初老初級ジャグラーの日記です。
ジャグリングを始めたのは2004年。ボールと傘を中心に投げたりまわしたりしてます。2005年1月にクラブを始めましたが、いまだに3クラブカスケードしかできません。花籠鞠、一つ鞠も始めましたが、まだ基本パターンもできません。
技の習得には通常言われている期間の4倍から5倍かかりますが、投げていること自体が好きなのでじわじわ続けています。
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題名:翁の座―芸能民たちの中世
著者:山路興造
出版社: 平凡社 (1990/03)
ISBN-10: 4582246044
目次:
1 芸能民たちの中世
(中世芸能の変質―「道」の芸能者から「手」の芸能者へ
被差別民芸能の変遷
「さゝら」とさゝら説経
万歳の成立)
2 翁と神事猿楽
(「翁猿楽」考
常行堂修正会と芸能
「翁」と群小猿楽座
群小猿楽座の動静
洛中洛外の神事猿楽
丹波猿楽日吉大夫考
近江猿楽座考)
これは著者が中世の芸能民たちについた論文の集大成の本。
序文において「風流」の解説を次のようにしている。
--
本来、風流という語は意匠ある趣向そのものをさす語であって、「風流」と
呼ぶ固有の芸能があったわけではない。(中略)のちには、風流の趣を尽くした
諸芸能のうち、拍子物の一種や延年の演目を単に「風流」の名で呼んだ場合も
あったが、これは風流の拍子物、風流を主眼とした延年などの略語であり、
イメージの固定化である。
***
「風流」の特色をどのように捉えたらよいのであろうか。
まずその第一は、人の目を驚かせることに眼目があったということになる。
換言すれば、趣向に命をかけた美意識、一回性に本質を求めた美意識である。
同じ場所で趣向を2回3回繰り返せばすでにそれは「風流」でなくなるのである。
ということは、「風流」という範疇に入る芸能は、創造にこそ生命をかけたが、
型の継承というものは皆無ということになる。修練による型の継承を拒否した
ところに存在するといっても過言ではない。
***
その観点からすれば、今日に伝承された風流系芸能は、すでにその風流としての
精神を失っているといっても過言ではない。
***
私は、風流系芸能の第一の特色として、創意ある趣向を生命とするもので、繰り
返しによる修練や「型」の伝承を拒否したところに成立することをあげたが、
技術の鍛錬を要求しないとなれば、その演者は専業の芸能者である必要はない。
素人がそれぞれ工夫を凝らすことにより成り立つのである。
すなわち、その時代に生きる一般の人々の美の意識がストレートに表現できる。
これを「風流」の第二の特色にあげることができるのだが、第一と第二は表裏の
関係にあるといっても良い。
--
実は風流というものがなんなのか理解しかねていたのだが、この解説をよんで
なんだかすごく納得できた。でも一般的な解釈なのか?>風流
また、宗教との関連について。。
--
わが国に伝承された芸能の背景には、本質的に呪術性があるという意見には、
私は大きな疑問を抱いている。
***
「呪能から芸能へ」という図式や「宗教から芸能へ」という発展論で
割りきってしまえない部分があるように思うのである。
その理由のひとつは、わが国の芸能には、古代において、呪術的要素など、
本来芸能が持っていたであろう背景を一切切り捨てた完成された姿で、大陸から
大量に導入されたことがあげられる。
***
律令体制のなかで、仏教行事の荘厳楽として、また宮廷儀礼の楽として移入された
大陸の芸能は、伝来当初からそれ自体に呪術的要素があったわけではない。基本的
には律令体制下の国家行事を荘厳するために、国家自体の手によって招来され、
伝習されたものとかんがえられる。
***
律令制社会およびその後に続く荘園公領体制下の社会において、支配者階級に
よって経済的裏づけを与えられた中央・地方の大社寺にあっては、その法会や
祭礼を荘厳すべき専業の芸能者が、その経済的庇護の下に存在したと思われる。
彼らは「道々遊者」とか」「道々の者」などと呼ばれて、生産活動に携わる
平民とは区別されたかもしれないが、職能を持った専業の民として蔑視される
ようなことはなかったと考える。
この「道々遊者」が演じた芸能が、多く外来系の芸能であったことはもちろんで、
伎楽・舞楽はもとより、散楽(猿楽)、田楽、傀儡、呪師、獅子舞などがあげられる。
--
宗教とは切り離された形で芸能がはじまったとする考えはかなり新鮮。
それにもともとは差別されていなかったらしい>芸能者。
もっとも千秋萬歳のように当初から被差別民によって行われていたらしい芸能もある。
1319年ごろには千秋萬歳が猿楽を演じるという公演の記録が出てくる。千秋萬歳に
限ったことではなく、田楽者が猿楽を演じたり、獅子舞が猿楽を演じるなどのことが
目立ち始め、本来の芸能者同士のテリトリーの原則が崩れだすようになるとのこと。
ディアボロのプロも10世紀からいたらしい。
「年中行事絵巻」巻12の祇園会の馬長童(めちょうわらわ)行列の場面に描かれる
街頭で輪鼓をまわしている烏帽子姿の雑芸者がそれである。
また14世紀にはジャグラーが。。
--
奈良の法隆寺に貞和5年(1349)に現れた手鞠突きの少年もそういう芸能者のひとり
であった。
己丑閏六月七日、御舎利殿ニ手マリ突児来、手マリヲ突 年十六七許也、(中略)
後日可参ト云給、次日八日礼堂ニテ突、上下諸人市成、曲舞一、次手マリ、
次にホネナシ、小刀ヲ口ニ一クワエ、左右一ツツ、三以ッテカエル、用途五百文
被下行、御舎利供養ヲ足スル預沙汰也
--
ダンスにジャグラーに軟体のショーだったらしい。口に刀をくわえるのは軟体か?
