴らし申し候由、是を和琴の始めと仕候て、全て神事に和琴用い申候、末代に罷り成、和琴は下々に用ゐ難く御座候故、三味線を仮に用ゐ申候事
一、面を用ゐ申候義は、翁の相伝と申事に御座候由、四座の能太夫も吉田家より、翁の面を用ゐ候由に御座候、諸社祭礼の節、猿田彦の面を用ゐ申候事
一、踊申候義は、神代うたひ舞ふて祭ると申せし、遺風に御座候、又いろいろ拍子を取り申候義は、天盤戸神楽の節、木拍子を取り申候、伊勢十部の秘書の内、御鎮座本紀、寶基本紀等に相見え申候事
一、又謡物仕候義も、催馬楽の略に御座候矛を用ゐ申候義は太平楽舞の節、太刀鉾を用ゐ申候義に有之、十二座神楽の節相用ゐ申候事
一、鞠を用ゐ候義は、天照太神の手玉、足玉などと申す略に御座候て、相用ゐ申候事、総べて五調子と申事鼓、笛等鳴物の義は、神事本紀に相見え申候事
・文化14年12月10日に熱田派と伊勢派双方協議の上、毎年正59月には、時の年番の宅
にて天下泰平、五穀豊穣の御祈祷を執行すること。
神行の節には、浄衣、風折烏帽子着用の上、御祈祷には最も丹精を抽で勤めること
節分、大晦日、6日、14日、冬至、有卦、御遷宮は夜分まで神行すること
著者:暁鶏成
雑誌:文藝倶楽部定期増刊号九巻二号(明治36年)316-318ページ
国立国会図書館にマイクロフィッシュの形で保管されている。
この本は大日本太神楽曲芸協会が昭和17年に出した「太神楽由来記」の
種本だと言われている。(「太神楽考」、山路興造著による)
概要は次の通り。
・「太神楽」はそのはじめ「太々神楽」と称したのを省略したもの。
是に対するものを「小神楽」と名づけている。
・もともとは一つだったものが王朝の中世から二派に分かれて、
「熱田派」「伊勢派」になっている。
・熱田派は、白丸一(鏡味権之進)、大丸(菊田靱負)が主なもの。
以前は山神楽ともいって尾州熱田神社の大宮司千秋伊勢守の下に属していた。
その配下の神主の次男三男などが習うとなく慣れるとなく、自然に是が
巧みになって、太々神楽といわず、一口に太神楽と唱えだした挙句、
国許にばかりいたところで仕方がないからと一同相談の上、寛政4年に
大宮司の許しを得て江戸に出た。その時は悪魔祓いと名づけて、大小名の
屋敷を軒別に歩き、この年の3月に帰国した。江戸に出るために苗字帯刀御免に
なった。これから年々上京するのが例となった。
徳川四代将軍家綱の寛文9年正月に時の寺社奉行加賀爪甲斐守、小笠原山城守
勤役中に吹き上げのお庭で上覧に供したことがある。これとともに江戸に移り
住んで年々に上覧の栄を賜わったのみならず、山王権現、神田明神の祭礼には
先祓いの役目を務めることになった。移住するもの引きも切らず後年組合を設けた。
12人(名前の記述がある)を順々に割り当てて年番というものを決めた。
・伊勢派は、伊勢内宮の支配に属して、鈴川高の宮明神の社から成り立ったもので、。
あるが江戸に出たのは熱田派と比べるとおよそ2-30年後である。
延宝2年に寺社奉行の許しを得て、江戸にすみ、延享年中には伊勢派の組合が作られた。
・当初は優美高尚を主としたもので、年を経るにしたがって現在のような面白いもの
になった。宝暦4年の7月に寺社奉行から太神楽職渡辺文太夫へ、太神楽の古実を質問
した。その書上げ書は次のとおり。
一、私共太神楽相勤務候節、獅子頭を用い申し候義は神代の地神第四代火酸芹尊(ほすせりのみこと)、禁裏を守護なされ候間、諸社の神前にも非常を禁じ候ために、獅子を据え候、是によりて、辻町において太神楽相勤め、其所の邪気を相掃い候ために相用い申し候事
一、笛を吹き申し候事天照大神の御時、天鈿女命神楽を奏し、天恩兼神天香久山の竹をとり、節中を通じ気息を通わし、笛と名付け吹申候事、イザナキの尊の御時、鼓、笛、旗を以って謡ひ舞ふて祭ると申義、神代の巻に相見え申候事
一、太鼓はゑつづみ、小鼓はをとつづみと申候て、神代以来の相伝は仔細に御座候
一、神代天盤戸神楽の節、弓六張相並べ、弦を鳴らし申し候由、是を和琴の始めと仕候て、全て神事に和琴用い申候、末代に罷り成、和琴は下々に用ゐ難く御座候故、三味線を仮に用ゐ申候事
一、面を用ゐ申候義は、翁の相伝と申事に御座候由、四座の能太夫も吉田家より、翁の面を用ゐ候由に御座候、諸社祭礼の節、猿田彦の面を用ゐ申候事
一、踊申候義は、神代うたひ舞ふて祭ると申せし、遺風に御座候、又いろいろ拍子を取り申候義は、天盤戸神楽の節、木拍子を取り申候、伊勢十部の秘書の内、御鎮座本紀、寶基本紀等に相見え申候事
一、又謡物仕候義も、催馬楽の略に御座候矛を用ゐ申候義は太平楽舞の節、太刀鉾を用ゐ申候義に有之、十二座神楽の節相用ゐ申候事
一、鞠を用ゐ候義は、天照太神の手玉、足玉などと申す略に御座候て、相用ゐ申候事、総べて五調子と申事鼓、笛等鳴物の義は、神事本紀に相見え申候事
・文化14年12月10日に熱田派と伊勢派双方協議の上、毎年正59月には、時の年番の宅
にて天下泰平、五穀豊穣の御祈祷を執行すること。
神行の節には、浄衣、風折烏帽子着用の上、御祈祷には最も丹精を抽で勤めること
節分、大晦日、6日、14日、冬至、有卦、御遷宮は夜分まで神行すること
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