現在の中国雑技でも両手と口に灯りを持つ芸があるので、それと似た芸かも。
放下僧がささらを持つのはなぜか?また大神楽では?
--
私は、すでにこのころ、竹という植物によって作られた「ささら」というものが、
社会組織の外に置かれた、人にあらざる者の身分を象徴するものと見受けられて
いたのではないかと考える。
***
世俗の身分を放下し、あるいは世間を捨てて遁世した宗教者たちが、自らの身を
社会の組織外に置いた証として非人身分を名乗り、その象徴としてささらを手に
したのではないかと思うのである。
***
しかし方便としての非人身分も次の代からは本当の非人身分となる。
***
今日、大神楽系の獅子舞は全国規模で分布しているが、それは中世最末期から
近世にかけて、伊勢神宮の信仰(後には熱田神宮なども)を持った下級宗教者
が、獅子頭を神座として諸国をまわり、その獅子の舞や、余興としての放下師
系の曲芸を見せて回ったからにほかならない。この獅子舞には獅子あやしとして
の道化がついたが、その役は採り物としたささらに象徴されるような身分の者が
受け持たされたようである。もちろん、大神楽という芸能が誕生した伊勢という
地が、ささらという楽器にとって縁の深いところであることは記すまでもなかろう
--
「ささら」というものが非人に関するシンボルになっていたとは知らなかった。
しかも当初の利用者の意図からどんどんはずれて差別の道具になっていくのね。
著者:山路興造
出版社: 平凡社 (1990/03)
ISBN-10: 4582246044
目次:
1 芸能民たちの中世
(中世芸能の変質―「道」の芸能者から「手」の芸能者へ
被差別民芸能の変遷
「さゝら」とさゝら説経
万歳の成立)
2 翁と神事猿楽
(「翁猿楽」考
常行堂修正会と芸能
「翁」と群小猿楽座
群小猿楽座の動静
洛中洛外の神事猿楽
丹波猿楽日吉大夫考
近江猿楽座考)
これは著者が中世の芸能民たちについた論文の集大成の本。
序文において「風流」の解説を次のようにしている。
--
本来、風流という語は意匠ある趣向そのものをさす語であって、「風流」と
呼ぶ固有の芸能があったわけではない。(中略)のちには、風流の趣を尽くした
諸芸能のうち、拍子物の一種や延年の演目を単に「風流」の名で呼んだ場合も
あったが、これは風流の拍子物、風流を主眼とした延年などの略語であり、
イメージの固定化である。
***
「風流」の特色をどのように捉えたらよいのであろうか。
まずその第一は、人の目を驚かせることに眼目があったということになる。
換言すれば、趣向に命をかけた美意識、一回性に本質を求めた美意識である。
同じ場所で趣向を2回3回繰り返せばすでにそれは「風流」でなくなるのである。
ということは、「風流」という範疇に入る芸能は、創造にこそ生命をかけたが、
型の継承というものは皆無ということになる。修練による型の継承を拒否した
ところに存在するといっても過言ではない。
***
その観点からすれば、今日に伝承された風流系芸能は、すでにその風流としての
精神を失っているといっても過言ではない。
***
私は、風流系芸能の第一の特色として、創意ある趣向を生命とするもので、繰り
返しによる修練や「型」の伝承を拒否したところに成立することをあげたが、
技術の鍛錬を要求しないとなれば、その演者は専業の芸能者である必要はない。
素人がそれぞれ工夫を凝らすことにより成り立つのである。
すなわち、その時代に生きる一般の人々の美の意識がストレートに表現できる。
これを「風流」の第二の特色にあげることができるのだが、第一と第二は表裏の
関係にあるといっても良い。
--
実は風流というものがなんなのか理解しかねていたのだが、この解説をよんで
なんだかすごく納得できた。でも一般的な解釈なのか?>風流
また、宗教との関連について。。
--
わが国に伝承された芸能の背景には、本質的に呪術性があるという意見には、
私は大きな疑問を抱いている。
***
「呪能から芸能へ」という図式や「宗教から芸能へ」という発展論で
割りきってしまえない部分があるように思うのである。
その理由のひとつは、わが国の芸能には、古代において、呪術的要素など、
本来芸能が持っていたであろう背景を一切切り捨てた完成された姿で、大陸から
大量に導入されたことがあげられる。
***
律令体制のなかで、仏教行事の荘厳楽として、また宮廷儀礼の楽として移入された
大陸の芸能は、伝来当初からそれ自体に呪術的要素があったわけではない。基本的
には律令体制下の国家行事を荘厳するために、国家自体の手によって招来され、
伝習されたものとかんがえられる。
***
律令制社会およびその後に続く荘園公領体制下の社会において、支配者階級に
よって経済的裏づけを与えられた中央・地方の大社寺にあっては、その法会や
祭礼を荘厳すべき専業の芸能者が、その経済的庇護の下に存在したと思われる。
彼らは「道々遊者」とか」「道々の者」などと呼ばれて、生産活動に携わる
平民とは区別されたかもしれないが、職能を持った専業の民として蔑視される
ようなことはなかったと考える。
この「道々遊者」が演じた芸能が、多く外来系の芸能であったことはもちろんで、
伎楽・舞楽はもとより、散楽(猿楽)、田楽、傀儡、呪師、獅子舞などがあげられる。
--
宗教とは切り離された形で芸能がはじまったとする考えはかなり新鮮。
それにもともとは差別されていなかったらしい>芸能者。
もっとも千秋萬歳のように当初から被差別民によって行われていたらしい芸能もある。
1319年ごろには千秋萬歳が猿楽を演じるという公演の記録が出てくる。千秋萬歳に
限ったことではなく、田楽者が猿楽を演じたり、獅子舞が猿楽を演じるなどのことが
目立ち始め、本来の芸能者同士のテリトリーの原則が崩れだすようになるとのこと。
ディアボロのプロも10世紀からいたらしい。
「年中行事絵巻」巻12の祇園会の馬長童(めちょうわらわ)行列の場面に描かれる
街頭で輪鼓をまわしている烏帽子姿の雑芸者がそれである。
また14世紀にはジャグラーが。。
--
奈良の法隆寺に貞和5年(1349)に現れた手鞠突きの少年もそういう芸能者のひとり
であった。
己丑閏六月七日、御舎利殿ニ手マリ突児来、手マリヲ突 年十六七許也、(中略)
後日可参ト云給、次日八日礼堂ニテ突、上下諸人市成、曲舞一、次手マリ、
次にホネナシ、小刀ヲ口ニ一クワエ、左右一ツツ、三以ッテカエル、用途五百文
被下行、御舎利供養ヲ足スル預沙汰也
--
ダンスにジャグラーに軟体のショーだったらしい。口に刀をくわえるのは軟体か?
現在の中国雑技でも両手と口に灯りを持つ芸があるので、それと似た芸かも。
放下僧がささらを持つのはなぜか?また大神楽では?
--
私は、すでにこのころ、竹という植物によって作られた「ささら」というものが、
社会組織の外に置かれた、人にあらざる者の身分を象徴するものと見受けられて
いたのではないかと考える。
***
世俗の身分を放下し、あるいは世間を捨てて遁世した宗教者たちが、自らの身を
社会の組織外に置いた証として非人身分を名乗り、その象徴としてささらを手に
したのではないかと思うのである。
***
しかし方便としての非人身分も次の代からは本当の非人身分となる。
***
今日、大神楽系の獅子舞は全国規模で分布しているが、それは中世最末期から
近世にかけて、伊勢神宮の信仰(後には熱田神宮なども)を持った下級宗教者
が、獅子頭を神座として諸国をまわり、その獅子の舞や、余興としての放下師
系の曲芸を見せて回ったからにほかならない。この獅子舞には獅子あやしとして
の道化がついたが、その役は採り物としたささらに象徴されるような身分の者が
受け持たされたようである。もちろん、大神楽という芸能が誕生した伊勢という
地が、ささらという楽器にとって縁の深いところであることは記すまでもなかろう
--
「ささら」というものが非人に関するシンボルになっていたとは知らなかった。
しかも当初の利用者の意図からどんどんはずれて差別の道具になっていくのね。
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